男は仕事で、めずらしく長い距離を移動することになった。
空気が湿り気を帯びた夜明け時、幹線沿いの町並みは、夢の中のようだった。
あさぎりに ものみなうかび にじみつつ あけそむるひに あわくとけゆく
朝霧に もの皆浮かび 滲みつゝ 明け初むる陽に 淡く融けゆく
(朝霧の中に、建物も木立も浮かんで見え、川も空も滲んで見えているのが、朝日が強くなってくると、淡雪のように融けて、しだいに輪郭がはっきりしてきます)
バスが大きな公園を通り抜けると、木々の影が車窓に点滅した。
ちにそいて こだちをもるる あさのひの しろきはだえに うきてかげろう
地に添ひて 木立を漏るゝ 朝の陽の 白き肌に 浮きて影ろふ
(昇る朝日が、地面に平行に差し込み、木立を漏れてきて、白い肌の上に、陽炎のようにゆらゆらと浮いています)
夜遅く帰宅した翌日、男は、昼過ぎまで寝て過ごした。人気のない昼下がり、男は近くの雑木林の中で、長い時間を過ごした。
ききいれば ながなくとりの こえやみて かれしくさはに あまおとのしく
聴きゐれば 長鳴く鳥の 声止みて 枯れし草葉に 雨音の布く
(耳をすまして聞き入っていると、鳴き交わす鳥の長い鳴き声が止んで、しばらくすると、枯れ草と枯葉の上に、一面の雨音がしずかに落ちはじめました)
したくさに ちりしくあめの おとやみて いさこうごとき とりなきかわす
下草に 散り布く雨の 音止みて 諍ふ如き 鳥鳴き交はす
(木立の下草に降り布いていた雨音が止んで、鳥が争っているように、やかましく鳴き始めました)
はるのあめわ もりのしずくと しただりて しずまるなかに とりなきわたる
春の雨は 森の雫と 下垂りて 静まる中に 鳥鳴き渡る
(春の雨が樹冠のまばらな森に降ってきて、ところどころで雫になって滴り、静かな音をたてる中に、鳥が一声長く鳴いて、飛んでいきました)
雑木林を出ると、空を大きな雲が覆っていた。
うすずみの くもをこがねに ふちどりて あまてらすひの かげのみぞみる
薄墨の 雲を黄金に 縁どりて 天照らす陽の 影のみぞ見る
(大きな雲に覆い隠された太陽が、薄墨色の縁を黄金色に縁取って、仏像の光背のように輝いています)
この不思議に美しい時の過ぎ去ることが名残惜しく、男はたびたび足を止めて、周囲の花々や木々を見渡した。
とりなきて かぜしずかなる はるのひに ゆきこうひとの あしおともなく
鳥鳴きて 風静かなる 春の日に 道行く人の 足音もなく
(風が吹くともなく、日差しの暖かい春の昼下がり、近くで突然鳥の一声がした。耳をすましていると、少し離れた道を人が歩いていき、その足音はここまで聞こえてきません)
しろくあかく みなれしみちに さくはなの いろとりどりに かくわうれしき
白く赤く 見慣れし道に 咲く花の 色とりどりに かくは嬉しき
(白や赤や、さまざまな色の花があちこちに咲いて、見慣れた道がこんなにも華やいで、なんと嬉しいことでしょうか)
* * *
それから数年が過ぎたある日、女から長い便りが届いた。
この一年は精神的に辛い生活を送ったこと、仕事を辞めたこと、救いのない日々に一人の男性と出会い、理解し合って、結ばれたこと、近々自分の誕生日に入籍する予定であること、などが書かれていた。
読み終わったとき、男の心は大風の吹き荒れたあとのように、静かになっていた。
男は女に短いお祝いを書き送り、尽きせぬ思いをこめて、「次の世でまたお会いできますように」とだけ書き添えた。「その時は、お互いにそれと気づきますように」という言葉は、書いては消し、消してはまた書いているうち、最後はどうしたのだったか、忘れてしまった。
さようなら! この人生では結ばれることのなかった、運命の人。
なにをかも はなむけにせん よのなごり いでたついもを わすれがたみに
何をかも はなむけにせむ 世の名残り 出で発つ妹を 忘れ形見に
(花の季節に旅立つあなたへ、何を餞別にお送りしたらよいのでしょうか。私はなつかしいあなたの面影を、忘れることのできない形見にして、ずっと持っています)
のちのよも せめてあわんと ねがいたる おもいをいもや いかにききつる
のちの世も せめて会はむと 願ひたる 思ひを妹や 如何に聞きつる
(今度生まれ変わった世でも、せめてまた会いたいという私の思いを、あなたはどのように聞いたのですか?)
