二の巻、戯れ
あるとき女が、「暇な時に読んでください」と言って、書き留めた文章を置いて帰った。男は数日後、「読んでくれと言われたのだから」と自分に言い聞かせ、人の日記をのぞくような後ろめたさを感じながら、女の文書を読んだ。男は切なかった。
感想のついでに、男はこれまでに詠んだ和歌から、数首を女に書き送った。
数日後、女からは、歌の出来ばえのよさを称える、嬉しそうな書き出しの返信がきたが、途中から急に文章が咎めるような調子に変わって、「このような言葉では、私の心に届きません。まして魂には」と書かれていた。言葉遣いから、数回に分けて書かれたものらしかった。
「喉元に匕首を突きつけられる」という時代がかった言い回しが、男の頭に浮かんだ。女が本気を見せたのは、これが最初だった。
文面には、好意と悪意が交錯していた。
さだめある ふるきみたまと おぼゆれど いとけきいもを いかにかわせん
定めある 古きみ魂と 覚ゆれど 幼き妹を 如何にかはせむ
(私と深い縁のある、古い魂をもった人と思われますが、まだ幼さの残るあなたに、どう接すればいいのでしょうか)
男は何日かかけて、自制した返事を書いた。
「歌をお褒めいただき、うれしく思いました。拙い歌、と謙遜すべきところですが、自分でも意外なほど、いい歌が詠めたような気がします。考えられる理由としては、詠みかける相手の魂が優れているからか、あるいは私の前生は、あなたと同様に小さな歌人だったのでしょうか。あなたの魂に届くほどの力がないのは、もともとの才能の限界と、あれこれを遠慮してのことでした。覚悟を伴わない気持ちなど、仄めかすべきでなかったかもしれません。……」
いもこうる おもいいかにか とどかんと わがむらきもの こころおののく
妹恋ふる 思ひ如何にか 届かむと 我がむらきもの 心慄く
(あなたを恋い慕う思いは、どのように届くだろうかと、私の心は慄きます)
女から返事はこなかった。男は女に正直な気持ちを書き送ったことを、後悔しなかった。自分の思いを燃焼させることが、この出会いの意味だろうと思ったからだった。
よよをへて たぐりあいたる たまのおを またいつのひか みうしのうべき
世々を経て 手繰り合ひたる 魂の緒を またいつの日か 見失ふべき
(長い時間を経て、ようやくあなたという魂にめぐり会いました。この運命の糸は、いつまでもけっして見失うことはありません)
女はその後も、ときおり親しげに話しかけてくることがあった。
ある日女は、「素敵な曲が入っているから聴いてください」と言って、録音された音楽を置いていった。いつものように寝つけない夜、繰り返し聴いていると、ところどころ心にしみる歌声が、男には女の呟きのように聞こえた。
うたたねに こいしきいもに あいけれど おとないわなし いずちあるらん
うたゝ寝に 恋しき妹に 会ひけれど 訪ひはなし いづちあるらむ
(うとうとした眠りの中の夢で、恋い慕うあなたに会いましたが、醒めてみても、あなたの訪れはありません。あなたは今どこにいるのですか)
いもとわれ なをよびかわす ゆめのあと うつつにあえば はずかしきかな
妹と我れ 名を呼び交はす 夢のあと 現つに会へば 恥づかしきかな
(あなたと名を呼び交わす夢をみたあと、現実の世界であなたと会うと、気恥ずかしい思いがします)
うたたねに かさぬとおぼえし いもがての はだのぬくもり いずくにうせし
うたゝ寝に 重ぬと覚えし 妹が手の 肌の温もり 何処に失せし
(うとうとした眠りの中で、あなたと手を重ねる夢をみましたが、醒めてみると、あなたはどこにいったのか、手のぬくもりだけが残って、姿はどこにもありませんでした)
