陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その4.

2004-12-01 21:03:24 | 翻訳

 だがおそらく、アイデンティティの混乱があるようだ。
いままで話題にしてきたフランシス・クリアリィ、善良で、途方に暮れ、恋焦がれているフランシス・クリアリィは、結局はほんもののフランシス・クリアリィではなく、現実の、いまに生きる人物の叔父さんがその名で呼ばれていたのだ。
善良なフランシス・クリアリィに会うと、友人たちはいつでも、その性格に含まれる一種のアナクロニズムに強い印象を受ける。フランシスを見てると、子どもの頃を思いだすよ、繕い物をやっていたオールドミスの叔母さん(そうでなければ、毎年クリスマスの朝、金貨をくれた、形見に腕時計を遺してくれた独身の大叔父)を、と友人たちは話す。

ほんもののフランシス・クリアリィにはそのようなニュアンスはない。ナイロンやベニヤ板同様、現代の産物なのである。
彼と先の時代の遺物である叔父や叔母のちがいは、だれも彼のことを同情したりしないということなのかもしれない。彼のことを哀れむ者はいない、というのも彼自身が嘆いていないからである。彼は挫折した野心、未だ満たされない欲望、失われた理想といった影を、うしろに引きずってはいない。なるほど彼に「欲求不満」というレッテルを貼る者もいたが、その欲求不満という考え方そのものが、時代遅れで、絶望的なまでに田舎臭い――おそらく中西部あたりの田舎町、人々は夜な夜なせわしなく歩き回っては、自分の運命をあれこれ疑い、事情が変わったらどうなってしまうんだろう、と思い煩うような考え方で、文明の中心地ならばどんなところでも、人々はシーツのように、防縮加工がなされている。眼前に拡がる人生は、驚くようなものでも、失望するようなものでもないのだ。

 しかもフランシス・クリアリィは、完全防縮加工済み、他の追随を許さない理想的な人物である。要求というもの一切を持っていないらしい。――これが彼の長所である。正確に言うと、平衡方程式のように、要求と見込まれる満足の度合いが相殺され、その結果彼自身という人間は、ちょうど問題のように消滅する。彼の後ろでアパートメントのドアが閉まると、はじめから存在していなかったように思える。いないからといって、だれもそのことを話題にすることはなく、もし話題に上ったとしても、会話の流れでしかない。
年に一度か二度、彼がごく短い病欠を取ると、居心地の良いホテル式アパートメントには、花や、本、ワインの香りがする仔牛の足のゼリーが友人から届けられる。
ほかのすべてのことと同様、こうした病気にも象徴的な意味がある。病気のおかげで、普段払ってもいない関心を、贈り物の形で表すことができるのだ。病気がなければ、友人たちは自分のことを無神経な怪物と考えるようになるかもしれない――とにかく親しい友だちのことを一切気にしないなんてことがあっていいのだろうか? 先見の明のあるフランシスはそうした疑問が生じないように気を配っていたのだ。彼は口論の原因となることに耐えられないように、良心に刺さった棘(個人の内面での言い争いの原因)であることにも耐えられないのだった。
ほんとうの友だちは、家具付きの部屋で肺炎で苦しみ、廊下を渡って助けに来てくれるのはお手伝いさんだけかもしれないし、あるいはベルヴュー精神病院で精神錯乱と闘っているのかもしれないが、フランシスの咽頭炎は、みんなの関心を集めた。
それと同様に、彼は折に触れて友だちに無害な疑問(休暇にはメイン州とニュー・ハンプシャー州のどちらに行くのがいいと思う?)を、重大な人生の岐路に立たされ、助けを求める男の雰囲気で投げかけてくる。友人たちは、助言や、パンフレット、子ども時代に過ごした夏の記や手紙の冒頭で情報を与え、ついにフランシスがもともと行くつもりにしていた場所に出発すると、自分は何が起ころうと彼の側にいてやった、求められた友情を気前よく満たしてやったのだ、と感じるのだった。

 ごくたまに、友情が弱まってきたような徴候が見受けられると(夫と妻がもういちどお互いに恋に落ちたり、逆に仲違いして、自分だけの友だちに会うようなとき、あるいはまた別のフランシス・クリアリィ、彼の競合者と付き合い始めたとき)、フランシスは夫に金を借りるようなことまでする。
借金といっても、もちろんごく一時的に融通してもらうだけだったが、それで夫の側はおおらかで暖かい心地になり、かならずまた行き来しあうようになるのだった。
だが、その金を持っているのはごく短い間だけだったけれども(借りに行くのは27日まで待って、翌月の1日に、速やかに返すのがふつうだった)、フランシスはいつもひどく神経質になった。
一度か二度、夫の目のなかに懸念を読みとったように思ったことがあった。懸念というのは、経済的に困窮したがために、妻がよくそう呼ぶ「あの感じのいいフランシス」が「かわいそうなフランク」になってしまうのではないかという懸念である。
彼は、フランシスが自分を騙すようなことがあるだろうか、と夫が自問しているにちがいない、と思う。しつこく要求してきたり、実は巧妙に正体を隠していたりするような一面が、この古い古い友人のなかにはずっと潜んでいたのだろうか。長いこと出番をうかがっていたそのような一面が、突然現れたたのではないか。失望した男性が口にする古典的なフレーズ、「君はちがうと思った」が唇を震わせ、フランシスは自分は失敗した、と思う。
もちろんそんな瞬間は過ぎ去る。フランシスは金を返し、夫の方は、なんでまた彼を疑うことができたのだろう、と訝りながら、比喩的な意味で、額の汗をぬぐう。たしかにフランシスはちがうのだ。いままでだってずっとそうだったじゃないか。高校や大学で彼と一緒だった友人たち、とにかく彼のことを覚えている友人たちは、この点では見解が一致していた。

(この項続く)