いやな上司
まずは、個人的な経験から。
数年前のことだ。ある企画を立ち上げたことがあった。
賛同者を募り、計画書を出し、無事認められたまでは良かったが、「監修者」のような人間が上に付いた。この人のことは前から知っていたのだが、何をやっているでもなく、なんとなくブラブラしている奇妙な人、という印象でしかなかった。漏れ聞こえてくる評判も、それほど芳しいものではない。
ところが、この人の名前を聞いて、以前関わりを持ったことのあるメンバーは青ざめた。あのおばさん、ババ抜きのババみたいなもんだよ、回されてきたら、なんとか別のところに追いやろうとして、どこも必死になってる。
実際に始まって見ると、聞きしにまさるすさまじさだった。
信じられないくらい無知だし、目を疑うほど何もできないのだ。そのくせ、何にでも口を突っ込んでくる。無視された、とすぐに怒り出す。人のものは欲しがる。要するに、異様に子どもっぽい人だったのだ。
口を開けば、自慢ばかり。係累を自慢し、家を自慢し、飼っている犬を自慢し、犬のトイレの砂まで自慢する。
だが、この人のやることで一番害がないのが、自慢だった。いっそ、自慢だけしておいてくれれば良いとさえ思ったものだった。
なんだかんだいちゃもんをつけてくるのだが、それがことごとく、完全に見当はずれもいいところ。あまりのピントのずれように、聞いていれば気分が悪くなってくる。しかもあちこちに地雷がばらまかれているらしく、突然爆発する。その地雷のポイントがまったく予測不能なのである。
このおばさんに耐えきれず、辞めていった者もいた。実際、わたしも何度となく、投げ出してしまいたくなった。
サーバーの短編で、マーティン氏が毎晩、胸の内で、バロウズ夫人の殺害計画を夜毎練って、飽きなかったというところがある。殺害計画こそ練らなかったけれど、この心理は非常に良く理解できた。
いやな人間が身近にいると、自分はその人間のどういうところが嫌いか、何で嫌いなのか、どうしても考えてしまう。マーティン氏と同じように、罪状をあげつらい、論告しないではいられない。しかもその人は、日々、審理のタネを提供してくれる。
ところがこれは癖になる。
だれか、好きな人ができると、水が低いところに流れ込むように、気がつけば好きな人のことを考えている、このような経験は、日常めずらしいことではない。
だが、嫌いな人間に対しても、同じことが起こるのだ。腹立たしい人間、考えるだけではらわたが煮えくりかえるような人間のはずなのに、いつの間にかそうした人間のことを考えている。いやな人間が、本来の領域を越えて、無関係な領域にまで滲出してきているのだ。
そのことに気がついたとき、ぎょっとしたし、自分が汚染されていくように感じた。汚染をくい止めるために、「ふと気がつけば」という状態をなるべくなくそう、自分がいま何を考えているか、自分で把握しておこうと思った。仲間内で集まれば、いつしかそのおばさんの悪口大会で盛り上がっていたのだが、それはそれで一種のストレス解消の効用があったにせよ、やめるように努めた。
ただ、それで自分の腹立たしい思いを霧散できるほど、わたしは人格者ではない。
実は、復讐方法を考えついたのだ。マーティン氏の殺害計画である。
わたしは最初から実行するつもりはなかった。それでも、その復讐方法を思いだすと、どんなに鬱陶しいことを言われても、乗り切れるような気がした。
そのうちに、ひとつのことに気がついた。
わたしは、この企画さえ終われば、この人から離れることができる。けれども、その人は一生、その人であり続けなければならない。その人として、生き続けなければならない。
疎んじ、腹を立てたのは、わたしたちが最初でもなければ、最後でもない。これから後もその人は、ババ抜きのババであり続けるのだ。これほどの罰があるだろうか。
マーティン氏の計画は、見事成功した。
現実問題として、こんなうまい話はないだろう。それでも、現実の「バロウズ夫人」も、やはり罰を受けているのだ。これほど目に見える形ではないにしても。それは、「バロウズ夫人であり続けなければならない」、という罰である。
