陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシーはいかがですか その3.

2004-12-15 19:06:56 | 
3.『グループ』その2.

【ポーキー・プロザロウ】
ケイの夫ハロルドが逮捕されたという新聞記事を読んだのは、ヘレナの母親ばかりではなかった。プロザロウ家の執事、ヘンリー・ジェイムズに似ているとグループのメンバーたちに評判の、イギリス人ハットンもその記事を読んだ。

ポーキーは学生時代、グループの問題児だった。

大金持ちだが怠け者で、宿題は手伝ってもらうし、試験ではカンニングをするし、週末には行方をくらますし、図書館の本を盗むし、道徳やデリカシーのかけらも持ちあわせがなく、興味を示すものといったら動物とダンスパーティだけである。学生寮の年鑑に記録されているこの娘の将来の希望は、獣医になることだった。今日ケイの結婚式へやって来たのも仲間に引っ張られて来ただけのことで、それはカレッジの集会があるたびに仲間が窓に石を投げてこの娘を起こし、むりやり帽子や皺くちゃのガウンをつけさせて連れて行くのと全くおなじことだった。さて教会まで無事に連れて来たからには、式のあとティファニーの店へ引っ張って行って、何かケイへのすばらしい贈物をえらんでやらなければなるまい。ポーキーは一人では贈物をえらぶこともできないのである。


卒業記念に飛行機を買ってもらったポーキーは、獣医になるため、飛行機でコーネル農場試験場に通っていた。
家柄は良くても、家系図をさかのぼっても高等教育を受けたのはポーキーただひとり、頭が弱く虚栄心ばかり強い一家のなかで、ハットンは単なる使用人ではなく、家の責任者というおもむきがあった。ハットンの立ち居振る舞いは、一種の名物ともなっていた。

タイムズで見つけたハロルドの記事をポーキーの母親に見せておいた方が良いだろう、と判断したハットンは、朝食を運ぶ盆に、折り畳んでのせておく。


「ハットン!」と、翌朝、せわしなく呼ぶ奥様の声がきこえ、ハットンはゆっくりとふたたび食堂へ戻った。「これは何? なぜこんなものを持って来たの」プロザロウ夫人のクッションのようにやわらかい醜い肉体はぜんたいに震えていた。「申しわけございませんでした。奥様、その記事に出ております紳士の一人が確かミス・キャサリン(※ケイはキャサリンの愛称)の御主人だと記憶しておりましたので」……「ミス・キャサリン?……だれ、それは? わたしたちの知っているひと?」ハットンが第五面の乱闘場面の写真を見せようとすると、夫人は顔をそむけた。「ミス・メアリ(※ポーキーはメアリの愛称)がバッサーにおられた頃、クリスマスのお休みや、そのほかにも一、二度泊りにいらしたお嬢様です」ハットンはここでことばを切り、プロザロウ夫人の怠惰な記憶が働き始めるのを待った。だがプロザロウ夫人は頭を振った。……「どういう家柄のお嬢さん?」「存じませんです、奥様」……「それでこのお嬢さんが警察につかまったのね。一体何をやったの。万引か何か?」「いえ」とハットン。「拘留されたのはあのお嬢さんの御主人でございます。何か労働争議と関係のあることらしゅうございますが」プロザロウ夫人は蒼白く肥えた手を振った。「もう何も言わないで、ハットン。……そう、こうすれば一番いいわ、ハットン。この新聞を台所へ持って行って、ストーブで燃やしてしまいなさい。頼むから料理人には何も言わないでね。わたしたちのような立場の人間は、とてもじゃないけど、ハットン……〈ガラスの家に住む人々は〉よ、ハットン。それから何でしたっけ。あら、いやだ、ちがうわ。〈非難を超越せねばならぬ〉。これはシェイクスピアね。『ジュリアス・シーザー』」夫人は微笑した。「今朝はなんだかずいぶん高級な話になってしまった」


【ドティ・レンフルー】
娘の結婚式の準備で忙しい、ドティ・レンフルーの母親も、ハロルドが逮捕された記事を読んだ。ハロルドと、ハロルドの友だちが逮捕された話を娘に告げると、ドティはひどく動揺する。実はケイの結婚式の翌日、ドティはハロルドの友人で画家のディック・ブラウンと関係を持っていたのである。

この娘はグループの最年長者で、もうじき満二十三歳になる。蒲柳の質なので子供の頃から学校を休みがちだった。今ではもう何となくオールドミスの気分である。この娘の固苦しい礼儀作法や、几帳面な習慣や、風邪をふせぐため校内でも離したことのないマフラーや長いミンクのコートを、グループのみんなは嘲笑ったけれども、気のいいドティは、そんなときでも調子を合わせて静かに笑っているのだった。ボーイフレンドたちはいつもこの娘をうやうやしく取り扱った。そのボーイフレンドたるやたいてい友だちの兄や弟で、ハーバードの大学院で考古学や音楽学や建築学を研究している蒼白い青年たちである。……けれどもドティは、自分は楽しみごとが好きだし、むしろ官能的な素質もあると思っていた。……母親と話し合って意見が一致したことは、もしもだれか立派な青年と恋をして、婚約したら、幸福な適合を確かめるために一度は肉体関係をもつべきだということである。ドティの母親はたいそう若々しくモダンなひとで、その交際範囲のなかでも、そういう点で男と女がどうしても適合できず、したがって結婚生活は失敗であったという悲しむべき実例をいくつも見聞していた。ドティは離婚は罪悪だと思うけれども、結婚生活のそういう面をきちんと調整するのは大切なことだとも考えている。

 ケイの結婚式で花婿の付き添い役だったディックは、離婚したばかりのハンサムなボヘミアン風の青年だった。グループのなかで最も美しいレイキーとドティ、そしてディックは結婚式の翌日、三人で美術館に行く。そして次の日、ヨーロッパへ発ったレイキーを見送ったあと、ディックはドティを部屋に誘ったのだった。

一夜が明け、ディックはドティに「ペッサリーを貰っておいでよ」と言う。産児制限局に行って必要な知識を得たドティは、病院で診察を受け、必要なものを揃えた。ところが連絡をくれ、と言っていたはずのディックはいない。伝言を残したまま、ワシントン広場で暗くなるまで待ち続けたドティは、傷心のまま、ボストンの実家に帰った。
その後、静養をかねてアリゾナを訪れたドティは、そこで鉱山関係の事業家で大変な金持ちで男やもめのブルック・レイサムと婚約し、その眼と同じくらい大きなダイヤの婚約指輪を得たのである。

結婚式を目前に、ディックの名前とめぐり逢ったドティは、熱に浮かされたように母親にディックとの一部始終を話す。
それを聞いた母親は、結婚式を延期し、もういちどディックに会って自分の気持ちを確かめるように勧める。だがドティはそれを拒み、ブルックと結婚する、という。

「あなたは何かを犠牲にすることがいやなのね。……もう人生の盛りをすぎた男の人を傷つけないために、たった1ヶ月待つこともいやなのね。あなたのプライドを犠牲にして、ディックという人に逢った上で、もし愛しているなら同棲して、その人に正しい生活をさせるよう努力することも面倒くさいのね。わたしの時代なら、どんな女だって、愛や理想のためなら喜んで何かを犠牲にしたものよ……」「それはお母様の時代のことよ……もう犠牲なんて必要ないわ。……男のひとに正しい生活をさせるなんて無理だわ。こっちが泥沼に引きずりこまれるだけのことよ。そのことはアリゾナでよくよく考えたの。犠牲なんて時代おくれの考え方よ。インドで未亡人を焼き殺すみたいな、迷信よ、お母様。いま社会が目指しているのは、個人が自由に発展することでしょう」
「ええ、それには賛成よ。……わたしがあなたに言っているのはね、ドティ、ほんのちょっとしたことなの。つまり、自分自身を大切にせよ、ってことよ」「大丈夫よ、お母様。自分の気持ちはよく分かってる。ディックと寝たからといって、全生活を変えてしまう必要はないわ。ディックもそう考えてると思う。物事にはそれぞれ区切りがあっていい筈でしょ。……だから思い出としてとっておくほうがいいのよ」


