陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジェームズ・サーバー 『ネコナキドリの巣の上で』 その2.

2004-12-27 21:52:40 | 翻訳

 マーティン氏の胸の内で、裁判官の木槌がうち下ろされ、正式な申し立てが再開された。ミセス・アージン・バロウズは、故意の、目に余る、絶えざる妨害工作を、F&S社の効率と組織体に対して行った咎で起訴されている。彼女の出現と、権力の掌握に至る経緯をかえりみることは、適切であり、重要であり、本件と十分な関係を持つ。マーティン氏はミス・ペアード、いつもなにか見つけてくることに長けているような彼女から、こんな話を聞いたのだ。話によると、バロウズ夫人はとあるパーティで、フィットワイラー氏に会ったのだという。そこでたくましい体つきの男が酔っぱらって、F&S社の社長を、中西部のフットボールの引退した有名監督と間違えて抱擁してくる手から救い出してくれたのだ。バロウズ夫人はフィットワイラー氏をソファへと導き、なにやらそこで恐るべき魔法をかけた。年を重ねた紳士が、即座に結論に飛びついた。この女性こそ、自分と会社から最良のものを引き出してくれる、たぐいまれな能力のもちぬしである、と。

一週間後には、社長は夫人をF&Sの特別顧問として紹介していた。かくてその日、混乱の火ぶたが切って落とされたのである。ミス・タイソンならびにブランデージ氏、バートレット氏がクビになり、マンソン氏が帽子を手に席を蹴ってでていくと(辞表は後日郵送された)、ロバーツじいさんも勇をふるってフィッツワイラー氏のところへ談判に行った。マンソン氏の部は「若干、混乱を来して」いるので、おそらくは、従来の組織体に戻したほうがよろしいのではありますまいか、と。フィットワイラー氏は、それはダメだ、と答えた。わたしはバロウズ夫人の考えには絶大なる信頼を寄せている。そしてこう付け加えた。「必要なのは、少々のスパイスなのだよ。少々のスパイス、それがすべてだ」ロバーツ氏はあきらめてしまったのだった。
マーティン氏はバロウズ夫人によって加えられたあらゆる変革を、つぶさに検討した。会社という建造物の、壁面上部の装飾を打ち壊すことから始めた夫人は、いまや礎石めがけてつるはしをふるい始めたのである。

 いよいよマーティン氏は最終弁論に入る。1942年11月2日月曜日の午後、ちょうど一週間前のこと。その日、午後三時にバロウズ夫人は、マーティン氏のオフィスに、弾むように入ってきたのだ。「なーんなんでしょっ!」と大声をあげた。「漬け物樽の底をこすってるところね」マーティン氏は緑のアイシェード(※この時代、新聞記者や会計士などは緑色のセルロイドがはまったまびさしを頭にかぶって仕事をしていた。参考画像)ごしに夫人を見たが、なにも言わなかった。歩き回りながら、大きな目を見開いて、部屋を品定めしている。
「こうした書類戸棚がほんとうに全部必要?」と、いきなり詰問してきた。
マーティン氏の心臓は、飛び上がりそうになる。「こうしたファイルはどれも」と声を平静に保って答えた。「F&S社にとって、組織運営上、必要不可欠の役割を担っております」
夫人は耳障りな声で言う。「あら、そう。だけど豆畑をほじくり返すのは止してちょうだい」とドアに向かった。そこで声を張り上げた。「だけどあんたたち、まったくたいそうな紙クズの山をここに溜め込んだもんね」

マーティン氏の愛する文書部に危害が及ぶことは、もはや疑いようもないところまできていた。夫人のつるはしは振り上げられ、最初の一撃を下す態勢に入っている。ただ、まだ振り下ろされるところまではきていない。マーティン氏は青いメモ、魔法にかかったフィットワイラー氏が、非常識な女の指図のままに出す、分別を欠いた辞令の用紙を受け取ってはいない。しかし、マーティン氏の胸中では、早晩、辞令が下りることは、疑いようもない事実だったのである。すみやかに行動しなければならなかった。すでに貴重な一週間が過ぎ去っている。マーティン氏はすっくと居間に立ち上がった。ミルクのコップを手にしたまま。「陪審員のみなさん」マーティン氏は胸の内で言った。「かかる残虐非道な人物に、わたくしは死刑を求刑するものであります」