―了―
空気が湿り気を帯びた夜明け時、幹線沿いの町並みは、夢の中のようだった。
あさぎりに ものみなうかび にじみつつ あけそむるひに あわくとけゆく
朝霧に もの皆浮かび 滲みつゝ 明け初むる陽に 淡く融けゆく
(朝霧の中に、建物も木立も浮かんで見え、川も空も滲んで見えているのが、朝日が強くなってくると、淡雪のように融けて、しだいに輪郭がはっきりしてきます)
バスが大きな公園を通り抜けると、木々の影が車窓に点滅した。
ちにそいて こだちをもるる あさのひの しろきはだえに うきてかげろう
地に添ひて 木立を漏るゝ 朝の陽の 白き肌に 浮きて影ろふ
(昇る朝日が、地面に平行に差し込み、木立を漏れてきて、白い肌の上に、陽炎のようにゆらゆらと浮いています)
夜遅く帰宅した翌日、男は、昼過ぎまで寝て過ごした。人気のない昼下がり、男は近くの雑木林の中で、長い時間を過ごした。
ききいれば ながなくとりの こえやみて かれしくさはに あまおとのしく
聴きゐれば 長鳴く鳥の 声止みて 枯れし草葉に 雨音の布く
(耳をすまして聞き入っていると、鳴き交わす鳥の長い鳴き声が止んで、しばらくすると、枯れ草と枯葉の上に、一面の雨音がしずかに落ちはじめました)
したくさに ちりしくあめの おとやみて いさこうごとき とりなきかわす
下草に 散り布く雨の 音止みて 諍ふ如き 鳥鳴き交はす
(木立の下草に降り布いていた雨音が止んで、鳥が争っているように、やかましく鳴き始めました)
はるのあめわ もりのしずくと しただりて しずまるなかに とりなきわたる
春の雨は 森の雫と 下垂りて 静まる中に 鳥鳴き渡る
(春の雨が樹冠のまばらな森に降ってきて、ところどころで雫になって滴り、静かな音をたてる中に、鳥が一声長く鳴いて、飛んでいきました)
雑木林を出ると、空を大きな雲が覆っていた。
うすずみの くもをこがねに ふちどりて あまてらすひの かげのみぞみる
薄墨の 雲を黄金に 縁どりて 天照らす陽の 影のみぞ見る
(大きな雲に覆い隠された太陽が、薄墨色の縁を黄金色に縁取って、仏像の光背のように輝いています)
この不思議に美しい時の過ぎ去ることが名残惜しく、男はたびたび足を止めて、周囲の花々や木々を見渡した。
とりなきて かぜしずかなる はるのひに ゆきこうひとの あしおともなく
鳥鳴きて 風静かなる 春の日に 道行く人の 足音もなく
(風が吹くともなく、日差しの暖かい春の昼下がり、近くで突然鳥の一声がした。耳をすましていると、少し離れた道を人が歩いていき、その足音はここまで聞こえてきません)
しろくあかく みなれしみちに さくはなの いろとりどりに かくわうれしき
白く赤く 見慣れし道に 咲く花の 色とりどりに かくは嬉しき
(白や赤や、さまざまな色の花があちこちに咲いて、見慣れた道がこんなにも華やいで、なんと嬉しいことでしょうか)
* * *
それから数年が過ぎたある日、女から長い便りが届いた。
この一年は精神的に辛い生活を送ったこと、仕事を辞めたこと、救いのない日々に一人の男性と出会い、理解し合って、結ばれたこと、近々自分の誕生日に入籍する予定であること、などが書かれていた。
読み終わったとき、男の心は大風の吹き荒れたあとのように、静かになっていた。
男は女に短いお祝いを書き送り、尽きせぬ思いをこめて、「次の世でまたお会いできますように」とだけ書き添えた。「その時は、お互いにそれと気づきますように」という言葉は、書いては消し、消してはまた書いているうち、最後はどうしたのだったか、忘れてしまった。
さようなら! この人生では結ばれることのなかった、運命の人。
なにをかも はなむけにせん よのなごり いでたついもを わすれがたみに
何をかも はなむけにせむ 世の名残り 出で発つ妹を 忘れ形見に
(花の季節に旅立つあなたへ、何を餞別にお送りしたらよいのでしょうか。私はなつかしいあなたの面影を、忘れることのできない形見にして、ずっと持っています)
のちのよも せめてあわんと ねがいたる おもいをいもや いかにききつる
のちの世も せめて会はむと 願ひたる 思ひを妹や 如何に聞きつる
(今度生まれ変わった世でも、せめてまた会いたいという私の思いを、あなたはどのように聞いたのですか?)
―了―