【リビー・マコーズランド】
出版社に就職が決まったものの、リビーの地位ははっきりしない。家族の仕送りがあるせいで、こざっぱりしたアパートに住むことができてはいるのだが、社にデスクは与えられず、家で原稿を読む仕事を週に一度、もらうだけである。

初めは人にたいして、いやに強気だが、やがてどういうものか人にそっぽを向かれてしまうのが、(今までのところ)リビーの運命であるように思われた。……グループの場合でもおなじことである。リビーは『人間の絆』や、キャサリン・マンスフィールドやエドナ・ミレイやエリナー・ワイリーや、それにヴァージニア・ウルフが大好きだったが、レイキーが鶴の一声で、そんな趣味は感傷的よと宣告して以来、だれにも本のことで話相手になってもらえないのだった。皮肉なことに、リビーはグループ外部ではグループの代表者と見なされ、内部では逆にちっとも人気がないのである。

二年ほどそうした状態が続いたあと、リビーに原稿をくれる編集者のリロイ氏は、リビーには編集のセンスがない、と言う。文学斡旋業はどうか、と。作家と直接交渉したり、作家を励ましたり、なぐさめたり、昼食に連れ出したり、といった仕事の方がふさわしい。そうしてリロイ氏の知り合いの文学斡旋業者の助手となったのである。

卒業後三年目、リビーは自宅でパーティを開く。そのころにはグループの半数は結婚していた。ケイのつぎに結婚したプリス、ドティ、そして遠縁にあたるプリンストンの大学院生である詩人と突然結婚したポーキーである。リビーはケイ、プリス、ポリーのほかのメンバーたちとの連絡は途絶えていた。

そのパーティには旧友のほか、出版関係者、肉親、そしてボーイフレンド、「ほんもののノルウェイの男爵」でスキー教師のニルスを招いていた。
このパーティが終わったあと、一緒に食事に行く約束をしているニルスなのだが、その席上で彼は自分に結婚を申し込むのではないか、とリビーは思っていた。ところがパーティ客が帰ってしまうとニルスはリビーに迫り始める。

「きみは処女かい?」凶暴な姿勢のままで、とつぜんニルスはたずねた。リビーは何も言わずにうなずいた。もうかんにんしてと言うだけの気力しか残されていないようである。「ああ、なんて退屈なんだ!」とニルスは力をゆるめながら言った。「きみは退屈だよ、エリザベス!」それから顔をしかめて、「リビーと言うべきかな」青年は身をふるわせて立ち上がった。リビーはこれほど侮辱されたことは初めての経験である。服を乱されたままの格好でそこに横たわり、はあはあ喘ぎながら、おびえた茶色のひとみを大きくひらいて、リビーは哀れっぽく青年を見上げた。青年は手荒にリビーのスカートを引き下ろし、絹のブルーマーを隠した。「きみは強姦してもおもしろくないや」と青年は言った。そしてソファから立ち上がり、悠々と浴室へ入って行った。リビーは『オックスフォード詞華集』とともに取り残された。男が水を流しもせず、ドアをあけっぱなしで小便をする音が聞こえた。まもなく、口笛を吹きながら、青年はアパートを出て行った。掛け金がかちりといい、階段に足音が遠ざかり、それですべてはお終いだった。


(この項続く)

メアリー・マッカーシーはいかがですか その2.

2004-12-14 18:56:41 | 
2.『グループ』 その1.

現在この小説は入手困難なのだけれど、とにかくおもしろいので、少し丁寧に内容を紹介してみたい。

作者メアリー・マッカーシーと同じく、1933年にヴァッサー女子大(メリル・ストリープが確かここの出身者だった。『あしながおじさん』のジュディーが過ごしたのもここ。アメリカで女子大としては最も古く、由緒ある大学)を卒業した八人のグループのメンバーの、卒業後七年間の軌跡がたどられる、というのが、この作品のアウトラインである。

【ケイ・ストロング】彼女の結婚式で、この物語は幕を開ける。

ケイがおどろくほどの変りようを見せたのは、三年のとき、ウオッシュバーン先生の(このひとは自然科学に一身を捧げた老嬢だった)動物心理学の講義に出た頃からのことだった。かてて加えてハリー・フラナガン(訳注略)の演劇教室で活躍したことが、この内気で可愛らしくていくらかもっさりした西部出身の少女、髪は黒く艶やかに縮れ、顔色は野ばらのようで、ホッケーや合唱に熱を上げ、サイズの大きなブラジャーと重い生理のもちぬしだったこの少女を、やせて精力的で鼻っぱしの強い娘に変えてしまったのである。以来この娘はいつもスラックスにセーターにズック靴といういでたちで、めったに洗わない髪には絵の具をくっつけ、指はタバコで変色し、ハリーやハリーの助手のレスターのことを浮き浮きした調子で語り、張物、点描法、性的衝動、色情狂などということばを盛んに口にし、女友達の姓を大声で――イーストレイクだの、レンフルーだの、マコーズランドだのと呼び、実験的婚前交際を説き、配偶者の科学的選択を主張するのだった。愛なんて幻想よ、というのがケイの口癖である。(『グループ』小笠原豊樹訳 以下特に注記のない限り引用は同書)

ケイは卒業の前年、サマー・シアターの見習いとして働いていたとき、六歳年上で舞台監督助手のハロルド・ピータースンと知り合う。そして、ケイの卒業式の一週間後、両親も、年長者の立ち会いもなしに、監督教会派の教会で型破りの結婚式を挙げた。

ところが結婚しても、ケイはハロルドの実体を捕まえることができない。従来から、ケイのことは愛しているかどうかわからない、とはっきり言っていたハロルドであるが、彼が自分の父親に宛てた手紙に

ケイは人生を忘れていないのです……人生はともすればぼくらを傷つけます。。ぼくらはそのことを知っている。ところがケイは一度もそんなことを考えたことがないのです。たぶん、それだからこそ、ぼくはケイと結婚する気になったんでしょう……

と書いていたのを読んでしまう。ところがケイにはハロルドが惹かれる自分というものに思い当たらないのだ。少なくとも、ケイは正体がつかめないハロルドを怖れていた。

ケイはメイシーデパートに職を得たが、ハロルドは演出家との口論から失業してしまう。失業状態は約半年にも及んだが、ハロルドの戯曲がプロデューサーに売れたために、ふたりはパーティを開く。

スペインに滞在中のレイキーを除く、グループの全員が、ひさしぶりに集まった。パーティにはハロルドの仕事仲間のほかに、グループのメンバーではないけれど、ヴァッサーの同期生のノリン・シュミットラップと、その夫で社会主義者のパトナム・ブレイクも来ていた。
ケイとハロルドもかみ合わず、なんとなく冴えないパーティの最中、台所にマッチを取りに行ったグループのひとり、ヘレナは、ハロルドとノリンが台所でキスをしているのに出くわしてしまう。ゴシップには興味のないヘレナだったが、翌日、ノリンから電話があり、結局合うことになってしまう。

