陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

何かを書いてみたい人のために その6.

2006-06-29 22:31:15 | 
6.個へ、断片へ

その昔読んだきりになっていて、本の方が見つからないのだけれど、カルチャーセンターか何かで教えた山口文憲が、「電車の中でのマナーの話はどうやってもおもしろくないから、絶対に書かない」と言っている部分があった。

おもしろくなりようのない話とは、ことばを換えれば、「自分らしく書きようのない」テーマということだ。それはどうしてなのだろう。

ヴェーユは《ことばは機械的なものであるかぎり危険です。》と言っている。

わたしたちが自分の現在感じている感情に名前をつけるとする。すると、その感情を対象として眺めることができるようになる。反面、そのことばに、逆にわたしたちの感情の方が、引きずられることもある。ヴェーユが「危険」というのは、こういうことばの使い方だ。

ある種のことばは、使われてきた歴史の中で、すでに使われ方が決まっているパターンのことばとなっている。
たとえば、「人のぬくもり」ということばがそうだ。
このことばにはすでに価値判断が含まれている。この価値判断によりかかって、安易に話を展開させることができる。容易に結末がつけられる。ちょっとした具体例をあげて、「人のぬくもりを感じた」とまとめることができる。
もちろん間違ってはいないし、反対もできない(する気にもなれない)。けれども、こうした価値判断を含んだことばというのは、類型化に抗して自分独自の考え方を織り込むことがむずかしい。

あるいは、人を「優しい人」「善人」といった類型化に押し込めてしまう。「無垢な子供」、「守銭奴」、「頭はいいけれど人間味のない人」……。
いったんそういうことばを人に対して当てはめてしまうと、その人をその相でしか見ることができなくなってしまう。そうして人を性格の類型でとらえるとき、わたしたちはその人を具体的に見ることをやめてしまう。

類型的な人間が登場する話は、類型的な物語以外になりようがない。
そういうものは、決して「自分しか書けない」話にはならない。
ヴェーユは言う。

《人間は、一般的なものから個別的なものへ、抽象的なものから具体的なものへと高まっていくものなのです》

新学期になって、新しいクラスに入る。クラスの子は、みんな「クラスメイト」でしかない。男子、女子、眼鏡をかけている、髪が長い……そういうところから始まって、わたしたちは、相手のことを徐々に具体的に知っていく。

「物が抽象から抜けだして具体のなかへ移行するのは、もっぱら感情のおかげです」

わたしたちが、世界にただひとりしかない、かけがえのない相手、と思う対象は多くはない。そうして、そう思う相手が現れたとき、わたしたちはその相手のことを知りたいと思う。それは類型的なことばに押し込めようとすることでも、レッテルをはったりすることでもない。どんなことばでもその人を現すことはできないし、どれほど時間を共にしても、理解できない、もっと知りたい、と思う。

《このように、人がふつう考えているのとは反対に、個々の物について観想するということは、人間を高めることであり、人間を動物から区別することでもあります。》

このヴェーユのことばを実践にうつすとこうなっていく。

 生きている個人を捉えるためには、ある特定の時間と場所における、ある具体的な、表情、行動、服装、会話、その他、もろもろのハプニングにも等しい細部(=断片)を書くことが必要です。具体的な裏づけがあってはじめて抽象的な類型化も読者に対して説得力を持つのです。
梅田卓夫『文章表現四〇〇字からのレッスン』


具体的に見るということはどうやって可能になるのか?
それは、その人の仕草や動作、外見の様子を文章にしてみるということだ。
頭の中で考えれば文章は書けるわけではない。紙の上に書きつけて、あるいはキーボードを叩いて液晶画面に文字として浮かび上がらせて、はじめて文章が浮かび上がる。
断片から書いていく。

「電車の中でお化粧をする女子校生」と書けば、価値判断をつれてくる。
「真剣このうえない顔で、片手持った鏡をのぞきこみながら、もういっぽうの手首を奇妙な角度に曲げて固定して、まぶたのうえに黒い太い線を一気に引いた」と書けば、価値判断からも、類型化からも、自由になることができる。
この断片は、ほかの断片とつながることで、新たな意味を持ち始めるし、全体へ向けての想像を誘うのだ。

(この項つづく)