考えてみたら、人間というのは、誰しも「その人」から抜け出ることはできないのだ。「心」、「人格」、「性格」、「自我」、何と呼んでもいいけれど、誰しもそうした「器」に閉じ込められている。人は自分の器をとおしてしか、外界を見ることができないし、他者を理解することも他者と接することもできない。そう考えていくと、この器は人を一生閉じ込める一種の牢獄であるともいえるだろう。
さらに厄介なことに、自分を閉じ込めている器がどんなものか、自分ではごく一部しか見えないのだ。
どうせ一生、そこから出られないのなら、すこしでも居心地の良いものにしたい。
自分で見える部分はごく一部でしかなくても、その一部をできるだけ気持ちの良いものにしたい。
それはほんとうにそう思う。
そうそう、わたしの考えた復讐方法を、ここで披露しよう。
まず、おばさんの真向かいに席を占める。話し合いを始める前に、ふっと「何か、臭いね~」みたいなことを言いながら窓を開ける。「何の臭いだろう」とかなんとか。あらかじめ打ち合わせたほかの人間が、目配せしたり、肘で付いたり。
そして、そのおばさんの方に目をやる。はっとして、「すいません」といかにも申し訳なさそうに謝る。
そうして、恐縮しつつ、そっと出すのが『キスミント』。
「良かったら、どうぞ」
いかにわたしが見下げ果てた人間であることか……。
さて、サーバーについて少々。
ジェームズ・サーバーは1894年生まれで1961年没。
雑誌『ニューヨーカー』の、創刊時代から30年代半ばまで編集に携わるが、単なるスタッフライターという以上に、『ニューヨーカー』という雑誌の基調を決定した一人でもある。
ユーモア作家兼イラストレイターという評価が一般的だが、そのユーモアというのは、人間を良く知っている人ならでは、という感じがする。
『ニューヨーカー短編集』(Iには『虹をつかむ男』が所収されていて、IIにはこの『ツグミの巣ごもり』が所収されている)の著者紹介には「そのユーモアは、真似手のいない、底ににがみ、かなしみを含んだユニークなものである」とある。たしかにそのとおりだと思う。
まずは、個人的な経験から。
数年前のことだ。ある企画を立ち上げたことがあった。
賛同者を募り、計画書を出し、無事認められたまでは良かったが、「監修者」のような人間が上に付いた。この人のことは前から知っていたのだが、何をやっているでもなく、なんとなくブラブラしている奇妙な人、という印象でしかなかった。漏れ聞こえてくる評判も、それほど芳しいものではない。
ところが、この人の名前を聞いて、以前関わりを持ったことのあるメンバーは青ざめた。あのおばさん、ババ抜きのババみたいなもんだよ、回されてきたら、なんとか別のところに追いやろうとして、どこも必死になってる。
実際に始まって見ると、聞きしにまさるすさまじさだった。
信じられないくらい無知だし、目を疑うほど何もできないのだ。そのくせ、何にでも口を突っ込んでくる。無視された、とすぐに怒り出す。人のものは欲しがる。要するに、異様に子どもっぽい人だったのだ。
口を開けば、自慢ばかり。係累を自慢し、家を自慢し、飼っている犬を自慢し、犬のトイレの砂まで自慢する。
だが、この人のやることで一番害がないのが、自慢だった。いっそ、自慢だけしておいてくれれば良いとさえ思ったものだった。
なんだかんだいちゃもんをつけてくるのだが、それがことごとく、完全に見当はずれもいいところ。あまりのピントのずれように、聞いていれば気分が悪くなってくる。しかもあちこちに地雷がばらまかれているらしく、突然爆発する。その地雷のポイントがまったく予測不能なのである。
このおばさんに耐えきれず、辞めていった者もいた。実際、わたしも何度となく、投げ出してしまいたくなった。
サーバーの短編で、マーティン氏が毎晩、胸の内で、バロウズ夫人の殺害計画を夜毎練って、飽きなかったというところがある。殺害計画こそ練らなかったけれど、この心理は非常に良く理解できた。
いやな人間が身近にいると、自分はその人間のどういうところが嫌いか、何で嫌いなのか、どうしても考えてしまう。マーティン氏と同じように、罪状をあげつらい、論告しないではいられない。しかもその人は、日々、審理のタネを提供してくれる。