【ヘレナ・デイヴィスン】

背が低く、髪は薄茶色で、鼻は可愛らしくあぐらをかき、全体的にはがっしりした感じだが、その実やせてほっそりしているヘレナは非常に父親似である。やはり背が低く、髪が薄茶色の父親はスコットランド系で、合金の知識を活用して鉄で一財産つくった。……ヘレナはグループのなかでは愉快な人物を見なされていた。いたずらっぽいユーモアのセンスといい、ゆっくり引きずるような喋り方といい、初めのうちみんなを驚かせた裸で歩きまわる癖といい、何もかもが愉快である。……それにしてもヘレナが頭脳明晰であり、年のわりにたいそう成熟していることは、グループ全体が認めていた。……ケイと同室だったことやら(グループが寮の一郭を占領する以前)、ケイをクリーヴランドの実家へ呼んだことやらで、ヘレナはあっさり母親の意見を受け入れ、ケイを親友扱いしていたが、実のところこの二人はケイの人生にセックスが登場する以前ほど親密ではなかった。……自分で〈好悪の情熱〉と呼ぶところのものにたいしてヘレナは冷静かつ疎遠であり、ケイがハロルドに夢中になっているところを見るのは興味津々だった。


ヘレナは卒業後、保育園に勤める予定だったが、父親が反対したため(「特権を持つ人間はある種の権利を放棄するのです。あるいは放棄しないわけにはいかない」)、ヨーロッパへ数ヶ月渡ったあとは、就職もせずぶらぶらしていた。

気が進まないままノリンの家に出向いたヘレナは、そこでノリンからパトナムが不能であること、ハロルドとはずいぶん前から情事を持っていること、情事を持ったのがハロルドが始めてではないことなどを聞かされる。


「わたしは社会主義者じゃないけど」とヘレナは平静に言った。「でも、もし社会主義者だったらいい人間になろうと努力するわ……あなたが〈良家の娘〉だから、御主人はあなたと寝ることができないって言ったわね。それなら、事実を話してあげなさい。ハロルドとのことを話すのよ。奥さんと六人の子供をかかえた小学教師のこともね。そうすれば、御主人もきっと元気が出るでしょ。それから御主人にこの部屋をよく眺めさせなさい。あなたの顎のまわりの汚れを見せなさい。男と寝れば寝るだけ、垢がたまるみたいに汚れが濃くなるのよ。人の大勢入った浴槽が汚れるのとおなじことよ」


生活を立て直すように、というヘレナのアドヴァイスに、ノリンはそうしたことは「形式的なこと」として、まったく動じないのだった。パトナムとノリンの薄汚れた自宅は、左翼的知識人の集まる一種のサロンとなっているのだという。そして、男同士の思想的結びつきも強いのだ、と。ハロルドと二度と会うな、というヘレナの意見は、子どものもの、として一蹴されてしまう。

一週間後、クリーヴランドの実家に戻ったヘレナは、母親が読んでいたニューヨーク・タイムズで、ホテルでストライキ中の従業員を支援するために、同情ストライキを行った客が現れたこと、その最中ハロルドとパトナムが逮捕されたことを知る。新聞の写真の中央にはカメラ目線のノリンが。

ヘレナの母親は言う。

男というのは……女に言われない限り絶対にタキシードを着ないものよ。ずるい女にそそのかされない限り、同情ストだかなんだか知らないけど、男がタキシードを着て出掛けたりするもんですか。右翼だって左翼だって、男はみんなおんなじよ。で、女の目的は自分の写真を新聞に出すことなのね。ハロルドがパトナム・ブレイクとやらへの友情から、こんなことをしたなんて思ったら大まちがい。そう、きっとその女はパトナム・ブレイクもハロルドも、両方を指の先で操ってるんだわ。その頭飾りにしたって――きっとそれをつけたところを写真に撮りたかったのね。それからその手袋。よくも駝鳥の羽根かなんかの扇を持って行かなかったもんだわ。


(この項続く)

メアリー・マッカーシーはいかがですか その1.

2004-12-13 18:01:35 | 
1.メアリー・マッカーシーってだれ?

二週間近くにも渡ってお送りしてきた"The Friend of The Family"、これは、1950年に出版された短編集"Cast a Cold Eye"(冷たい目を向けよ――W.B.イェイツの墓碑銘の一節でもある)に所収されたもの。彼女が本格的な創作活動を始めた作品とされるThe Oasisが1949年の作品であるから(デビュー作は1942年のThe Company She Keeps)初期の短編のひとつといってもいいだろう。

 メアリー・マッカーシーは、1912年ワシントン州シアトルに生まれた。
 わずか六歳の時、インフルエンザによって両親を相次いで失い、メアリーと四人の弟(映画スターのケヴィン・マッカーシーは実弟)はミネアポリスに住む父方の「厳格な大伯母さんとそのサディスティックな夫(メアリー・マッカーシー『グループ』小笠原豊樹訳 ハヤカワ文庫の訳者あとがきよりの孫引き)」の家に預けられる。
 十一歳の時、今度は母方の祖父に「救出」され、シアトルに戻る。この高名な弁護士であった祖父の下で、メアリーは十分な教育を受け、大恐慌のおこった1929年、名門ヴァッサー女子大(現在は共学)に入学する。

 1933年、卒業式の一週間後に劇作家志望の若い俳優ハロルド・ジョンスラッドと結婚。けれどもこの結婚は1936年には破綻し、1937年に、マッカーシーはコヴィチ・フリード出版社(publishing house of Covici-Friede)の編集助手として働き始め、その後、季刊誌「パルティザン・レヴュウ」の編集スタッフとして、おもに劇評を手がけるようになる。また「ネイション」「ニュー・リパブリック」にも寄稿している。

 「パルティザン……」の仕事を通じて知り合った文芸評論家エドマンド・ウィルスン(『死海写本―発見と論争1947‐1969』の作者でもある)と1938年再婚し、一子ルーエルを得る。
 この時期、エドマンドの勧めで創作に手を染めるようになり、連作短編集"The Company She Keeps"(「彼女の仲間たち」)を1942年発表。けれどもこの結婚も8年目にして破綻する。離婚後、いくつかの大学で教鞭を執りながら、同年、雑誌「ニューヨーカー」のスタッフ・ライターだったボーデン・ブロードウォーターと三度目の結婚をする。
 
 1949年には、最初の長編"The Oasis"(「オアシス」:知識人たちが、高い理想を持ち、ユートピア的コミュニティを築こうとするが、人間の悪事に直面して失敗する)を発表、1950年には前述の短編集"Cast a Cold Eye"、1952年第二長編"The Groves of Academe"(「学園の杜」)、また創作だけでなく、演劇論集や、1957年には自伝"Memories of a Catholic Girlhood"(「あるカソリック少女の思い出」)、1956年と1959年にはイタリアを訪れその成果を、それぞれ美術論集"Venice, Observed"(「ベネチアの観察」)、The Stones of Florence(『フィレンツェの石』幸田 礼雅訳 新評論)として刊行するなど、1961年までに八つの作品を発表した。
 
 1959年、メアリー、そして夫のボーデン・ブロードウォーターと息子のルーウェル・ウィルソンは、ヨーロッパを旅行する。その後、国務省主催の講演旅行に出席することになったメアリーとともに、家族全員でポーランドを訪れる。一行は同年12月29日ワルシャワでアメリカ大使館の広報担当官、ジェイムズ・ウェストの出迎えを受けた。

 このジェイムズ・ウェスト(当時こちらも既婚者)とメアリーはたちまち恋に落ちる。ボーデンとルーエルが帰国する一月の半ばには、ウェストはすでにメアリーに求婚するまでになっていた(この間の経緯は『アーレント=マッカーシー往復書簡』《叢書ウニベルシタス》に詳しい。アーレントは、ゴシップの餌食となっていたメアリーを一貫して支持し、ジャーナリズムに対しては、結婚が打算的・売名的なものではないことを強調し、一方、個人的にはメアリーとボーデンの間に立って、ときには傷心のボーデンを慰めつつ、離婚の話を前進させようと心を砕いた)。
 
 1961年、双方とも離婚が成立したメアリーとジェイムズは、パリで結婚する。そして、1954年から短編の形式で書き続けられた"The Groupe"『グループ』(小笠原豊樹訳 ハヤカワ文庫)を1963年、ついに完成させ、刊行。大変な話題となる。この後も1971年"Birds of America"『アメリカの渡り鳥』(古沢安二郎訳 早川書房)など創作欲は衰えず、1989年に亡くなるまで、フィクション、ノンフィクション合わせて28の作品を発表した。

 明日はこのマッカーシーの作品のなかから、もっとも有名で、なおかつ大変におもしろい『グループ』を紹介したい。

(この項続く)


この墓碑銘は詩UNDER BEN BULBENの最終部から取られたもの

Cast a cold eye (冷たい目を向けよ)
On life, on death, (生に、そして死に) 
Horseman, pass by! (馬上の人よ、行け)


メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その12.

