陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その11.

2004-12-09 21:47:19 | 翻訳

 この耐え難い状況から脱出する唯一の方法は、ふたりのうちの片方が、クリアリィたちを相手のせいにすることである。ふたりの間で、クリアリィを分裂させるのだ。もし夫にクリアリィ氏とクリアリィ夫人の責任を負わせることができるなら(「あの人たちを呼ぼうっていったのは、あなたですからね」)、妻はフランシスを引き受けることができる。彼らを、いわば友だちとして扱うことができるし、またそのために、ふたつの派閥はともになくなってしまう。
ところがいまや、否定の否定、ゼロが最高位にまではね上がり、スーパー・フランシス・クリアリィが見つかる。探し出す道のりは遠く、間違った道に踏み込んだりしたこともあっただろうが、ついにある晩のカクテル・パーティで彼を発見する。言葉を発することもできない空白の一瞬が過ぎ去ると、夫と妻は彼を捕まえて家に引っ張って帰り、サンドウィッチを食べながら、恋人たちのように興奮して、なんでいままで会えなかったんだろう、と話をする。苦難のときは去り、妻はふたたび夫にほほえみかける。フランシスを見送りながらドアに立つふたり、夫の手は愛情を込めて妻の肩に回されている。

 だが、何ということか、同じプロセスがまた繰り返されようとし、しかも賭け金は上がっている。この新しい影の薄い人物は、もともとのつまらない友人より大物で、一層空っぽである。当然ながら、彼はより高い額を要求する。何十組というほかのカップルたちと、このすばらしい人物をめぐって争うことになる。彼は自分に安い値をつけたりはしない。いつだって人の集まる場所に連れて行けば、すぐに同僚や隣人が羨望のまなざしでこちらをみているのに気がつくし、つなぎ留めておくためには、法外な代金を払わなければならない。
昔のフランシスがいつも持ってきてくれていた鉢植えや、クリスマスのチーズ、子どものためのおもちゃなどはどこかへ行ってしまった。このすばらしい友だちは、なにも与えてくれない。愛想良くしようとさえしないのだ。年取った女性に話しかけたり、皿を洗うのを手伝ってくれたり、パンを買いに店に行ってくれたりするようなことは決してない。一緒にいることだけが、彼から得ることができるすべてであるし、彼が要求してくることは、次第に法外なものになってくる。もし側にいてほしければ、と彼の表情はこう語っている、ほかの友だちも、仕事も、趣味も、信条も――その人の性質を形作る個人的特質があわさったもの全体を――諦めることだ。そしてこの苛酷な犠牲の報酬は、妻もまた同じことをしなければならない、ということだった。
間もなくフランシスは、ふたりの家に、自分の友人を連れてくるようになる。こうしたほかのカップルと、彼を共有することになる(彼を独り占めできるとでも思ったのか)。そのころには、もう金も、本も、ウィスキーも、借りていくようになっている。

 彼はなにがあっても止めたりはしないだろう。彼はずっとふたりが嫌いだったし、いまや自分が望めば、どこでもふたりを手に入れることができるのを知っているからだ。ふたりはもはや彼なしでは生きていけなくなっている。
気楽な格好でふたりの家のソファにすわっているこの怪物を見ていると、妻は夫の古い奇妙な友だち、ヒュー・コールドウェルのことを、実に懐かしく思いだすかもしれない。けれども時すでに遅し。ヒュー・コールドウェルは妻の名前を聞くだけで唾を吐くだろうし、おそらくは夫の名前を聞いてもそうするだろう。
そして夫は自問する。なんにせよ、自分はほんとうにヒュー・コールドウェルにもういちど会いたいのだろうか。とりわけ、そのことで引き替えに、妻が古い友だちに会うということになるのなら。
いや、と夫は答える。自分たちにはそんなことはできない。妥協点があるにちがいない、そんなに遠くまで行かなくても、中間の道があるはずだ。
夫の心はジレンマの扉を叩く。確かにどこかに――声もなく絶叫する――この大都市のどこかに、静かに暮らしている、おそらくは家具付きの部屋で、自分たちのどちらもが、強い感情を持たないですむような友だちがいるはずだ……。地味な男、あるいは女、さえないカップル、ごくふつうの習慣を持ち、好みの曖昧な、不愉快ではない、目障りでもない、漠然とした人々が……。愛を込めた筆遣いで、夫が自分の理想の人物の肖像画を仕上げていく間、その人物はそこに座ってニヤニヤしながら、邪悪という点では自分よりいささか劣る相手を見ているのだが、当の夫はそのことに気がつかない。
 
 結局、と夫はひとりごちる、自分が求めているのは、ささやかなものだ。ささやかな平和と静寂さえ得られるのなら、ほかのものはすべて諦めよう。
だが夫は平和と静寂の名の下に、独裁者が喜んで迎え入れられたことを忘れている――ちょうど強制収容所に送られたユダヤ人の銀行家が、ナチス党の基金に献金したことを忘れたように。1931年当時、銀行家が怖れていた最大のものは、共産主義だったのだ。あるいは、ベネデット・クローチェ、反ファシズムの哲学者である彼がナポリにいたころは、ローマ上院議会のムッソリーニを、アナーキズムやボルシェヴィズムこそ真の脅威で、秩序はより好ましい、という理由で支持していたのを忘れたように。
人は信じることができない、決して信じようとしないのだが、平和と静寂を願うことは、すなわち、恒久的な膠着状態を求めるということは、必然的に、騒々しい圧制者をソファに座らせる結果になってしまうのだ。にもかかわらず、そこにいる彼の存在は、夫には不当で、不慮の事故のように思えてしまう。

(いよいよ次回最終回)