陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その7.

2004-12-04 22:13:15 | 翻訳

 この衝撃的なできごとは、若い俳優フランシス・クリアリィにとって、きわめて重大なものだった。自分の地位が、未だ決定的ではないにしても、まちがいなく危機に瀕していると感じられたからである。
二時間近く、彼は駅のプラットフォームをゆっくりと行ったり来たりしながら、自分をフェアフィールド・カウンティから、ノーマン・コーウィン(※アメリカのラジオ放送作家)を尊敬してやまないと話し、レッド・ネットワークの会長が同席するランチに誘ってくれる大切な人物から遠ざけようとする列車が来るのを待っていた。この短くも長い、やりきれないひととき、自分がこれまで関係を持ってきた多くの人々、義理の母親、姉、ほんとうの友だち、昔の恋人たちといった自分を冷遇し続けた人々、そして彼を慕ってくれた人々が押しのけられていく。

彼は心のなかで、救いの手を差し伸べようともしてくれなかった欺瞞的な夫の方に、悲痛な抗議の声をあげていた。胸の内で泣き続け、ついにはすっかりかたくなになってしまったのである。
このときからフランシスは、愛情という害毒が、彼の友情のひとつを汚染しないように、できるかぎりの方策を熱心に取るようになった。
しかも、彼は結婚したために家族に献身的につくそうとするパートナーと関係するのにも嫌気がさしていた。とりわけレイトン家の場合が疑わしい。レイトン家ではほんの少しの同士的連帯さえ、示してはもらえなかったのだ。

そうしてフランシスは、もっぱら子どもばかりかわいがるようになる。子どもたちと床に拡げたゲームをし、動物園や祝日開催される人形劇に連れて行く。――多くの友人たちが、あのかわいそうなフランシスが結婚しないのは、一目瞭然、子どもが好きでたまらないからだ、とたがいに言い合うまでになる。子どもたちの多くはフランシスのことなど気にも留めず、なかには父親がいかにもうさんくさい同類と一緒に酒を飲んでいる間、フランシスがどんなに楽しそうな場所に遊びに行こうと誘っても、バーに座っていたがるような子どもさえいたのだが、両親の教育がもう少しうまくいっている家の子どもたちは、ものの名前をそのものととらえて、フランシスが、大好きだよ、と言えば、とにかく全力で、ぼくも大好き、と素直に返してくれるのだった。

けれども、どちらの場合でも、自分の子どもに目を光らせている母親は、フランシスと手を携えて、子どもっぽい目的をかなえてやろうとするが、子どもがあきらかにフランシスと楽しく過ごすのを喜んで見ているようになる。母親自身のフランシスに対する感情から、子どもがそれまで慣れていたものより良いものを手に入れるのは、なんであれ、危険は少しもないと確信していたのである。


(今日は忙しかったのでこれだけ。明日はもうちょっとたくさん訳したいと思います)