男の恋心が当然であるかのように、女は驚くほど普通の様子で接しつづけた。
よをしらぬ おさなきこいに あらざれば かさなるひびに こころすみゆく
世を知らぬ 幼なき恋に あらざれば 重なる日々に 心澄みゆく
(世間知らずの若い恋ではないので、日数が重なると、苦しい思いは薄まって、しみじみとした気持ちが広がってきます)
職場で担当の交代があり、男は女と会う機会が少なくなった。
いもみざる ひとひのくるる さびしくも かくあいえたる さちやくゆべき
妹見ざる 一日の暮るゝ 寂しくも かく会ひ得たる 幸や悔ゆべき
(あなたと会わない一日が暮れようとしている今、さびしくてなりませんが、こうして会えた喜びを後悔することは、けっしてありません)
すれ違うときに、会釈を交わすことが、男の折々の楽しみになった。
いずくとも きたりしかたわ あいしらね ゆかなんかたわ つげざらめやも
何処とも 来たりし方は 相知らね 行かなむ方は 告げざらめやも
(互いがどこから来たか、私もあなたも知りませんが、これからどこへ行くかは、かならず告げることにしましょう)
いもまぎて わがよぶこえの とどきなば ちのはてにても いらえてしがな
妹求ぎて 我が呼ぶ声の 届きなば 地の果てにても 答へてしがな
(あなたを呼び求める私の声が聞こえたら、地の果てにおられても、答えてください)
所用で都会を訪れた帰り、車窓を過ぎる海沿いの町は、そこかしこが女の縁の場所のように見えた。男は女の影を期待しながら、人通りの少ない昼下がりの景色を眺めていた。
みやこじを いまわおりくれば なつかしき あずまのうみわ やわらぎにけり
都路を 今は下り来れば 懐かしき 吾妻の海は 和らぎにけり
(都へ上る道を、今下ってくると、あなたを産み育んだなつかしい吾妻の海は、柔らかい暖かさを湛えて、私を迎えてくれます)
穏やかな大気の下、生きて動くものはなにも見えなかった。
なつかしき うみにうつろう おもかげを いだくすべなし ひたむきにこう
懐かしき 海に映らふ 面影を 抱くすべなし 直向きに恋ふ
(なつかしい海にあなたの面影を映して、どうしようもなく、あなたを恋しく思っています)
なみしずか かぜしずかなる あずまじの あまつみそらに ひわみちみちて
波静か 風静かなる 吾妻路の 天つみ空に 陽は満ち満ちて
(あなたと出会った吾妻の国は、波も静まり、風も静まり、空は陽の光に満たされています。私は今そこを行き来して、あなたを思っています)
ある朝早く起き出して、近くの浜辺に出ると、海の向こうに、薄い月影が見えていた。
あさなぎの あずまのうみの まどろみに くもじはるけし ありあけのつき
朝凪ぎの 吾妻の海の まどろみに 雲路遥けし 有明の月
(朝方、波のない吾妻の海に出てみると、空も海もまだ目覚めないように静かで、雲はるかな西の空には、あなたのような月が残っています)
冬になり、空と海の色は重くなった。
ゆきぐもの きれしかなたの あかねぐも あずまのうみを ふたいろにそむ
雪雲の 切れし彼方の 茜雲 吾妻の海を 二色に染む
(雪雲が切れた彼方に、茜雲があなたのように広がって、灰色の吾妻の海を、ところどころ赤く染めています)
間遠くなった女との一言二言が、男の単調な日々に、暗号のやり取りのような意味あり気な雰囲気を添えた。
わがまてる ひとわいもにや いもがまてる ひとわたれそや われにあらざるか
我が待てる 人は妹にや 妹が待てる 人は誰そや 我れにあらざるか
(私が待っていた人は、あなたでしょうか。あなたが待っていた人は、誰でしょうか。私ではなかったのですか?)