 つぎの日、マーティン氏はいつもどおり、日常業務をこなした。実はいつもよりよけいに眼鏡を拭いたり、一度などはすでに削った鉛筆を改めて削ってしまったりもしたのだが、あのミス・ペアードさえ気がつかなかった。ほんのちらっと獲物の姿を見かけた。廊下で追い越しざまに、さも見下したような口調で「どうも」と声をかけていったのである。五時半になると、普段と同じく歩いて自宅に戻り、これまたいつもどおりミルクを飲んだ。それより強い飲み物は飲んだことがなかったからである。ジンジャー・エールを入れると、話は別だが。
いまは亡きサム・シュロッサー氏、F&SのSに当たる人物なのだが、このシュロッサー氏が亡くなる数年前、幹部会議の席上でマーティン氏の節制ぶりを讃えてこう語った。「我が社のもっとも有能な社員は、喫煙とも飲酒とも無縁だ。その結果は、まさに自明の理とも言えるな」傍らに腰を下ろしたフィットワイラー氏も、賛意を表してうなずいていたではないか。

 マーティン氏はその記念すべき日のことをなおも考えつつ、五番街の四十六丁目に近いシュラフトの店に歩いていった。着いたのは、いつもどおり八時である。夕食とともに、サン紙の経済面を読み終えたのが、これまたいつもどおりの九時十五分前。食後に散歩をするのは、マーティン氏の習慣である。この日は五番街を南に向かってぶらぶら歩いていった。手袋をはめた手はじっとりと熱をもっているが、頭はひんやりとしていた。キャメルをコートのポケットからジャケットへと移しかえる。そうしながら、タバコが極度に緊張した痕跡を不用意に残したもの、と受け取られなかったらどうしようと思った。ミセス・バロウズが吸うのは、ラッキーストライクに限られている。キャメルをちょっと吹かして(消去した後に)、夫人の口紅がついたラッキーストライクが残っている灰皿でそれを揉み消し、かくてこのちょっとした偽装工作で、操作の方向を攪乱する、というのがマーティン氏の狙いなのである。ひょっとしたら、これは名案とは言い難いのだろうか。時間も食うだろう。ひょっとしたらむせて、大きな咳をするかもしれない。

 ミセス・バロウズが住む西十二丁目の家を、マーティン氏はこれまで一度も見たことはなかったが、そのイメージははっきりと持っていた。さいわいにもだれかれとなく、とびきりステキな赤レンガの三階建てのアパートメントの一階に、とびきりかわいい自分の部屋があることを、吹聴して回っていた。そこにはドアマンや管理人がいないこと、ただ二階と三階の住人だけだということも。マーティン氏は歩を進めながら、九時半より前にそこに着いてしまいそうなことに気がついた。最初はシュラフトの店から五番街を北に向かい、十時までには夫人の家に着けるような場所で折り返すことも考えた。その時間なら、人の出入りも少ないように思われた。だが、この方法では、偶然を装った一直線の道筋に、不格好な輪ができてしまう。そのためにこの案は棄却されたのだ。どちらにせよ、いつ人がそこを出入りするかなど、予測できるものではない。何時であっても大きな危険性は伴うのだ。もしだれかにでくわしたら、アージン・バロウズ抹消計画は、永遠に休止中ファイルのなかに放り込んでおきさえすればいい。夫人のアパートメントにだれかがいても、同じことが当てはまる。その場合は、通りがかりにステキなお宅をお見かけしたもので、ちょっとお寄りしてみました、とでも言えばよい。

マーティン氏が十二丁目に入ってきたのは、九時十八分だった。ひとりの男が追い越していき、一組の男女が話していた。ブロックを半分ほど行ったところにあるその家にさしかかる間、五十歩以内に人影はなかった。一瞬のうちに階段を駆け上がって玄関口に立ち、『ミセス・アージン・バロウズ』と書かれた名札の下のベルを押す。掛け金の鳴るかちりという音が終わらないうちに、ドアに飛び込んでいた。サッと内側に入り、ドアを閉めた。玄関ホールの天井から鎖でつり下げられているランタンの電球が、あたりをすさまじく明るく照らし出しているような気がする。手前から左の壁面に沿って上っていく階段には、人の姿はない。ホールの右側のドアが開いた。つま先立ちで、すばやくそちらに向かった。