1.メアリー・マッカーシーってだれ?
二週間近くにも渡ってお送りしてきた"The Friend of The Family"、これは、1950年に出版された短編集"Cast a Cold Eye"(冷たい目を向けよ――W.B.イェイツの墓碑銘の一節でもある)に所収されたもの。彼女が本格的な創作活動を始めた作品とされるThe Oasisが1949年の作品であるから(デビュー作は1942年のThe Company She Keeps)初期の短編のひとつといってもいいだろう。
メアリー・マッカーシーは、1912年ワシントン州シアトルに生まれた。
わずか六歳の時、インフルエンザによって両親を相次いで失い、メアリーと四人の弟(映画スターのケヴィン・マッカーシーは実弟)はミネアポリスに住む父方の「厳格な大伯母さんとそのサディスティックな夫(メアリー・マッカーシー『グループ』小笠原豊樹訳 ハヤカワ文庫の訳者あとがきよりの孫引き)」の家に預けられる。
十一歳の時、今度は母方の祖父に「救出」され、シアトルに戻る。この高名な弁護士であった祖父の下で、メアリーは十分な教育を受け、大恐慌のおこった1929年、名門ヴァッサー女子大(現在は共学)に入学する。
1933年、卒業式の一週間後に劇作家志望の若い俳優ハロルド・ジョンスラッドと結婚。けれどもこの結婚は1936年には破綻し、1937年に、マッカーシーはコヴィチ・フリード出版社(publishing house of Covici-Friede)の編集助手として働き始め、その後、季刊誌「パルティザン・レヴュウ」の編集スタッフとして、おもに劇評を手がけるようになる。また「ネイション」「ニュー・リパブリック」にも寄稿している。
「パルティザン……」の仕事を通じて知り合った文芸評論家エドマンド・ウィルスン(『死海写本―発見と論争1947‐1969』の作者でもある)と1938年再婚し、一子ルーエルを得る。
この時期、エドマンドの勧めで創作に手を染めるようになり、連作短編集"The Company She Keeps"(「彼女の仲間たち」)を1942年発表。けれどもこの結婚も8年目にして破綻する。離婚後、いくつかの大学で教鞭を執りながら、同年、雑誌「ニューヨーカー」のスタッフ・ライターだったボーデン・ブロードウォーターと三度目の結婚をする。
1949年には、最初の長編"The Oasis"(「オアシス」:知識人たちが、高い理想を持ち、ユートピア的コミュニティを築こうとするが、人間の悪事に直面して失敗する)を発表、1950年には前述の短編集"Cast a Cold Eye"、1952年第二長編"The Groves of Academe"(「学園の杜」)、また創作だけでなく、演劇論集や、1957年には自伝"Memories of a Catholic Girlhood"(「あるカソリック少女の思い出」)、1956年と1959年にはイタリアを訪れその成果を、それぞれ美術論集"Venice, Observed"(「ベネチアの観察」)、The Stones of Florence(『フィレンツェの石』幸田 礼雅訳 新評論)として刊行するなど、1961年までに八つの作品を発表した。
1959年、メアリー、そして夫のボーデン・ブロードウォーターと息子のルーウェル・ウィルソンは、ヨーロッパを旅行する。その後、国務省主催の講演旅行に出席することになったメアリーとともに、家族全員でポーランドを訪れる。一行は同年12月29日ワルシャワでアメリカ大使館の広報担当官、ジェイムズ・ウェストの出迎えを受けた。
このジェイムズ・ウェスト(当時こちらも既婚者)とメアリーはたちまち恋に落ちる。ボーデンとルーエルが帰国する一月の半ばには、ウェストはすでにメアリーに求婚するまでになっていた(この間の経緯は『アーレント=マッカーシー往復書簡』《叢書ウニベルシタス》に詳しい。アーレントは、ゴシップの餌食となっていたメアリーを一貫して支持し、ジャーナリズムに対しては、結婚が打算的・売名的なものではないことを強調し、一方、個人的にはメアリーとボーデンの間に立って、ときには傷心のボーデンを慰めつつ、離婚の話を前進させようと心を砕いた)。
1961年、双方とも離婚が成立したメアリーとジェイムズは、パリで結婚する。そして、1954年から短編の形式で書き続けられた"The Groupe"『グループ』(小笠原豊樹訳 ハヤカワ文庫)を1963年、ついに完成させ、刊行。大変な話題となる。この後も1971年"Birds of America"『アメリカの渡り鳥』(古沢安二郎訳 早川書房)など創作欲は衰えず、1989年に亡くなるまで、フィクション、ノンフィクション合わせて28の作品を発表した。
明日はこのマッカーシーの作品のなかから、もっとも有名で、なおかつ大変におもしろい『グループ』を紹介したい。
(この項続く)
注
この墓碑銘は詩UNDER BEN BULBENの最終部から取られたもの