ある朝、親しい人間が去ってゆく夢を見て、男は泣きながら目が覚めた。
あいえたる さだめのみたま さかりゆくと ゆめみてのちぞ すさまじかりし
会ひ得たる 定めのみ魂 離り行くと 夢見てのちぞ 凄まじかりし
(定めによって会った魂が、離れ去ってゆく夢をみて、醒めたのち、寂しくてたまりませんでした)
女と決定的に離れてしまうことを考えると、男はぞっとした。
さかりても またあうべしと おもわずば いもみてのちわ あやめもわかず
離りても また会ふべしと 思はずば 妹見てのちは 文目もわかず
(別れてもまた会えるだろう、と思わなくては、平静でいられません。あなたに会ってからは)
あるとき女が、「暇な時に読んでください」と言って、書き留めた文章を置いて帰った。男は数日後、「読んでくれと言われたのだから」と自分に言い聞かせ、人の日記をのぞくような後ろめたさを感じながら、女の文書を読んだ。男は切なかった。
感想のついでに、男はこれまでに詠んだ和歌から、数首を女に書き送った。
数日後、女からは、歌の出来ばえのよさを称える、嬉しそうな書き出しの返信がきたが、途中から急に文章が咎めるような調子に変わって、「このような言葉では、私の心に届きません。まして魂には」と書かれていた。言葉遣いから、数回に分けて書かれたものらしかった。
「喉元に匕首を突きつけられる」という時代がかった言い回しが、男の頭に浮かんだ。女が本気を見せたのは、これが最初だった。
文面には、好意と悪意が交錯していた。
さだめある ふるきみたまと おぼゆれど いとけきいもを いかにかわせん
定めある 古きみ魂と 覚ゆれど 幼き妹を 如何にかはせむ
(私と深い縁のある、古い魂をもった人と思われますが、まだ幼さの残るあなたに、どう接すればいいのでしょうか)
男は何日かかけて、自制した返事を書いた。
「歌をお褒めいただき、うれしく思いました。拙い歌、と謙遜すべきところですが、自分でも意外なほど、いい歌が詠めたような気がします。考えられる理由としては、詠みかける相手の魂が優れているからか、あるいは私の前生は、あなたと同様に小さな歌人だったのでしょうか。あなたの魂に届くほどの力がないのは、もともとの才能の限界と、あれこれを遠慮してのことでした。覚悟を伴わない気持ちなど、仄めかすべきでなかったかもしれません。……」
いもこうる おもいいかにか とどかんと わがむらきもの こころおののく
妹恋ふる 思ひ如何にか 届かむと 我がむらきもの 心慄く
(あなたを恋い慕う思いは、どのように届くだろうかと、私の心は慄きます)
女から返事はこなかった。男は女に正直な気持ちを書き送ったことを、後悔しなかった。自分の思いを燃焼させることが、この出会いの意味だろうと思ったからだった。
よよをへて たぐりあいたる たまのおを またいつのひか みうしのうべき
世々を経て 手繰り合ひたる 魂の緒を またいつの日か 見失ふべき
(長い時間を経て、ようやくあなたという魂にめぐり会いました。この運命の糸は、いつまでもけっして見失うことはありません)
女はその後も、ときおり親しげに話しかけてくることがあった。
ある日女は、「素敵な曲が入っているから聴いてください」と言って、録音された音楽を置いていった。いつものように寝つけない夜、繰り返し聴いていると、ところどころ心にしみる歌声が、男には女の呟きのように聞こえた。
うたたねに こいしきいもに あいけれど おとないわなし いずちあるらん
うたゝ寝に 恋しき妹に 会ひけれど 訪ひはなし いづちあるらむ
(うとうとした眠りの中の夢で、恋い慕うあなたに会いましたが、醒めてみても、あなたの訪れはありません。あなたは今どこにいるのですか)
いもとわれ なをよびかわす ゆめのあと うつつにあえば はずかしきかな
妹と我れ 名を呼び交はす 夢のあと 現つに会へば 恥づかしきかな
(あなたと名を呼び交わす夢をみたあと、現実の世界であなたと会うと、気恥ずかしい思いがします)
うたたねに かさぬとおぼえし いもがての はだのぬくもり いずくにうせし
うたゝ寝に 重ぬと覚えし 妹が手の 肌の温もり 何処に失せし
(うとうとした眠りの中で、あなたと手を重ねる夢をみましたが、醒めてみると、あなたはどこにいったのか、手のぬくもりだけが残って、姿はどこにもありませんでした)