2004-12-10 22:26:47 | 翻訳


 妻と一緒にいても幸せではないのだが、あなたは変化を求めない。ロマンティックな気分のときには、官能的なブロンドや、気ままな女性、悩まされることもなさそうな女性を夢見ることもないわけではない。教会のオルガン奏者や、メソディスト教会の牧師の妻と駆け落ちする夢想さえ。けれどもあなたは平和を求め、世間体を気にかける。冒険や、より広い世界で生きることは求めていない。
けれどもあるとき、理論的に言えばこうしたロマンスを求めてもかまわないのだ、と考える。ひとりが冒険していれば、みんなが冒険をしたときの言い訳が簡単になる。だが、妻や隣人があなたより冒険に対する許容範囲が広いかどうか、いったいだれが知っていよう。
もしすべての人間が平等に創られているのなら、平等達成のためのプログラムなど存在しないはずだ。資本家が、もし自分よりいい暮らしをしている人間はだれもいないとはっきりと知ったなら、喜んで工場の門に国民軍を迎えるだろう。
わたしたちはほかの人よりたくさんほしがろうとはしないけれど、取り分が少ないと不安になる。わたしたちが望むのは、完全に同等であることなのだが、これが実現するのは下向き方向で計算すること、ゼロを究極の、実現不可能な理想とすることによってのみである。
ここでの生活は、一連の軍縮会議のようなものだ。もしあなたが要求を減らしてくれたら、わたしも要求を減らしましょう。わたしたちの目標を同等におくと、上向き方向で計算することは不可能である。そのために国が許されるのは、築き上げられるべき戦闘能力をもたない海軍であり、人が与えられるのは、実践とは縁のない自由であり、結局は、じき、総体の不平等に帰着する。

 みなが「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という主義を受け入れることができない限り、民主主義の困難さに回答するものとして全体主義国家が現れるだろうし、フランシス・クリアリィは理想の友だちということになってしまうだろう。
まさにいま現在、あなたは現在のクリアリィ、週末泊まりに来たまま居座っている彼を放り出そうと計画しているところだ。ほんの一時間前に、昼食をすませたにもかかわらず、なにか食べさせてくれ、と怒鳴っている。妻は慌てて台所に行き、チキン・サンドウィッチを作るが、夫は不安気に押し黙ったまま、フランシスを見つめている。彼は音楽が好きではないから、蓄音機もかけられない。自分が知らない人やわからないことの話もひどく嫌がるので、新しく会話を始めるのも恐ろしい。新聞を読もうにも、ないがしろにされたと感じるのではないか、と思うと、新聞を取りあげる気にもなれない。ひとたび不機嫌になれば、赤ん坊をつねるのだ。
 
 サンドウィッチが来ると、乱暴な手つきであら探しをするためにパンを開き、ピクルスとマヨネーズを要求するのを見て、あなたの心の中にレジスタンスの火が点る。鼓動が不幸な妻と連帯して、ドキドキと早く脈打ち始める。協力して、暴君を追い出すんだ。妻があなたのためにやってくれたのなら、はるかにそのほうがいいだろう。だがその場合も、あなたが心から、あらゆる支援をすることには疑問の余地がない。危険は、もちろん、反抗者同士の暖かな同胞愛のなかに、計画や準備することの楽しさに、寂しい家のなかで開かれる秘密の会合に、信頼できる農民の見張り番(いったい誰が通るのか?)に、妻が抱くある種の幻想がふたたびよみがえってくることに潜んでいる。
友だちにまつわるあらゆる質問がもういちど始まる。無秩序状態は続くだろうし、ふたつの強制収容所の亡霊たちがあなたの家の居間に集まってきて、古い問題を討論することさえあるかもしれない。感情が高じて、あなたは夜中に家を飛び出し、ホテルの部屋を探すことになるかもしれない。
あなたは自問する。平和のためには、あらかじめ妻と共通の友人を選んでおき、空白期間を置かない方が賢明なのではないだろうか。どこかで、つい先日、とあるカップルに会わなかっただろうか……。あなたはむなしく、そのふたりの顔と名前を思いだそうとする。これまでの記憶は脳裏を去らないが、あきらめない。ぼんやりした印象は、自分が間違っていないという確信につながっていく。彼らこそ、その人たちだ。もういちど会うような機会があれば、あなたはすぐわかるだろうし、ふたたび会えた喜びの声をあげながら、駆け寄っていくだろう。たったひとつ、問題がある。あのふたりはもうだれかと約束しているのだろうか……。
 
 繰り返し訪れる悪夢(語るに値しない、苦痛をあまり与えないものは勘定に入れない)から逃れる唯一の方法は、論理的なつぎのステップへ進むこと、あなたとあなたの妻がクリアリィたちに、たとえばラウンド・ヒル・ロードのクリアリィたちになることである。あなたはなぜそれを嫌がる? 失うものがあるというのか? ソファにすわっている男と、あなたのちがいはどこにある?




(近日中に全体に手を入れて、サイトに掲載します)

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その11.

2004-12-09 21:47:19 | 翻訳

 この耐え難い状況から脱出する唯一の方法は、ふたりのうちの片方が、クリアリィたちを相手のせいにすることである。ふたりの間で、クリアリィを分裂させるのだ。もし夫にクリアリィ氏とクリアリィ夫人の責任を負わせることができるなら(「あの人たちを呼ぼうっていったのは、あなたですからね」)、妻はフランシスを引き受けることができる。彼らを、いわば友だちとして扱うことができるし、またそのために、ふたつの派閥はともになくなってしまう。
ところがいまや、否定の否定、ゼロが最高位にまではね上がり、スーパー・フランシス・クリアリィが見つかる。探し出す道のりは遠く、間違った道に踏み込んだりしたこともあっただろうが、ついにある晩のカクテル・パーティで彼を発見する。言葉を発することもできない空白の一瞬が過ぎ去ると、夫と妻は彼を捕まえて家に引っ張って帰り、サンドウィッチを食べながら、恋人たちのように興奮して、なんでいままで会えなかったんだろう、と話をする。苦難のときは去り、妻はふたたび夫にほほえみかける。フランシスを見送りながらドアに立つふたり、夫の手は愛情を込めて妻の肩に回されている。

 だが、何ということか、同じプロセスがまた繰り返されようとし、しかも賭け金は上がっている。この新しい影の薄い人物は、もともとのつまらない友人より大物で、一層空っぽである。当然ながら、彼はより高い額を要求する。何十組というほかのカップルたちと、このすばらしい人物をめぐって争うことになる。彼は自分に安い値をつけたりはしない。いつだって人の集まる場所に連れて行けば、すぐに同僚や隣人が羨望のまなざしでこちらをみているのに気がつくし、つなぎ留めておくためには、法外な代金を払わなければならない。
昔のフランシスがいつも持ってきてくれていた鉢植えや、クリスマスのチーズ、子どものためのおもちゃなどはどこかへ行ってしまった。このすばらしい友だちは、なにも与えてくれない。愛想良くしようとさえしないのだ。年取った女性に話しかけたり、皿を洗うのを手伝ってくれたり、パンを買いに店に行ってくれたりするようなことは決してない。一緒にいることだけが、彼から得ることができるすべてであるし、彼が要求してくることは、次第に法外なものになってくる。もし側にいてほしければ、と彼の表情はこう語っている、ほかの友だちも、仕事も、趣味も、信条も――その人の性質を形作る個人的特質があわさったもの全体を――諦めることだ。そしてこの苛酷な犠牲の報酬は、妻もまた同じことをしなければならない、ということだった。
間もなくフランシスは、ふたりの家に、自分の友人を連れてくるようになる。こうしたほかのカップルと、彼を共有することになる(彼を独り占めできるとでも思ったのか)。そのころには、もう金も、本も、ウィスキーも、借りていくようになっている。

