2.自分にしか書けないもの
「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」
目標は決まった。
それではいったい何を書いたらいいのだろう。
「今日、わたしは……」
あれ、おかしい。
自分のことを書いているはずなのに。
まぎれもなく、今日、自分が体験したことなのに。
自分で書いていながら、ちっとも自分のもののような気がしない。
わたしにしか書けないものはいったいどこにあるのだろう。
何を書いたら「わたしにしか書けないもの」になるのだろう。
考えれば考えるほどわからなくなる。
海を見た。日がきらきら反射して、うっとりするほどだった。
だけど、それを書こうとしても、どこかで見たような文章になってしまう。
でも、これはあたりまえのことなのだ。
わたしたちが書こうとしているのは、「ことば」だ。
「ことば」は、「もの」そのものではない。
そうして、「書かれた文字」は、「ことば」そのものでもないのだ。
わたしたちが書いている「ことば」は二重に人工的なものだ。
この「ことば」を使って、わたしたちは何ができるのか。そのことをまず見ておこう。
◆「ことば」にできること
シモーヌ・ヴェーユは『哲学講義』のなかでこのように言っている。
《ことばが操作しうるものである》
《私たちはことばのおかげで、どんなものでも呼びおこすことができます。ことばはこうして私たちを能動的な存在に変えます。》
わたしたちは、現実の太陽や星に対しては、何をすることもできない。けれども「太陽」ということばや、「星」ということばに対しては、どのようにも操作できる。西から昇らせることもできれば、太陽に、だれかを、あるいは何ものかを象徴させることもできる。太陽がなぜ燃え続けているかを説明することもできる。太陽のことを語りながら、まったく別のことを語ることもできる。なんでもできるのだ。
《ことばは私たちに不在であるすべての事物をもたらしてくれます。》
いまは会うことのできない人を、もちろんことばなしで、思い浮かべることもできるけれど、その人がどんな人なのか、過去にどんなことがあったのか、自分はそのときどう思って、いまはどう思っているか、ことばなしでは正確に呼び起こすことはできない。
ことばがなければ、いまのこの思いと、過去の思い、そうして未来を結びつけることもできない。
ことばがなければ、いまあることを結果と見て、過去をさかのぼって原因を探り当てることもできない。
つまり、ことばは世界をつくりなおすことをわたしたちに可能にしてくれるのだ。
ことばは何ら、実体を伴うものではない。
だからこそ、なんでも言える、なんでも書ける、そうして、言わないことも、書かずにいることもできるのだ。
◆なぜ、「ことば」を書くのだろう
そういうことばを書きつけることによって、そこに留めておくために。
別の言い方をすれば、「書く」ということは、もともと読み手を想定しているということだ。たとえ日記でも、それは「未来」の自分に向かって書いている。
『文章表現 四〇〇字からのレッスン』にはこうある。
◆「だれに向かって書くか」を決めてみる
まずはここから始めてみよう。
「わたし」は誰に向けて書いているのか。
特定の人でもいい。
未来の自分でもいい。
特に思い当たらなければ、「ミステリをかなりよく読んでいる人」、「英語の翻訳を勉強している人」、「明治期の日本の小説に興味のある人」、「試験監督」、だれでもいい、できるだけ具体的に読み手を考える。
意識していなくても、「文章を書く」ということは、読み手をどこかに設定しているということだ。
それをはっきりと自分で定めてみる。
そうすることによって、逆に「書いている自分」の位置が決まってくるのだ。
(この項つづく)
「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」
目標は決まった。
それではいったい何を書いたらいいのだろう。
「今日、わたしは……」
あれ、おかしい。
自分のことを書いているはずなのに。
まぎれもなく、今日、自分が体験したことなのに。
自分で書いていながら、ちっとも自分のもののような気がしない。
わたしにしか書けないものはいったいどこにあるのだろう。
何を書いたら「わたしにしか書けないもの」になるのだろう。
考えれば考えるほどわからなくなる。
海を見た。日がきらきら反射して、うっとりするほどだった。
だけど、それを書こうとしても、どこかで見たような文章になってしまう。
でも、これはあたりまえのことなのだ。
わたしたちが書こうとしているのは、「ことば」だ。
「ことば」は、「もの」そのものではない。
そうして、「書かれた文字」は、「ことば」そのものでもないのだ。
わたしたちが書いている「ことば」は二重に人工的なものだ。
この「ことば」を使って、わたしたちは何ができるのか。そのことをまず見ておこう。
◆「ことば」にできること
シモーヌ・ヴェーユは『哲学講義』のなかでこのように言っている。
《ことばが操作しうるものである》
《私たちはことばのおかげで、どんなものでも呼びおこすことができます。ことばはこうして私たちを能動的な存在に変えます。》
わたしたちは、現実の太陽や星に対しては、何をすることもできない。けれども「太陽」ということばや、「星」ということばに対しては、どのようにも操作できる。西から昇らせることもできれば、太陽に、だれかを、あるいは何ものかを象徴させることもできる。太陽がなぜ燃え続けているかを説明することもできる。太陽のことを語りながら、まったく別のことを語ることもできる。なんでもできるのだ。
《ことばは私たちに不在であるすべての事物をもたらしてくれます。》
いまは会うことのできない人を、もちろんことばなしで、思い浮かべることもできるけれど、その人がどんな人なのか、過去にどんなことがあったのか、自分はそのときどう思って、いまはどう思っているか、ことばなしでは正確に呼び起こすことはできない。
ことばがなければ、いまのこの思いと、過去の思い、そうして未来を結びつけることもできない。
ことばがなければ、いまあることを結果と見て、過去をさかのぼって原因を探り当てることもできない。
つまり、ことばは世界をつくりなおすことをわたしたちに可能にしてくれるのだ。
ことばは何ら、実体を伴うものではない。
だからこそ、なんでも言える、なんでも書ける、そうして、言わないことも、書かずにいることもできるのだ。
◆なぜ、「ことば」を書くのだろう
そういうことばを書きつけることによって、そこに留めておくために。
別の言い方をすれば、「書く」ということは、もともと読み手を想定しているということだ。たとえ日記でも、それは「未来」の自分に向かって書いている。
『文章表現 四〇〇字からのレッスン』にはこうある。
私たちが書く文章は、本人が自分を他者に向かって〈このように見せたい〉というフィルターにかけて選択した、結果としてのことば(表現)なのです。
◆「だれに向かって書くか」を決めてみる
まずはここから始めてみよう。
「わたし」は誰に向けて書いているのか。
特定の人でもいい。
未来の自分でもいい。
特に思い当たらなければ、「ミステリをかなりよく読んでいる人」、「英語の翻訳を勉強している人」、「明治期の日本の小説に興味のある人」、「試験監督」、だれでもいい、できるだけ具体的に読み手を考える。
意識していなくても、「文章を書く」ということは、読み手をどこかに設定しているということだ。
それをはっきりと自分で定めてみる。
そうすることによって、逆に「書いている自分」の位置が決まってくるのだ。
(この項つづく)