男の恋心が当然であるかのように、女は驚くほど普通の様子で接しつづけた。
よをしらぬ おさなきこいに あらざれば かさなるひびに こころすみゆく
世を知らぬ 幼なき恋に あらざれば 重なる日々に 心澄みゆく
(世間知らずの若い恋ではないので、日数が重なると、苦しい思いは薄まって、しみじみとした気持ちが広がってきます)
職場で担当の交代があり、男は女と会う機会が少なくなった。
いもみざる ひとひのくるる さびしくも かくあいえたる さちやくゆべき
妹見ざる 一日の暮るゝ 寂しくも かく会ひ得たる 幸や悔ゆべき
(あなたと会わない一日が暮れようとしている今、さびしくてなりませんが、こうして会えた喜びを後悔することは、けっしてありません)
すれ違うときに、会釈を交わすことが、男の折々の楽しみになった。
いずくとも きたりしかたわ あいしらね ゆかなんかたわ つげざらめやも
何処とも 来たりし方は 相知らね 行かなむ方は 告げざらめやも
(互いがどこから来たか、私もあなたも知りませんが、これからどこへ行くかは、かならず告げることにしましょう)
いもまぎて わがよぶこえの とどきなば ちのはてにても いらえてしがな
妹求ぎて 我が呼ぶ声の 届きなば 地の果てにても 答へてしがな
(あなたを呼び求める私の声が聞こえたら、地の果てにおられても、答えてください)
所用で都会を訪れた帰り、車窓を過ぎる海沿いの町は、そこかしこが女の縁の場所のように見えた。男は女の影を期待しながら、人通りの少ない昼下がりの景色を眺めていた。
みやこじを いまわおりくれば なつかしき あずまのうみわ やわらぎにけり
都路を 今は下り来れば 懐かしき 吾妻の海は 和らぎにけり
(都へ上る道を、今下ってくると、あなたを産み育んだなつかしい吾妻の海は、柔らかい暖かさを湛えて、私を迎えてくれます)
穏やかな大気の下、生きて動くものはなにも見えなかった。
なつかしき うみにうつろう おもかげを いだくすべなし ひたむきにこう
懐かしき 海に映らふ 面影を 抱くすべなし 直向きに恋ふ
(なつかしい海にあなたの面影を映して、どうしようもなく、あなたを恋しく思っています)
なみしずか かぜしずかなる あずまじの あまつみそらに ひわみちみちて
波静か 風静かなる 吾妻路の 天つみ空に 陽は満ち満ちて
(あなたと出会った吾妻の国は、波も静まり、風も静まり、空は陽の光に満たされています。私は今そこを行き来して、あなたを思っています)
ある朝早く起き出して、近くの浜辺に出ると、海の向こうに、薄い月影が見えていた。
あさなぎの あずまのうみの まどろみに くもじはるけし ありあけのつき
朝凪ぎの 吾妻の海の まどろみに 雲路遥けし 有明の月
(朝方、波のない吾妻の海に出てみると、空も海もまだ目覚めないように静かで、雲はるかな西の空には、あなたのような月が残っています)
冬になり、空と海の色は重くなった。
ゆきぐもの きれしかなたの あかねぐも あずまのうみを ふたいろにそむ
雪雲の 切れし彼方の 茜雲 吾妻の海を 二色に染む
(雪雲が切れた彼方に、茜雲があなたのように広がって、灰色の吾妻の海を、ところどころ赤く染めています)
間遠くなった女との一言二言が、男の単調な日々に、暗号のやり取りのような意味あり気な雰囲気を添えた。
わがまてる ひとわいもにや いもがまてる ひとわたれそや われにあらざるか
我が待てる 人は妹にや 妹が待てる 人は誰そや 我れにあらざるか
(私が待っていた人は、あなたでしょうか。あなたが待っていた人は、誰でしょうか。私ではなかったのですか?)
ある朝、親しい人間が去ってゆく夢を見て、男は泣きながら目が覚めた。
あいえたる さだめのみたま さかりゆくと ゆめみてのちぞ すさまじかりし
会ひ得たる 定めのみ魂 離り行くと 夢見てのちぞ 凄まじかりし
(定めによって会った魂が、離れ去ってゆく夢をみて、醒めたのち、寂しくてたまりませんでした)
女と決定的に離れてしまうことを考えると、男はぞっとした。
さかりても またあうべしと おもわずば いもみてのちわ あやめもわかず
離りても また会ふべしと 思はずば 妹見てのちは 文目もわかず
(別れてもまた会えるだろう、と思わなくては、平静でいられません。あなたに会ってからは)