陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジェームズ・サーバー 『ネコナキドリの巣の上で』 その3.

2004-12-28 19:00:50 | 翻訳

「おやおや、いったいだれかと思いきや!」バロウズ夫人は大きな声でわめくと、ショットガンを乱射させたような騒々しい笑い声をとどろかせた。マーティン氏はフットボールのタックルのように夫人にぶつかりながら、なかへ突進した。「もうっ、押さないでったら」そう言いながら、夫人はドアを閉める。
ふたりは居間に入ったが、そこはマーティン氏の目には、百個もの電灯で煌々と照らされているように映った。
「なんに追いかけられてるの? ヤギみたいにびくびくしてるわよ」
しゃべろうとしても、なにも言うことができない。せりあがってきた心臓が、喉元でぜいぜい言うだけだ。「あー、ええ」と、やっとのことで声が出た。
夫人は早口でなにやらぺちゃくちゃしゃべりながら笑い声をあげ、マーティン氏がコートを脱ぐ手助けをしようとした。
「いや、結構。コートはここに置きます」そう言ってマーティン氏は脱いだコートをドアのそばの椅子にかけた。
「帽子と手袋もね」と夫人が言う。「ここはレディの家ですから」
マーティン氏は帽子をコートの上に載せた。バロウズ夫人は思ったより大柄だった。手袋は、そのままにしておく。
「ちょうどここを通りがかって、気がついたんです――どなたか、いらっしゃるんですか」
夫人の笑い声は、いっそう大きくなった。「だーれも。あんたとわたしのふたりきりよ。だけど、あんたの顔色、紙みたいよ、おかしな人ね。一体全体、どうしちゃったの。レモン入りのお湯割りウィスキーでも作ってあげたほうがいいわね」部屋を横切って、ドアの方へ行きかけた。「それともスコッチ・ソーダのほうがいい? あら、あんたは飲まないんだっけ」夫人は振り返ると、おもしろいものでも見るような目つきで彼を眺めた。
マーティン氏は落ち着きを取り戻してきた。「スコッチ・ソーダの方がいいな」と自分が言っている声がする。台所で夫人が笑う声が聞こえた。

 マーティン氏は凶器になりそうなものはないか、と素早く居間を見回した。現場でなにか見つかるだろうと思っていたのだ。暖炉の薪を載せる台、火かき棒、隅になにか体操用のこん棒のようなものがある。どれも使えそうにない。そんなはずがないのだ。マーティン氏は歩き回った。机に近寄る。飾り柄のペーパーナイフは金属製だ。刃は役に立つほど鋭いだろうか。手を伸ばしたはずみに、小さな真鍮のつぼを倒してしまった。中から切手がこぼれ出し、ガチャンと音を立てて床に落ちた。
「ちょっとォ」とバロウズ夫人が台所で怒鳴った。「豆畑をほじくり返さないでちょうだい」
マーティン氏は奇妙な笑い声を洩らした。ナイフをとりあげ、左の手首に先を当ててみる。先が尖ってない。これでは役に立たない。

 バロウズ夫人がハイボールを二つ持って戻ってくるころには、手袋をはめたままそこに立つマーティン氏も、自分が抱いてきたのはおとぎ話だったのだ、ということを、痛切に感じ始めていた。タバコはポケットに。そして飲み物が用意され――なにもかも、あまりに、どうしようもなく現実離れしている。いや、それ以上に、そんなことは不可能だ。
マーティン氏の胸の、どこかしら底の方で、ばくぜんとしたアイデアが浮かび、芽吹いた。
「後生だから、手袋は取ってちょうだい」
「いつも家の中では手袋をはめることにしてるんですよ」
アイデアが花開き始めた。奇妙な、だが、すばらしい花だ。
夫人はソファの前のコーヒーテーブルにグラスを置くと、ソファに腰を下ろした。「こっちへいらっしゃいよ。ほんと、おかしな人ね」
マーティン氏はそちらへ行って、隣に座った。キャメルのパックからタバコを一本引き抜くのはやっかいだったが、なんとかできた。夫人は笑いながら、マッチで火をつけてくれた。
「なんてことでしょうね」と言いながら、飲み物を渡す。「まったく驚きよ。あんたが酒を飲むわ、タバコを吸うわだなんて」

 マーティン氏はタバコを吹かし――それほど無様なことにはならなかった――、ハイボールを一口飲んだ。
「オレは酒もタバコも、年がら年中やってるんだ」自分のグラスを夫人のグラスにカチリと合わせた。「くそったれのおしゃべりジジイ、フィットワイラーに乾杯」そう言うと、もういちど、グイッとあおった。途方もなくまずかったが、顔はしかめずにすんだ。
「マーティンさんったら、本気で」そう言う夫人の声音と態度は、一変していた。「我が社の社長を侮辱なさってるのね」いまやすっかり社長付き特別顧問である。
「爆弾を用意してるんだ。そいつであのじいさんを地獄の向こうまで吹っ飛ばしてやろうと思ってさ」
まだほんの少ししか飲んでいないし、それほど強い酒でもない。そのせいであるはずがない。「あなた、マリファナか何かやってるのね」バロウズ夫人は冷ややかに言った。
「ヘロインさ。あのくそジジイをくたばらせた日にゃ、最高にイッちまうだろうなぁ」
「マーティンさん!」夫人は立ち上がって叫んだ。「もうこれ以上は結構。すぐにお帰りください」
マーティン氏はもうひとくち飲んだ。タバコの火を灰皿で揉み消し、キャメルのパックをコーヒーテーブルに置き、それから立ち上がる。夫人は立ったまま、恐ろしい目で睨んでいた。マーティン氏はそこを出て、帽子とコートを取った。「このことはひとことも喋るんじゃないぞ」そう言って、人差し指を自分の唇に当てる。バロウズ夫人が口にすることができたのは、「まったく!」というひと言だけだった。マーティン氏はドアノブに手をかけた。「オレはネコナキドリの巣の上で、タマゴを抱いてるところさ」そう言うと、夫人に向かってべろりと舌を出し、出て行った。その姿を見た者は、どこにもいなかった。

 マーティン氏が歩いて自宅のアパートメントに戻ったのは、11時よりもずいぶん前だった。帰ったところを見た者もいなかった。歯を磨いてから、コップ二杯のミルクを飲むと、鼻歌を歌いたいような気分になってきた。酔ったせいではない。足下がふらつくこともなかったから。とにかく、ウィスキーの効きも、歩いているうちにすっかり飛んでしまっていた。ベッドに入って、しばらく雑誌を読んだ。そうして真夜中になるまえには、すっかり眠ってしまっていた。

(バロウズ夫人はどう出るのか? マーティン氏の運命や如何? 次回怒濤の最終回。刮目して待て!)

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