 彼はなにがあっても止めたりはしないだろう。彼はずっとふたりが嫌いだったし、いまや自分が望めば、どこでもふたりを手に入れることができるのを知っているからだ。ふたりはもはや彼なしでは生きていけなくなっている。
気楽な格好でふたりの家のソファにすわっているこの怪物を見ていると、妻は夫の古い奇妙な友だち、ヒュー・コールドウェルのことを、実に懐かしく思いだすかもしれない。けれども時すでに遅し。ヒュー・コールドウェルは妻の名前を聞くだけで唾を吐くだろうし、おそらくは夫の名前を聞いてもそうするだろう。
そして夫は自問する。なんにせよ、自分はほんとうにヒュー・コールドウェルにもういちど会いたいのだろうか。とりわけ、そのことで引き替えに、妻が古い友だちに会うということになるのなら。
いや、と夫は答える。自分たちにはそんなことはできない。妥協点があるにちがいない、そんなに遠くまで行かなくても、中間の道があるはずだ。
夫の心はジレンマの扉を叩く。確かにどこかに――声もなく絶叫する――この大都市のどこかに、静かに暮らしている、おそらくは家具付きの部屋で、自分たちのどちらもが、強い感情を持たないですむような友だちがいるはずだ……。地味な男、あるいは女、さえないカップル、ごくふつうの習慣を持ち、好みの曖昧な、不愉快ではない、目障りでもない、漠然とした人々が……。愛を込めた筆遣いで、夫が自分の理想の人物の肖像画を仕上げていく間、その人物はそこに座ってニヤニヤしながら、邪悪という点では自分よりいささか劣る相手を見ているのだが、当の夫はそのことに気がつかない。
 
 結局、と夫はひとりごちる、自分が求めているのは、ささやかなものだ。ささやかな平和と静寂さえ得られるのなら、ほかのものはすべて諦めよう。
だが夫は平和と静寂の名の下に、独裁者が喜んで迎え入れられたことを忘れている――ちょうど強制収容所に送られたユダヤ人の銀行家が、ナチス党の基金に献金したことを忘れたように。1931年当時、銀行家が怖れていた最大のものは、共産主義だったのだ。あるいは、ベネデット・クローチェ、反ファシズムの哲学者である彼がナポリにいたころは、ローマ上院議会のムッソリーニを、アナーキズムやボルシェヴィズムこそ真の脅威で、秩序はより好ましい、という理由で支持していたのを忘れたように。
人は信じることができない、決して信じようとしないのだが、平和と静寂を願うことは、すなわち、恒久的な膠着状態を求めるということは、必然的に、騒々しい圧制者をソファに座らせる結果になってしまうのだ。にもかかわらず、そこにいる彼の存在は、夫には不当で、不慮の事故のように思えてしまう。

(いよいよ次回最終回)

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その10.

2004-12-08 21:42:24 | 翻訳

これは彼が女性の場合であっても、完璧に当てはまる。以前、フランシス・クリアリィは目立たない聞き役だったのだが、いまやアイデアをひとつだけ持ってパーティにやって来ると、幽霊のようにどこにでも出没するのだった。
そのアイデアというのは、いつもいつも個性のまったく感じられないもの、かつて活発に議論されたものの影(抽象画対具象画、革新的教育か、古典的か)でしかないのだが、この女性版フランシス・クリアリィは、あたかも自分自身の話のように、自分がかつての議論の残留物であるかのように持ち出してくるのだった。話題が変わるのは、死んでしまった議論を冒涜するものであると感じるらしい。「ほかの人は忘れているかもしれないけれど、わたしは覚えてるわ」と、うらみがましくもつらつらと述べるのだ。女主人がもっと個人的な話題にうまく話を向けることができても、部屋の反対側からたったの一語でも漏れ聞こえるだけで、彼女のアイデアという機関車が、もういちど煙を吐いて駅を出るには十分なのだ。彼女は夢中になって、モンドリアンの脅威からラファエルを護ろうとする。一瞬の沈黙があっても、客のひとりが不注意にも「あの子は絵みたいにきれいだね」のひとことでも洩らそうものなら、瞬時によみがえり、「絵のことについてなら、話したいだけ話すことができるわよ」とフランシスは言い始め……。

 男性版のフランシス・クリアリィのこの交戦状態は、もう少し肉体的な様相を呈しがちになる。
今日ではいよいよ頻繁に、フランシスはグラスや灰皿やランプを割るようになってきた。メイドがグレイヴィソースをかけているその腕に、フランシスの肘は当たり、女主人のドレスはクリーニング屋に行く羽目になる。
夜も早いうちは、以前の多くを求めない彼だったのだが、夜遅くなると、突然、不機嫌が取り憑く。
「一生のお願いだから」と自分の頭越しに続いていく会話に、突然大声で割り込んでみたり、だれかほかの人間の帽子をひっつかんで、行きがけにテーブルをひっくり返しながら、無作法によろめきながら出ていくようなことをするのだ。

 カップルの場合は、それほど飲むことはない。逆に、穏やかに、だがきっぱりと、三杯目、ことによったら二杯目でさえ断る。
早くにやってきて、ふたりのフランシスはソファに身を落ち着ける(いかなる数、性別であっても、クリアリィたちはソファに親和性を持っている。ともに所有のシンボルとして場所をふさぐ)。この有利な地点から、彼、もしくは便宜上彼らと呼ぶべきだろうか、はなんとなく、威厳は感じさせつつも愚鈍なたたずまいで、なりゆきを見守っている。
家族の友だちとしての位置は、加わってから新しく、未だ不安定なものだけれども、妻や夫が昔からずっと仲が良かったグループのメンバーたち(学生時代のルームメイトや前の恋人)を、彼らに認められるのを待っているかのように扱う。
普通のやり方で会話に加わる必要があるとは考えて折らず、ほかの人々が持ち出した話題に、きびしい、尋問するかのような調子で質問する(「その黄色いネクタイの意味を教えてもらえますか」「なぜあなたの小説の登場人物は、そんなに憂鬱な性生活を送ってるんですか」)。そうでないときは、ただ座ったまま、楽しませてくれるよう要求するのだ。

 酒を飲むフランシス・クリアリィのように、カップルのクリアリィもほかの客はみんな帰ってしまうまで残っていて、自分たちが見たり聞いたりしたことを主人や女主人に報告する。
彼らの目を逃れるものはなにもない。元ルームメイトの吃音にも、昔の恋人の斜視にも気がついている。ヘビー・ドリンカーが重ねた杯を数え、手が震えていたのを記録する。きれいだとみんなが思っていた女性は、O脚だったことが明かされ、陽気なロシア人は髪を洗う必要性を指摘される。自分たちが見つけたことを、まったく客観的に述べるだけ、報告はするけれども批判はしないのである。

