陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その6.

2004-12-03 21:57:20 | 翻訳

 いまやちがいはあきらかになっただろう。
少なからぬケースで、羨望や欲望を直接妨げているのは妻や夫であり、こうした結婚生活のなかでの友人というのは、偶然巻き添えになった被害者なのである。
なにもそうした友人に個人的な恨みがあるわけではない。友人が嫌いなのは、妻と一緒に笑っているからなのだ。

だがそれとは異なる種類の結婚もある。
そこでは偶然巻き添えになった被害者は、結婚相手の方だ。敵、すなわち友だちグループを襲撃して家に連れ帰った人質なのである。
わたしたちはこの相手に対して、何ら悪意は抱いていない。報復のしきたりどおりに彼の耳や小指を切り落としたことを、気の毒にさえ思う。彼自身が復讐の対象なのではなく、彼はわたしたちが敵愾心を燃やすもの、多くの場合、あるグループ、階級、カースト、性、あるいは人種といったもののシンボルに過ぎないのだ。
こうしたケースの特徴は、一般的に言って、未熟で、びっくりするほど不釣り合いなことである。銀行家の娘と結婚したコミュニスト、美しいユダヤ系女性と結婚した反ユダヤ主義者、女優と結婚し、舞台を辞めさせた実業家を見るがいい。これらは換喩を実行に移したものだ。部分は全体を置き換える。シンボルとシンボライズされるものの関係なのである。

実業家と女優の場合、彼は正気ではなかったのだ、と思う者もいるかもしれない。どうして女優なんかと結婚するんだ、初日に最前列で舞台を見るだけではいけないのか、と。
彼の学生生活が演劇部に参加させてもらえなかったために、悲惨なものだったことを知らなければ、そして彼が、タイムズ・スクウェアの不動産を買い占めたり、ラジオ局や映画会社に投したり、以前には、そのころヒットしていたブロードウェイのショーの猥褻な部分を指摘する匿名の手紙を認可委員会におくりつけたこともあった、このようなことをしながら舞台に復讐していたことを知らなければそう思ったとしても無理はない。

コミュニストは銀行家の娘を支配下に置いて、十三番街でみすぼらしい生活をさせている。整えられていないソファベッド、朝食の食卓にはブリキのカップに入ったエバミルクが、下品な真鍮の灰皿に並んで置いてある。ほこりっぽいパンフレットの山、遅い会議、ソーダの入らない安ウィスキー、髪にウェーヴを当てるときは洗面器と薬局――薬剤師はほんとうは、生活のために彼女に恩義を施す現在の状態に嫌悪感を抱いているらしい――で買った安売りのセットローションを使うのだ。だが、彼の家は、彼女のおぞましい父親が金を払ってくれる訪問に備えた舞台なのである。

美しいユダヤ系女性と結婚した反ユダヤ主義者は、自分は愛のためにずいぶん変わった、と思い、彼女に優しく接し、自分の思惑によって、彼女からユダヤという人種的要素を免除してやっているかもしれない。彼女の係累、母親や、妹、かぎ鼻の叔父がいるにもかかわらず、自分はおまえと一緒になったのだ、と何度も繰り返し自分に、そしておそらく彼女にも言明するだろうが、実際は妻にはうんざりしていて(確かにあまりユダヤ人らしくはないのだが)、義理の母親がやって来るのを、毎年残酷な動機から心待ちにしているのだった。毎夏、「カイク」(※ユダヤ人に対する蔑称)という言葉を年老いた母親の前では使わない、と妻と約束しているのだが、どういうわけかいつもかならず口が滑って、涙に暮れる老婦人を、二階へ追いやってしまうことになり、かくしてここでも結婚は完全なものとなっていく。

 この違いは、明らかにしておかなければならないのだが、一方、友だちや夫や妻にとっては、自分たち自身が原因で疎んじられていようと、何かしら無関係の理由で疎んじられていようと、ほとんど差はないのだ。爆撃された子どもは、爆撃手の個人的動機など詮索しようとは思わない。
レイトン家のふたりに関していうなら――そもそもの疑問に戻ろう――、レイトン夫人がヒュー・コールドウェルを嫌うのは、ヒューもしくは彼に似ただれかが、以前、画学生連盟の夜間授業で、自分のスケッチにクレヨンで線を引いたからかもしれないし、あるいは夫人はメイシーデパートの専属スタイリストで、彼はヌーディストなのかもしれない、あるいはほかの理由からかもしれないのだが、いずれも利害の相違から生じたものである。
あるいは夫人がコールドウェル氏に非難すべき点があるのを――つまりそれは夫への友情にほかならないのだが――見つけたからかもしれない。
どちらにせよ、結果は同じこと。みずからの意向であれ、単に夫に対する悪意からであれ、レイトン夫人はコールドウェル氏には、彼女のすてきな新居の敷居をまたがせないように算段する。

 その意図がどれほど正しいものであっても、愛を諦めることができない人がいるし、勝利をあきらめることができない人はさらに多い。先に述べたように、二番目のカテゴリーから先に検討したいのだが、レイトン夫人のような女性は、フランシス・クリアリィだけをパーティに招いたために何かを犠牲にしたようなふりをするのだが、これは公正な振る舞いとは言えない。除外したヒュー・コールドウェルに対する妬みと怒りは、その夜の間中、表面的には退屈ではあったかもしれないが、十二分に報いられたのである。

反ユダヤ主義者の場合には、さらに悪質ないかさまが行われた。ユダヤ系のフランシス・クリアリィをしばしば家に招いたのは、妻の又従兄弟だったからなのだが、やがて極めて残酷でぞっとするような意見を、偏見だと非難されることもなく口にするようになった。

だれよりもひどいのが、先にも少しふれた、女優と結婚した実業家である。実業家の劇場関係者に対する憎悪は、以前、妻と一緒にワンシーズン夏期公演を行った若いラジオ俳優、フランシス・クリアリィの前に、一時的に収まったかに見えた。
この男は、名前はアル、数ヶ月に渡ってフランシスに向け、友情を装ってみせたのだ。ダウンタウンでランチを誘い、ラジオ業界の有力者を紹介し、彼の朝の放送を聞いてやった。
元女優の妻は、最初はとまどったものの、こうした配慮に心を動かされ、自分に愛の手をさしのべているのだと考えて、我が家が自分のほんとうの友だち、脚本家や演出家、正真正銘の役者たちといった、田舎に引っ込んでから恋しくてたまらない人々でいっぱいになる日を待ち焦がれる。
だが、夫がしきりにラジオでの詩劇の方が、舞台での箱詰めにされたような芝居より、よほどいい、と話すのを聞くうちに、夫の計画にこめられた悪意に気がつくようになる。
妻の答えは遠慮のない、好戦的なものになる。妻はフランシスを、あたかも夫が純粋に熱中している存在であるかのように扱う。――そうしてある晩、なんらその誘因がなかったにもかかわらず、彼を追い出したのだった。