陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシーはいかがですか その5.

2004-12-17 19:34:31 | 
5.『グループ』その4.

大学を卒業した八人の女の子たちが、どのようになっていくか。
それが『グループ』という小説の骨子なのだが、こうしたテーマは、小説というより、むしろ映画やTVドラマが得意とする題材である。
つまり、出てくる登場人物が多いことで、読者(視聴者)は、自分の感情移入がしやすい人物を見つけやすいし、それからどうなるんだろう、という興味だけで、読者(視聴者)を引っ張っていきやすいからなのだ。
それを小説でやっていこうとすると、どうしても通俗的なものになってしまう。それこそ、ビバリーヒルズなんとかのノヴェライズを読んでいるような具合になってしまう。

この『グループ』は、一歩間違えば青春群像劇のノヴェライズになりかねないような題材を扱いつつ、そうしたものとはまったく異なる作品に仕上がっている。
それはなによりも、作中人物がみなそれぞれに個性的でありつつも、1930年代のアメリカの、さまざまな階層の典型的な人々を、そのライフスタイルや思想も含めて代表しているからであり、そして、さらにその登場人物たちは、年代も国も越えた普遍性を備えているからだろう。

『グループ』の「訳者あとがき」には、マッカーシーに敵対的な批評家が「彼女はいつもモデル小説しか書かない」と批判したこと、それに対して「たいていの小説はそうなのです。つまり、実在の人物によって満たされているのです。考案される部分はほんの僅かしかありません」と答えたことがあげられているが、この「モデル」というのを単純に理解してはならないように思う。

たとえばマッカーシーのほかの作品に『アメリカの渡り鳥』(早川書房)というのがあって、これは、ハープシコードの演奏家でもあり、音楽学の研究者でもある離婚した母親と、一人息子の物語なのだが、単純に考えれば、この息子ピーターは、実子ルーエルがモデルということになるが、マッカーシーはアーレントに宛てた手紙のなかで、こう書いている。

モデルはミロシュの息子たちヴィエーリ・トウッチ(ニコロの息子)を少々とルーエルを少々。カルロ・ターリャコッツォという少年とジョーダン・ボンファントという『ライフ』の記者、ジョナサン・アーロン――ダニエル・アーロンの息子――という名のソルボンヌにいた子をすこしばかり。ジョナサンについてはいい話があって、暗い路地裏の自分の部屋の鉢植に光を当ててやるため、彼はいつもそれを持って散歩に出たといいます。この痛ましい奇行は、ピーターボンファント(※実際の作品ではピーター・レヴィとなった)と名づける私の若い主人公の特質となるでしょう。

つまり「実在の人物によって満たされている」というのは、そういうことなのだ。

ケイとハロルドの結婚生活は、ハロルドの名前が、最初の夫と綴りが一字違うだけで同じ名前であることなどから、マッカーシーの最初の結婚生活をモデルにしたものである、と解説にも書いてあるし、先頃出た小谷野敦『聖母のいない国』(青土社)にも「ケイはマッカーシー自身をモデルにしている」とあるが、そのような単純なものではないように思える。
たとえば、あきらかにグループの嫌われ者の役を割り振られているリビー・マコーズランドの編集助手時代の生活(そして仕事がもらえないのではないかという不安)は、自身の経験であるだろうし、逆に、生命力には溢れているけれど、むしろ鈍感で、芸術的なものへのあこがれは強くても芸術的なセンスには乏しい人間として造型されているケイが、みずからを投影した存在だとは考えにくい。

つまり、どの人物にも、自分自身の経験が投影されているだろうし、また、複数のモデルをさまざまに組み合わせて造型されている、という意味で、作者マッカーシーとははっきりと別人なのである。

小笠原の解説によると、マッカーシーはこの作品を書きながら(アメリカの小説にはよくあることなのだが、この作品も部分ごとに発表され、最も早く出たものは1954年で、全体が完成したのは1963年だった)、「すっかり憂鬱になった」という。「この八人の娘たちの運命はあんまり残酷なので、わたしは仕事をつづけることができなくなりました。残酷というのは、娘たち自身にとって残酷なだけじゃなくて――人類全体にとってね」と言っていたという。
また、執筆時、「これは実は進歩という観念についての小説なのです。女性の側から見た進歩という観念ですね。女性の側とは、つまり、家庭経済とか、住居とか、生活技術とか、避妊とか、育児とか、そういう面です……その二十年間に(※当初はルーズウェルト就任の年からアイゼンハワーの就任の年までの一種の疑似年代記小説として構想されていた)、進歩、あるいは進歩という観念に対する信仰が失われていったことを物語るつもりです」とも語っていたことが紹介されている。

アッパークラス、あるいはアッパーミドルクラスの出身で、当時としては最高の教育を修めたはずの娘たちが、社会的な成功を収めることもできず(ひとりを除いて――ただ、そのひとりも学生時代はまだ萌芽の状態だった俗悪さが、社会的な成功と引き替えに丸出しになってしまう)、家庭的にも満たされず(ポリーは除く。ポリーの家庭生活は、この作品中ほとんど唯一の救いである)、いつしか若いころ持っていた輝きを失ってしまう。

確かにそのストーリーは決して明るくはないのだが、作品には陰気な要素はまったくない。
アーレントがところどころ大笑いをした、と手紙に書いているように、全体的に乾いていて、硬質で、ユーモラスな要素も散りばめられている。

『グループ』を初めて読んだのは、おそらく中学に入ったばかりのころだったと思う。
スポンジのように何もかも吸収する時期にこの本にめぐり会ったのだ。
具体的な性行為のディテールも、フレイザーの『金枝篇』も、ヘンリー・ジェイムズも、クラフト・エーピングも、行動主義も、精神分析が寝椅子に座って行われることも、全部この本で知ったのだし、その他にも数え上げればきりがない。
この文章を書くために、ずいぶん久しぶりに『グループ』を読み返し、部分を抜粋しながら、自分の文体がいかに小笠原豊樹の影響を受けているか、あらためてぎょっとしたし、ヴァージニア・ウルフを読んだのが、なぜあんなに遅かったかも合点がいった。そんな部分があったことなど忘れてしまっていたのだが、無意識のうちにレイキーの「感傷的よ」という宣告に影響されていたのである。

最初に読んだ頃、「あとがき」の「残酷さ」というものが、ピンとこなかった。
ヴァッサー女子大を卒業した当時の彼女たちが手にしていた可能性と、それが実体化したもののあまりの落差を具体的に理解できるようになったころになって、やっとわかってきたのではないかと思う。

ただ、いまは思うのだ。それが若い、ということなのだろう、と。
若いから、輝いて見えるのだし、可能性が感じられるから、実体以上にすばらしく見えるだけなのだ。だが、可能性を実体化させていけるかどうかは、つまり、成長し続けることができるかどうか、というのはつぎつぎに脱落していくレースのようなものだ。
進歩、あるいは進歩という観念に対する信仰、というのは、ことばを換えれば、時の流れにつれて、人は成長し、可能性は実体化する、という錯誤ではあるまいか。


というわけで、『グル-プ』はおもしろいんです。なかなか手に入りにくい本だとは思いますが、なんとか手に入れて読んでみてください。

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