二週間近くにも渡ってお送りしてきた"The Friend of The Family"、これは、1950年に出版された短編集"Cast a Cold Eye"(冷たい目を向けよ――W.B.イェイツの墓碑銘の一節でもある)に所収されたもの。彼女が本格的な創作活動を始めた作品とされるThe Oasisが1949年の作品であるから(デビュー作は1942年のThe Company She Keeps)初期の短編のひとつといってもいいだろう。
メアリー・マッカーシーは、1912年ワシントン州シアトルに生まれた。
わずか六歳の時、インフルエンザによって両親を相次いで失い、メアリーと四人の弟(映画スターのケヴィン・マッカーシーは実弟)はミネアポリスに住む父方の「厳格な大伯母さんとそのサディスティックな夫(メアリー・マッカーシー『グループ』小笠原豊樹訳 ハヤカワ文庫の訳者あとがきよりの孫引き)」の家に預けられる。
十一歳の時、今度は母方の祖父に「救出」され、シアトルに戻る。この高名な弁護士であった祖父の下で、メアリーは十分な教育を受け、大恐慌のおこった1929年、名門ヴァッサー女子大(現在は共学)に入学する。
1933年、卒業式の一週間後に劇作家志望の若い俳優ハロルド・ジョンスラッドと結婚。けれどもこの結婚は1936年には破綻し、1937年に、マッカーシーはコヴィチ・フリード出版社(publishing house of Covici-Friede)の編集助手として働き始め、その後、季刊誌「パルティザン・レヴュウ」の編集スタッフとして、おもに劇評を手がけるようになる。また「ネイション」「ニュー・リパブリック」にも寄稿している。
「パルティザン……」の仕事を通じて知り合った文芸評論家エドマンド・ウィルスン(『死海写本―発見と論争1947‐1969』の作者でもある)と1938年再婚し、一子ルーエルを得る。
この時期、エドマンドの勧めで創作に手を染めるようになり、連作短編集"The Company She Keeps"(「彼女の仲間たち」)を1942年発表。けれどもこの結婚も8年目にして破綻する。離婚後、いくつかの大学で教鞭を執りながら、同年、雑誌「ニューヨーカー」のスタッフ・ライターだったボーデン・ブロードウォーターと三度目の結婚をする。
1949年には、最初の長編"The Oasis"(「オアシス」:知識人たちが、高い理想を持ち、ユートピア的コミュニティを築こうとするが、人間の悪事に直面して失敗する)を発表、1950年には前述の短編集"Cast a Cold Eye"、1952年第二長編"The Groves of Academe"(「学園の杜」)、また創作だけでなく、演劇論集や、1957年には自伝"Memories of a Catholic Girlhood"(「あるカソリック少女の思い出」)、1956年と1959年にはイタリアを訪れその成果を、それぞれ美術論集"Venice, Observed"(「ベネチアの観察」)、The Stones of Florence(『フィレンツェの石』幸田 礼雅訳 新評論)として刊行するなど、1961年までに八つの作品を発表した。
1959年、メアリー、そして夫のボーデン・ブロードウォーターと息子のルーウェル・ウィルソンは、ヨーロッパを旅行する。その後、国務省主催の講演旅行に出席することになったメアリーとともに、家族全員でポーランドを訪れる。一行は同年12月29日ワルシャワでアメリカ大使館の広報担当官、ジェイムズ・ウェストの出迎えを受けた。
このジェイムズ・ウェスト(当時こちらも既婚者)とメアリーはたちまち恋に落ちる。ボーデンとルーエルが帰国する一月の半ばには、ウェストはすでにメアリーに求婚するまでになっていた(この間の経緯は『アーレント=マッカーシー往復書簡』《叢書ウニベルシタス》に詳しい。アーレントは、ゴシップの餌食となっていたメアリーを一貫して支持し、ジャーナリズムに対しては、結婚が打算的・売名的なものではないことを強調し、一方、個人的にはメアリーとボーデンの間に立って、ときには傷心のボーデンを慰めつつ、離婚の話を前進させようと心を砕いた)。
1961年、双方とも離婚が成立したメアリーとジェイムズは、パリで結婚する。そして、1954年から短編の形式で書き続けられた"The Groupe"『グループ』(小笠原豊樹訳 ハヤカワ文庫)を1963年、ついに完成させ、刊行。大変な話題となる。この後も1971年"Birds of America"『アメリカの渡り鳥』(古沢安二郎訳 早川書房)など創作欲は衰えず、1989年に亡くなるまで、フィクション、ノンフィクション合わせて28の作品を発表した。
明日はこのマッカーシーの作品のなかから、もっとも有名で、なおかつ大変におもしろい『グループ』を紹介したい。
(この項続く)
注
この墓碑銘は詩UNDER BEN BULBENの最終部から取られたもの
Cast a cold eye (冷たい目を向けよ)
On life, on death, (生に、そして死に)
Horseman, pass by! (馬上の人よ、行け)