陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジェームズ・サーバー 『ネコナキドリの巣の上で』 その4.

2004-12-29 21:37:49 | 翻訳

翌朝八時半、マーティン氏はいつもどおりの時間にオフィスに着いた。九時十五分前、普段は十時前に出てきたことのないアージン・バロウズが、勇ましい足取りで文書部に入ってきた。
「これからフィットワイラー社長に報告に行きますからねっ」と夫人は怒鳴った。「社長さんがあんたを警察に着きだしても、当然の報いだわ!」
マーティン氏はさも驚いた、という表情を浮かべ「何をおっしゃっておられるのかわかりかねますが」と言った。バロウズ夫人がフン、と鼻を鳴らして勢いよく出ていくのを、部屋にいたミス・ペアードとジョーイ・ハートは呆然と見送る。
「オバアチャン、こんどはどうしたんですか?」と聞いてきたミス・ペアードに、マーティン氏は「見当もつかんよ」と答えて、仕事に戻った。残ったふたりは、マーティン氏を見、それからたがいに顔を見合わせた。ミス・ペアードは立ち上がって部屋を出ていった。フィットワイラー氏のオフィスの閉ざされたドアの前をゆっくりと通り過ぎる。なかからバロウズ夫人がわめいているのは聞こえたが、ロバのいななきのような笑い声は立てていなかった。何を言っているのかまではわからない。ミス・ペアードは、自分の席に戻った。

 四十五分後、バロウズ夫人は社長室を出て、自分の部屋に戻るとドアを閉めた。三十分もたたないうちに、フィットワイラー氏がマーティン氏を呼びだした。文書部長は端然かつ沈着冷静、加えて思慮深い面持ちで社長のデスクの前に立つ。フィットワイラー氏は顔色が悪く、落ち着かなげな物腰だった。眼鏡をはずしてもてあそんでいる。喉の奥で軽い咳払いをして、切り出した。
「マーティン、君が我が社に来てから、二十年以上になるね」
「二十二年になります」
「その間ずっと」と社長は続けた。「君は仕事内容といい、あー、その、何だ、勤務態度といい、模範的だった」
「そうありたいと願っております」
「君は確か、酒もタバコもやらんのだったように思うが」
「そのとおりです」
「やっぱり、そうだったな」フィットワイラー氏は眼鏡を拭いた。

「マーティン、昨日、退社後どうしたか、教えてくれるかね」
マーティン氏はほんの一瞬たりともとまどう様子を見せなかった。「もちろんです、社長」そうしてことばをついいでいく。「徒歩で帰宅しました。のち、シュラフトの店に夕食を取りに出かけ、食後、ふたたび歩いて戻りました。早めに床につき、しばらく雑誌を読みました。十一時前には就寝したと思います」
「やっぱり、そうだったな」とフィットワイラー氏は先ほどと同じことを言った。文書部長にどう話したらよいのか言葉を選んでいるような間が空いた。
「ミセス・バロウズのことなんだ」やっとのことでそう言った。「ミセス・バロウズは大変熱心に働いてくれた。マーティン、それはそれは一生懸命に、だ。そのために、痛ましいことに、ひどい神経衰弱になってしまった。被害妄想の症状が現れて、痛ましいことに、幻想を見てしまうらしい」
「お気の毒なことです」
「これもみな妄想なんだが、ミセス・バロウズは、昨夜君が彼女の下を訪れて、まぁ、その、何だ、けしからん真似をしたと言っているんだ」

マーティン氏が洩らした不愉快そうな抗議の声を、フィットワイラー氏は手を上げて制した。
「心の病では、ありがちなことなのだ。一番害のなさそうな人物に目をつけて、まぁ、その、何だ、被害妄想の原因にするんだよ。こうしたことは、一般人にはなかなか理解しがたいんだが。かかりつけの精神分析医のフィッチ先生に、さっき電話で聞いてみた。もちろん医師という立場での正式見解ではないがな。一般論だったが、私の懸念は十分、裏付けられたよ。ミセス・バロウズには、けさ彼女が、まぁ、その夢物語をしたときに、フィッチ先生のところへ行くように勧めたんだ。すぐにそうした病気じゃないか、と思ったんでな。ところが残念なことに、怒り出して手がつけられなくなってしまった。そうして、君をここに呼んで譴責するように、命令、というか、その、要求してきたのだ。君は知らなかっただろうが、マーティン、ミセス・バロウズは君の部署の再編成を計画、というか、私の決裁が下りたらだが、もちろんそうだ、私の決裁がまずなければな。ということで、だれよりも君のことが頭にあったんだろう。まぁこれもフィッチ先生の扱うことがらで、私らの管轄ではないがな。ということで、マーティン、残念だが、ここで役に立ってくれたミセス・バロウズも、お引き取り願うことにしたのだ」
「非常に残念です」


 そのとき突然、ガスの本管が爆発したかのように、すごい勢いでドアが開いて、バロウズ夫人が飛び込んできた。
「この薄汚いネズミは、認めようとしないんですね?」と金切り声をあげる。「逃げようったって、そんなことはさせませんからねっ」
マーティン氏は立ち上がって、気づかれないようにフィットワイラー氏の近くに移動した。
「あんたはわたしのところで酒を飲んだしタバコを吸ってたでしょ」夫人はなおも食ってかかる。「しらばっくれないでよ! フィットワイラーさんのことをくそったれのおしゃべりジジイって、それから、あのくそジジイをくたばらせた日にゃ、ヘロインで最高にイッちまう、って言ったくせに」わめくのを止めて息をつくと、飛び出さんばかりに見開いた目に、新たな光が宿った。
「もうちょっとであんたが全部仕組んだことを信じこまされるところだったわよ。舌を出して、ネコナキドリの巣の上で、タマゴを抱いてるところだなんて言っちゃって。どうせわたしがこんなことを言っても、だぁれも信じちゃくれない、とでも思ったんでしょ! お生憎様。あんまりうますぎたようね!」ロバそっくりのヒステリックな高笑いをしているうちに、ふたたび怒りがこみ上げてきたらしい。今度はフィットワイラー氏をねめつけた。「どうしてこいつにだまされてるのがわからないの、耄碌爺さん。三文芝居だってわかんない?」

ところが少し前、フィットワイラー氏がこっそり机の天板の裏側のボタンをすべて押していたために、F&S社の社員が社長室になだれ込んできた。
「ストックトン」とフィットワイラー氏が言った。「君とフィッシュバインで一緒にミセス・バロウズを家に送っていってあげなさい。ミセス・パウエル、あなたもついていってあげなさい」
ストックトンは高校時代、フットボールを少しやったことがあったので、マーティン氏に襲いかかろうとしているバロウズ夫人をうまくブロックした。バロウズ夫人を社長室から速記者や雑用係の少年が群がる廊下へと力ずくで連れ出すためには、ストックトンとフィッシュバインが協力しなければならなかった。それでもなお、バロウズ夫人はマーティン氏を呪って支離滅裂なことばを吐き散らしている。だがわんわん言う声も、通路を遠ざかるに連れて消えていった。

「こうした事態になって残念だよ」とフィットワイラー氏が言った。「マーティン君、どうか忘れてくれたまえ」
「かしこまりました」マーティン氏は「行ってよろしい」ということばを察して、ドアへ向かった。「忘れることにいたします」
社長室を出て、ドアを閉めたマーティン氏の足取りは、軽やかに、宙を舞うがごとくになった。だが文書部に入っていくときには、いつもの足取りに戻し、静かに部屋を横切って、W20のファイルに向かうと、仕事に熱中しているときの顔つきをまとった。


(明日はちょっとした感想など)