すべて人間というものは、言ってみれば、一個の芸術作品であるのだが、このクリアリィたちは科学者で、芸術家の指示に誇りを持って逆らうのだった。
芸術家がハイライトを、この人格の中心点と考える場所に置くとする。ハイライトは「ここを見て」と言っているのだが、クリアリィたちは即座にそれとはちがう場所を見る。ある人物の目の表情が豊かだからといって、欠点であるアゴを決して見過ごしたりはしないのである。
しかも、これまでは芸術の法則と、慈悲の精神に従って、見よと言われた場所を見ていた主人もその妻も、いまやこの明瞭かつ寒々としい見方に、まったく困惑させられてしまう。これまで全体を見ていた友だちが、ちょっと傷物のパーツの寄せ集めに見えてきてしまうのだ。とたんに憂鬱になってしまうけれど、こうした調査をおこなうクリアリィたちに、そんなことを言う権利があるのか、問いただそうとは思わないのだ。というのも、彼らが会ったばかりの人々を姓ではなく名で呼ぶために、奇妙な権威と支配力があったからである。
「ジョンはひどく飲みますよね?」と言われてしまうと、いや、今日の彼は特別だったんだよ、というふりをしても意味がなくなってしまう。この「ジョン」は、あなたがたより彼の習慣には詳しいのですよ、という主張にほかならないのだ。クリアリィたちが最後のグラスを干し(「冷たい水道の水をコップに一杯だけ、いただけませんか」)、ドアから出ていくのを見送ると、主人も主人の妻も、精根も信念も尽き果てたような気がする。主人側の友だちも、妻の友だちも、まったく公平にさらされて、後に残ったふたりは口げんかする気にさえならない。世界からは人が絶えてしまった。いるのはただ、自分たちふたりと、クリアリィたちだけ。

(明日は最終回……のはず)

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その9.

2004-12-07 22:04:37 | 翻訳

 フランシス・クリアリィと電話中に次第に早くなっていく妻の声を聞きながら、夫は自分が「なんであいつにあわなきゃならない?」 と、してはならない自問をしていることに気がついてドキリとする。パッと明るくなった妻の声の意味することが神経に障ってくる。それは暗黙の了解に反するものだ――妻はフェアじゃない。夫は自分がずっと騙されていたような気がしてきた。
そのときから、夫はフランシス・クリアリィが耐えがたいほど嫌いになり、妻はフランシスをパーティに招待しようとすれば、まるで妻の友だちを呼ぶときのように、夫と闘わなければならなくなった。もし妻が愛情に誠実であろうと思えば、夫が留守のとき、あるいは残業で遅くなるときに、自分がフランシスと会おうとしているのに気がつく。約束して、閑静なホテルのバーで会うようになるのだ。
だがこの不倫めいた雰囲気は、フランシスにはがまんならなかった。愛情はあるが、貞淑でもある彼女も、彼を家に招くことができないために、近づくことすらできない。

実際、フランシスは彼女が自分に好意を持っているために嫌っていたのだが、彼の見るところ、その愛情こそがすべてのトラブルの元なのだった。夫同様、フランシスもまた、激しい怒りを感じていた。彼もまた裏切られたように思ったのだ。
妻は過度に友情を求めようとして、夫とフランシスの両方を丸めこもうとしたのである。妻のほうも、フランシスが家に招かれなくなったことを気に病んでいるのには気がついていた。(ほかならぬこの妻はどちらかといえば賢くはないほうだったので)フランシスは古くからの友だちである自分の夫が恋しいのだろうと想像する。そして、フランシスの苦痛を軽減しようと、嘘までつくようになる。
「ジェリーはあなたに会えなくて寂しがってるわ」そしてこのように続けるのだ。「だけど私たち、近頃だれとも会ってないの。ジェリーの具合が良くなくて。ずっと家で推理小説を読んでるのよ……」

フランシスはもちろん、もっと良く知っているのだし、結局は、友だちが開いた規模の大きなパーティで、ふたりが揃って会食しようとしていたところでフランシスに会い、妻の哀れな二枚舌は、ばれてしまうのだった。妻が肘でつつこうが、必死に目配せしようが、一切黙殺したまま、夫のジェリーはフランシスを彼らのテーブルに呼ぼうとしない。
そのとき以降、彼女が電話しても、フランシスはいつも忙しくて会えなくなった。だれかが彼女の名前を口にすると、めずらしく彼女を嫌っていることを隠そうともしないので、彼女がフランシスと彼の震い友人である夫を仲違いさせたか、あるいは彼女の方がフランシスに情事を持ちかけて、失敗したのだろうと推測する。夫の方は相変わらず褒めちぎっているので、仮説のどちらもが裏付けられる。
しかもフランシスの賞賛は、擬態ではなかった。ジェリーが彼に抱いた軽蔑ゆえに、尊敬したのである。それがふたりの共通した態度であったから。
不幸な妻からすれば、何が悪かったのか理解することができないのだった。結局は夫が言ったこと、折に触れてそう言ってきたことを信じるようになった。自分には人間関係をうまくやっていく才能がないのだ。

 アルとジェリーの妻というふたりの危険な暗礁の間の不安定な針路を、フランシスは舵を取っていった。この人生の浮き沈みも、ほんもの、あるいは想像上の危険に対する用心も、フランシスが変わったためだった。確かに、ほとんど毎年のように、自分の前提を再検討しなければならないのは、楽なことではなかった。

かつてフランシスは、自分は世間と有利な取引をしていると思っていた。だが、ジェリーの妻が好意を見せるたびに、自分の抜け目なさに疑いを持ってしまう。もし自分のことが好きなら、どうしてほかの人間はそうではないのか。もし好きだというのなら、愛しているわけではないのだろうか。ほんとうに好きなのだろうか、そして、どれほど? 好意を見せられるようなことがあると、そんな疑問を沈黙させるのに数週間を要した。
実業家のように、彼は人生との取引を早く終わらせてしまうことを怖れた。買い手はもっと高い値をつけてくれるかもしれないのだ。実業家が、自分が処理した財産は、ほんの取るに足らないものを一掃したに過ぎないと自分に言い聞かせることで、やっと心を落ち着かせることができるように、フランシスがたったひとつ頼みにするのは、いまいちど、自分の名前に反して、価値ゼロの人間に設定していたことは、落胆することもあり、さらに成功でもあったが、完全に正しかった、と自分に言い聞かせることだった。だが、会計監査ならばうまくいったとしても、深夜、落胆と成功を数え上げていくことは、いかにフランシスとはいえ、心痛むことであったにちがいない。麻酔をかけた心が、怒りと悪意で目を覚ます夜もあったにちがいない。

 おそらく自然は真空を憎むのだ。そしておそらく、フランシスの自然という密閉された無菌室の壁は外気圧のために崩壊し、あらゆる未結合の感情が、どっと流れ込んでしまったのだ。すなわち憎悪や羨望のような、愛とはちがって一定の物体に張りつくことのない感情が。そうした感情は人間の体のまわりにガス状になって漂った。

ともかく、フランシスは変わった。みなの見ている前で、明らかに、かつて彼がそうでなかったあらゆるものになろうとしていた。そのプロセスに気がつかない人は、フランシスのことを考えない習慣が身についていたために、彼が人の居間で、蛇に変身したのにも注意を向けなかったのである。無関心であったことが目には見えない覆いとなって、その後ろで彼はなにかぎょっとするようなものに変貌を遂げつつあるのを隠していたのだ。ところがいまや、記憶が揺り起こされる。彼の礼儀作法を思いだしてみると、決して洗練されてはいなかったけれど、今日のそれよりははるかに受け入れられるものだったはずだ。

たとえば、かつて彼は七時半になると、さっさとカクテルパーティを引き上げ、一番厄介な女性をヴィレッジにディナーに連れ出してくれたことがあった。ところが年が経つにつれ、彼の暇乞いの時間は、確実に遅くなっていく。じき、妻がフランシスのために夜の九時にスクランブルエッグを作るはめになる。いまや真夜中の二時、三時に、予備の部屋で彼のベッドを用意しなくてもすむときは運が良かったと思わなければならない。さらに幸運を望むなら、タクシーに彼を押し込んで、自宅まで送り届け、家のドアを開けてやることができたら、言うことがない。

