陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話 したっけ その1.

2004-12-20 18:04:07 | weblog
クリスマスに思う


高校のとき、習いに行っていた英語の先生があるとき「占いについて、思っていることを話してごらんなさい」と言った。
「占いは好きじゃありません」
「それはどうして?」
「見ず知らずの人に、あなたの性格がどうだとかこうだとか、言われたくないからです」
「それは大変おもしろい考え方ね。だけど、人は島ではない(No man is an island)。そのことはよく覚えておきなさい」

基本的に占いに関する考え方は、いまもさほど変わってはいない。
自分のことを世界で一番よく知っているのは自分だ。
もちろん「ジョハリの窓」というものがあるのも知っているし、確かに自分が知らず、人が気がついている部分というのもあるだろう。
けれども、「自分」という存在を抱えて生きていかなければならないのは、このわたしだ。失敗したらやり直すのも、間違いを改めるのも、自分以外にできる人はいない。自分の誤りやすい傾向や、陥りやすい失敗を、だれよりも良く知っているのは、自分でなければならない、とずっと思ってきた。

占いというのは、まず「あなたは~という性格で」というのが、かならず最初に来る。
人であろうと(占い師に見てもらったことはないけれど)、星座や血液型の欄に書いてあることであろうと、なんで見ず知らずの人間にそんなことを言われなくちゃいけない? とまず腹が立つ。

ところが占い好きな人間は、こういうのがいっこうに腹が立たないらしいのだ。
「ねぇ、見て見て。この占い、当たってると思わない?“あなたは良くも悪くも新しいもの好きのところがあります”だって!」
だれだってそうだろう。そして、だれだって反面、古いものに愛着を持ち、変化を怖れるのだ。
そんなごくあたりまえのことを、たいそうに言ってもらっては困る。

そうして占いは、あたりまえのことしか言わないクセに、説教までしてくるのだ。
「“新しいもの好きのあなたは、古い人間関係を維持していくより、新しい人に飛びついて行きがちです。でも、ここでよく考えてみてください。あなたにとってどちらが大切な人か?”だって~。怖いくらいに当たってる! やっぱり、A君を大切にしたほうがいい、ってことよね?」

性格なんてものがほんとうにあるのだろうか、という疑問は、むかしからあった。
新しいもの好き、古いもの好き、ということばかりではない。優しい―冷たい、几帳面―雑、いろんな形容があるけれど、ほとんどのことばは、ひとりの人間の中に同居しているさまざまな要素を、さまざまな角度で切り取ったものにすぎない。ある人間に対しては優しい人物が、別の人間に対して酷薄になれる様は、日常めずらしいことではない。
確かに、おおまかな傾向、考え方のクセのようなものはあるのだろうが、それをそうしたことばで言い表すことに疑問があるのだ(さらに詳しくは『ことばを読む ことばで読む』参照)。

そうした行動の傾向、考え方のクセは、その人がそれまで生きてきた経緯と無関係であるはずがない。生まれつきのもののほかに、経験の蓄積が、その人の傾向を生み、クセを育んできたはずだ。

よく「あなたの性格のこんなところは間違ってるから、直しなさい」と平気で言う人間がいるが、わたしはそんな人間を信じない。
批判というのは、やったことなしたことに限定されるべきであるし、それを飛び越えて、その人間の本質(どこまで知っているというのだ?)を云々することができる人間など、極めて限られるはずだ。
もしそれをしようというのなら、する側も、相手がこれまで生きて来た経緯をまるごと引き受けるぐらいの、あるいは、自分自身の経緯をまるごとぶつけるぐらいの覚悟がなければならない、と思う。

ただ、人は他者に干渉したがる。
忠告だの、アドバイスだのと称して。
そう、確かに人は島ではありえない。さまざまな人の行き交う大陸の一部なのだ。

「……愛する者が自分の望むことや、相手によかれと思うことをしてほしいと願うのは人情だが、人のことはなにごともなりゆきにまかせなきゃいけない。自分が知りもしない人に干渉するもんじゃないのと同様、愛する人に干渉しちゃいけないんだよ」とウォーリーはエインジェルに言い、そしてこう付け加えた。「それにしてもこれはつらいことさ、人はとかく干渉したくなるもんでね――自分が計画をたてる側になりたがるんだな」
「誰かを守ってやりたくても、それができないというのもつらいよ」とエインジェルは指摘した。
「人を守ってやることなんてできるもんじゃないよ、おまえ。精々できることは愛することぐらいさ」とウォーリーは言った。(ジョン・アーヴィング『サイダーハウス・ルール』真野明裕訳 文藝春秋社)

さて、愛せない相手はどうだろうか。
愛せない相手に関してはこのE.M.フォースターのことばが参考になる。

愛は私生活では大きな力です。最大の力と言ってもいいほどです。ところが、公生活では役に立たないのです。それは何度も実験ずみで、中世のキリスト教文明でも、世俗版の人類愛強調運動だったフランス革命でも実験されたのです。ところが、すべて失敗しました。国家同士で愛しなさい、企業同士あるいは商取引委員会同士で愛しなさい、ポルトガルで暮らしている人が、まったく知らないペルーの人を愛しなさいなどという――これはバカげた話で、非現実的で危険です。……われわれは、じつは、直接知っている相手でなければ愛せないのです。そして、それほど多くの相手を知ることはできません。文明の再建(※これは1941年の講演の記録)といった公の問題にとってはもっと地味な、あまり感情とは縁のない精神が必要なのでして、それは寛容の精神であります。寛容という美徳はあまり冴えません。……要するに、どんな相手でもがまんする、何事にもがまん、という精神なのですから。……
世界には人間があふれています。怖いほどの混雑ぶりです。……その相手は大部分が知らない人間で、なかには嫌いな相手もいます。たとえば皮膚の色が気にいらないとか、鼻の形が、洟をかむのが、逆にかまないのが、あるいは話し方が、体臭が、衣装が、ジャズ好みが、といろいろなことが気に入らないというわけですが、ではどうすればいいか? 解決策は二つあります。一つはナチ流のやりかたで、ある民族が嫌いなら、殺し、追放し、隔離し、その上でわれこそは地の塩なりと豪語しながら胸をはって闊歩する方法です。もう一つはこれほど魅力的ではあありませんが、それこそ大体において民主国家のとる方法でして、私はそっちのほうが好きであります。ある民族が嫌いでも、なるべくがまんするのです。愛そうとしてはいけません。そんなことはできませんから無理が生じます。ただ、寛容の精神でがまんするように努力するのです。こういう寛容の精神が土台になれば、文明の名に値する未来も築けるでしょう。(E.M.フォースター「寛容の精神」『民主主義に万歳二唱』小野寺健訳 みすず書房)


E.M.フォースターがこの講演をしたときから、わたしたちはあまり先へ進んではいない。
街に流れるジョン・レノンのクリスマス・ソングを聴きながら、ふと思うのだ。ジョン・レノンも、共産主義を夢想する歌なんか作らずに、寛容の精神を、がまんを讃える歌を作ったら、いまもまだ生きていたんじゃないだろうか、と。

それこそばかげた夢想かもしれないが。

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