ところがこれは癖になる。
だれか、好きな人ができると、水が低いところに流れ込むように、気がつけば好きな人のことを考えている、このような経験は、日常めずらしいことではない。
だが、嫌いな人間に対しても、同じことが起こるのだ。腹立たしい人間、考えるだけではらわたが煮えくりかえるような人間のはずなのに、いつの間にかそうした人間のことを考えている。いやな人間が、本来の領域を越えて、無関係な領域にまで滲出してきているのだ。
そのことに気がついたとき、ぎょっとしたし、自分が汚染されていくように感じた。汚染をくい止めるために、「ふと気がつけば」という状態をなるべくなくそう、自分がいま何を考えているか、自分で把握しておこうと思った。仲間内で集まれば、いつしかそのおばさんの悪口大会で盛り上がっていたのだが、それはそれで一種のストレス解消の効用があったにせよ、やめるように努めた。
ただ、それで自分の腹立たしい思いを霧散できるほど、わたしは人格者ではない。
実は、復讐方法を考えついたのだ。マーティン氏の殺害計画である。
わたしは最初から実行するつもりはなかった。それでも、その復讐方法を思いだすと、どんなに鬱陶しいことを言われても、乗り切れるような気がした。
そのうちに、ひとつのことに気がついた。
わたしは、この企画さえ終われば、この人から離れることができる。けれども、その人は一生、その人であり続けなければならない。その人として、生き続けなければならない。
疎んじ、腹を立てたのは、わたしたちが最初でもなければ、最後でもない。これから後もその人は、ババ抜きのババであり続けるのだ。これほどの罰があるだろうか。
マーティン氏の計画は、見事成功した。
現実問題として、こんなうまい話はないだろう。それでも、現実の「バロウズ夫人」も、やはり罰を受けているのだ。これほど目に見える形ではないにしても。それは、「バロウズ夫人であり続けなければならない」、という罰である。
考えてみたら、人間というのは、誰しも「その人」から抜け出ることはできないのだ。「心」、「人格」、「性格」、「自我」、何と呼んでもいいけれど、誰しもそうした「器」に閉じ込められている。人は自分の器をとおしてしか、外界を見ることができないし、他者を理解することも他者と接することもできない。そう考えていくと、この器は人を一生閉じ込める一種の牢獄であるともいえるだろう。
さらに厄介なことに、自分を閉じ込めている器がどんなものか、自分ではごく一部しか見えないのだ。
どうせ一生、そこから出られないのなら、すこしでも居心地の良いものにしたい。
自分で見える部分はごく一部でしかなくても、その一部をできるだけ気持ちの良いものにしたい。
それはほんとうにそう思う。
そうそう、わたしの考えた復讐方法を、ここで披露しよう。
まず、おばさんの真向かいに席を占める。話し合いを始める前に、ふっと「何か、臭いね~」みたいなことを言いながら窓を開ける。「何の臭いだろう」とかなんとか。あらかじめ打ち合わせたほかの人間が、目配せしたり、肘で付いたり。
そして、そのおばさんの方に目をやる。はっとして、「すいません」といかにも申し訳なさそうに謝る。
そうして、恐縮しつつ、そっと出すのが『キスミント』。
「良かったら、どうぞ」
いかにわたしが見下げ果てた人間であることか……。
さて、サーバーについて少々。
ジェームズ・サーバーは1894年生まれで1961年没。
雑誌『ニューヨーカー』の、創刊時代から30年代半ばまで編集に携わるが、単なるスタッフライターという以上に、『ニューヨーカー』という雑誌の基調を決定した一人でもある。
ユーモア作家兼イラストレイターという評価が一般的だが、そのユーモアというのは、人間を良く知っている人ならでは、という感じがする。
『ニューヨーカー短編集』(Iには『虹をつかむ男』が所収されていて、IIにはこの『ツグミの巣ごもり』が所収されている)の著者紹介には「そのユーモアは、真似手のいない、底ににがみ、かなしみを含んだユニークなものである」とある。たしかにそのとおりだと思う。