かつてはおもしろい客が何人も腰を据え、論争し、詩を引用し、ピアノを弾き、歌って楽しかった。だが、いまや魅力的な人々は、みんなどこかよそへ行ってしまい、すべての人々が、煎じ詰めればフランシス・クリアリィということになった。おそらく尋ねることもなく、これも人生のアナロジーであるとして、受け入れるほかないのだ。

 おそらくフランシスが酒に耽溺するようになったこと(彼はもはや自分のグラスが空なのに気がついてくれる人間を待つようなことはせず、シェイカーから自分で注ぐか、露骨に聞いてくる。「だれか、もう一杯飲みたいとかなんとか言わなかったっけ」)で彼が長居するようになったのだろうし、彼の話が次第に残酷になっていったのもそのせいだろう。

かつてフランシスはいつだって、話し相手の興味がちょっとでも逸れたなら、すぐに自分の逸話など打ち切ってしまっていた。彼の話の多くは、中断されるのを待っているような話を中心に構成されているようなものだった。
だが、徐々に彼は自分の話題に執着するようになってきた。新たに人がやってきたり、主人が中座して、客のコートを取りに行ったり、あるいは、主人の妻が赤ん坊の様子を見に行ったりして、話を中断することがあっても、彼は自分の話にしおりを挟んでおく。
「ぼくがさっき言ったみたいに」と、気持ちが逸れていても、彼は話を続けるのだ。なによりも彼の意見は、かつては会話に沿うよう調節されたもので、退却場所を設けずに配置につくことは決してなかったのだが、いまでは凝り固まった、押しつけがましいものになりつつあった。

(この項続く……たぶんあと二回、もしかしたら三回で終了予定)

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その8.

2004-12-06 21:10:46 | 翻訳

 多くの場合、この防衛策のおかげで、友だちというフランシスの地位は安泰だった。若いほかのフランシス・クリアリィが、親密な関係という深みから抜け出ようと努力するのを、専門家的見地から、興味深く見守った。

彼自身は夫や妻が、良からぬ思惑を内に秘めて、彼が好きなふりをして交わりを求めたり、以前ほど頻繁にディナーの招待に応じなくなったことや、フランシスと取るはずのランチが、しょっちゅうひとりで取る羽目になったことに文句を言ったり、手紙のやりとりを続けたりしても、ふたたび騙されることはなかった。
だがそのうち、カップルのもうひとりの方が、憤慨して怒り出し、不当であると感じ、ドロシーは(もしそれが夫の方なら)、なんであの鈍くさくつまらないやつにがまんできるんだ、自分のほんとうの友だち、おもしろいやつがアパートメントに足を踏み入れるたびに、ベッドルームでかんしゃくを起こす癖に、と一日に百回も自問するようになるのだった。
フランシスには必ず訪れる決裂の日を、ほとんど時間まで予言できたので、専門分野で競合さえしていなければ、若いフランシス・クリアリィに、ジョン・レイトンがまったく何の理由もないまま彼の頭上でハイボールのグラスを割る日に、レイトン家に行かないように警告したかもしれないくらいだった。

フランシス自身はこうした件に関しては、慎重深く行動したために、時折、その必要もないのに逃げ出してしまう。
ほんのちょっとした褒め言葉だけで、危険を疑い、交友関係が半分も始まらないうちに、安全な場所に慌てて逃げ去るために、なんの邪な計画も持っていなかったカップルなどは、世間づきあいのなかで好きな人の一員に加えようと楽しみにしていたのに、あの親切なクリアリィさんを傷つけるようなどんなことをやってしまったのだろうかと自問する羽目になったのだった。

 プラットフォームで過ごした夜の痕跡は、後々まで残った。
愛されたい、注目されたい、大切にされたいという願いが、かつてはかすかにでもあったかもしれないのだが、痛みもないまま圧殺され、いまや愛されるのではないか、という恐怖が、取り憑いて離れなくなってしまったのだ。いかに芽生えかけた愛情のまなざしを向けられたとしても、彼は自分を滅ぼそうとするものの凝視であると受け取ってしまうのだった。

彼のあらゆる行動は、贈り物をすることも、訪問することも、几帳面に安否を尋ねることも、ゲームをすることも、田舎を散歩することも、相手への献身というシンボルを操作することにもっぱら向けられていたが、それでも、それらのしるしの根拠をほんのひとつ確かめるだけで、彼を破滅させるのには十分なのである。たとえば5ドル金貨が貨幣の流通に導入されたと仮定する。すると現行の全通貨制度は一変してしまう、それと同じことなのである。

ひとりの人物が彼を好きになるだけで、彼は手段と評価の世界、比較の世界で解釈されるようになる。だれかが彼を評したために、彼の評価をめぐって、あらゆる質問が始まっていく。ゼロだった彼、計算が始まる動かない点だった彼が、実数になり、たとえそれがほんの小さな分数であっても、競争のフィールドに入っていくことになる。

別の言い方をすれば、以前は「x」だった彼、未知数であり、どのような社会の方程式でも、既知の数(ヒュー・コールドウェル)と代替可能だった彼が、彼自身、既知数になってしまった、いわば代数学から算術へと進んだわけだ。
彼はもはやヒュー・コールドウェルの代役ではなく、もはや同一の存在、互いに較べることができる存在になったのだった。かつて彼の全面的な長所は、ヒュー・コールドウェルが好意を持たれているほど、だれも彼のことが好きではないという点にあったのだが、実際に、だれかがヒューの半分、四分の一、十分の一程度でも好きになったなら、彼の家族の友人という地位が終わりになるには十分なのだった。


メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その7.

2004-12-04 22:13:15 | 翻訳

 この衝撃的なできごとは、若い俳優フランシス・クリアリィにとって、きわめて重大なものだった。自分の地位が、未だ決定的ではないにしても、まちがいなく危機に瀕していると感じられたからである。
二時間近く、彼は駅のプラットフォームをゆっくりと行ったり来たりしながら、自分をフェアフィールド・カウンティから、ノーマン・コーウィン(※アメリカのラジオ放送作家)を尊敬してやまないと話し、レッド・ネットワークの会長が同席するランチに誘ってくれる大切な人物から遠ざけようとする列車が来るのを待っていた。この短くも長い、やりきれないひととき、自分がこれまで関係を持ってきた多くの人々、義理の母親、姉、ほんとうの友だち、昔の恋人たちといった自分を冷遇し続けた人々、そして彼を慕ってくれた人々が押しのけられていく。

彼は心のなかで、救いの手を差し伸べようともしてくれなかった欺瞞的な夫の方に、悲痛な抗議の声をあげていた。胸の内で泣き続け、ついにはすっかりかたくなになってしまったのである。
このときからフランシスは、愛情という害毒が、彼の友情のひとつを汚染しないように、できるかぎりの方策を熱心に取るようになった。
しかも、彼は結婚したために家族に献身的につくそうとするパートナーと関係するのにも嫌気がさしていた。とりわけレイトン家の場合が疑わしい。レイトン家ではほんの少しの同士的連帯さえ、示してはもらえなかったのだ。

そうしてフランシスは、もっぱら子どもばかりかわいがるようになる。子どもたちと床に拡げたゲームをし、動物園や祝日開催される人形劇に連れて行く。――多くの友人たちが、あのかわいそうなフランシスが結婚しないのは、一目瞭然、子どもが好きでたまらないからだ、とたがいに言い合うまでになる。子どもたちの多くはフランシスのことなど気にも留めず、なかには父親がいかにもうさんくさい同類と一緒に酒を飲んでいる間、フランシスがどんなに楽しそうな場所に遊びに行こうと誘っても、バーに座っていたがるような子どもさえいたのだが、両親の教育がもう少しうまくいっている家の子どもたちは、ものの名前をそのものととらえて、フランシスが、大好きだよ、と言えば、とにかく全力で、ぼくも大好き、と素直に返してくれるのだった。

けれども、どちらの場合でも、自分の子どもに目を光らせている母親は、フランシスと手を携えて、子どもっぽい目的をかなえてやろうとするが、子どもがあきらかにフランシスと楽しく過ごすのを喜んで見ているようになる。母親自身のフランシスに対する感情から、子どもがそれまで慣れていたものより良いものを手に入れるのは、なんであれ、危険は少しもないと確信していたのである。


(今日は忙しかったのでこれだけ。明日はもうちょっとたくさん訳したいと思います)

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その6.

2004-12-03 21:57:20 | 翻訳

 いまやちがいはあきらかになっただろう。
少なからぬケースで、羨望や欲望を直接妨げているのは妻や夫であり、こうした結婚生活のなかでの友人というのは、偶然巻き添えになった被害者なのである。
なにもそうした友人に個人的な恨みがあるわけではない。友人が嫌いなのは、妻と一緒に笑っているからなのだ。

だがそれとは異なる種類の結婚もある。
そこでは偶然巻き添えになった被害者は、結婚相手の方だ。敵、すなわち友だちグループを襲撃して家に連れ帰った人質なのである。
わたしたちはこの相手に対して、何ら悪意は抱いていない。報復のしきたりどおりに彼の耳や小指を切り落としたことを、気の毒にさえ思う。彼自身が復讐の対象なのではなく、彼はわたしたちが敵愾心を燃やすもの、多くの場合、あるグループ、階級、カースト、性、あるいは人種といったもののシンボルに過ぎないのだ。
こうしたケースの特徴は、一般的に言って、未熟で、びっくりするほど不釣り合いなことである。銀行家の娘と結婚したコミュニスト、美しいユダヤ系女性と結婚した反ユダヤ主義者、女優と結婚し、舞台を辞めさせた実業家を見るがいい。これらは換喩を実行に移したものだ。部分は全体を置き換える。シンボルとシンボライズされるものの関係なのである。

実業家と女優の場合、彼は正気ではなかったのだ、と思う者もいるかもしれない。どうして女優なんかと結婚するんだ、初日に最前列で舞台を見るだけではいけないのか、と。
彼の学生生活が演劇部に参加させてもらえなかったために、悲惨なものだったことを知らなければ、そして彼が、タイムズ・スクウェアの不動産を買い占めたり、ラジオ局や映画会社に投したり、以前には、そのころヒットしていたブロードウェイのショーの猥褻な部分を指摘する匿名の手紙を認可委員会におくりつけたこともあった、このようなことをしながら舞台に復讐していたことを知らなければそう思ったとしても無理はない。

コミュニストは銀行家の娘を支配下に置いて、十三番街でみすぼらしい生活をさせている。整えられていないソファベッド、朝食の食卓にはブリキのカップに入ったエバミルクが、下品な真鍮の灰皿に並んで置いてある。ほこりっぽいパンフレットの山、遅い会議、ソーダの入らない安ウィスキー、髪にウェーヴを当てるときは洗面器と薬局――薬剤師はほんとうは、生活のために彼女に恩義を施す現在の状態に嫌悪感を抱いているらしい――で買った安売りのセットローションを使うのだ。だが、彼の家は、彼女のおぞましい父親が金を払ってくれる訪問に備えた舞台なのである。

美しいユダヤ系女性と結婚した反ユダヤ主義者は、自分は愛のためにずいぶん変わった、と思い、彼女に優しく接し、自分の思惑によって、彼女からユダヤという人種的要素を免除してやっているかもしれない。彼女の係累、母親や、妹、かぎ鼻の叔父がいるにもかかわらず、自分はおまえと一緒になったのだ、と何度も繰り返し自分に、そしておそらく彼女にも言明するだろうが、実際は妻にはうんざりしていて(確かにあまりユダヤ人らしくはないのだが)、義理の母親がやって来るのを、毎年残酷な動機から心待ちにしているのだった。毎夏、「カイク」(※ユダヤ人に対する蔑称)という言葉を年老いた母親の前では使わない、と妻と約束しているのだが、どういうわけかいつもかならず口が滑って、涙に暮れる老婦人を、二階へ追いやってしまうことになり、かくしてここでも結婚は完全なものとなっていく。

 この違いは、明らかにしておかなければならないのだが、一方、友だちや夫や妻にとっては、自分たち自身が原因で疎んじられていようと、何かしら無関係の理由で疎んじられていようと、ほとんど差はないのだ。爆撃された子どもは、爆撃手の個人的動機など詮索しようとは思わない。
レイトン家のふたりに関していうなら――そもそもの疑問に戻ろう――、レイトン夫人がヒュー・コールドウェルを嫌うのは、ヒューもしくは彼に似ただれかが、以前、画学生連盟の夜間授業で、自分のスケッチにクレヨンで線を引いたからかもしれないし、あるいは夫人はメイシーデパートの専属スタイリストで、彼はヌーディストなのかもしれない、あるいはほかの理由からかもしれないのだが、いずれも利害の相違から生じたものである。
あるいは夫人がコールドウェル氏に非難すべき点があるのを――つまりそれは夫への友情にほかならないのだが――見つけたからかもしれない。
どちらにせよ、結果は同じこと。みずからの意向であれ、単に夫に対する悪意からであれ、レイトン夫人はコールドウェル氏には、彼女のすてきな新居の敷居をまたがせないように算段する。

 その意図がどれほど正しいものであっても、愛を諦めることができない人がいるし、勝利をあきらめることができない人はさらに多い。先に述べたように、二番目のカテゴリーから先に検討したいのだが、レイトン夫人のような女性は、フランシス・クリアリィだけをパーティに招いたために何かを犠牲にしたようなふりをするのだが、これは公正な振る舞いとは言えない。除外したヒュー・コールドウェルに対する妬みと怒りは、その夜の間中、表面的には退屈ではあったかもしれないが、十二分に報いられたのである。

反ユダヤ主義者の場合には、さらに悪質ないかさまが行われた。ユダヤ系のフランシス・クリアリィをしばしば家に招いたのは、妻の又従兄弟だったからなのだが、やがて極めて残酷でぞっとするような意見を、偏見だと非難されることもなく口にするようになった。

だれよりもひどいのが、先にも少しふれた、女優と結婚した実業家である。実業家の劇場関係者に対する憎悪は、以前、妻と一緒にワンシーズン夏期公演を行った若いラジオ俳優、フランシス・クリアリィの前に、一時的に収まったかに見えた。
この男は、名前はアル、数ヶ月に渡ってフランシスに向け、友情を装ってみせたのだ。ダウンタウンでランチを誘い、ラジオ業界の有力者を紹介し、彼の朝の放送を聞いてやった。
元女優の妻は、最初はとまどったものの、こうした配慮に心を動かされ、自分に愛の手をさしのべているのだと考えて、我が家が自分のほんとうの友だち、脚本家や演出家、正真正銘の役者たちといった、田舎に引っ込んでから恋しくてたまらない人々でいっぱいになる日を待ち焦がれる。
だが、夫がしきりにラジオでの詩劇の方が、舞台での箱詰めにされたような芝居より、よほどいい、と話すのを聞くうちに、夫の計画にこめられた悪意に気がつくようになる。
妻の答えは遠慮のない、好戦的なものになる。妻はフランシスを、あたかも夫が純粋に熱中している存在であるかのように扱う。――そうしてある晩、なんらその誘因がなかったにもかかわらず、彼を追い出したのだった。