日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

折口信夫の歌論、迢空短歌

2011年01月25日 | 日記
 近代の短歌で、境地の深さと、技法の高さの両方の意味で圧倒的なのは、迢空短歌でしょう。文学史的な意味では、啄木の歌や、晶子や白蓮の歌も価値があるでしょうが、啄木の歌について折口が、「人くさい」と評し、自らの類似の歌について、「私は非常に醜い歌を作り作りした」と自己批判しているように、人事を詠み込んだ叙事詩は、本来の性格上、詩歌としては、価値が劣ります。短歌のピークについては、端的に「叙景と叙情をないまぜたような作風」と述べられています。

 このような基準で、最大限に評価されているのは、万葉集の中では、たとえば次のような歌で、「非常に静かな、瞑想的な」「聴覚による写生」「霊を捉えた歌」と、折口らしからぬ稚拙な解釈を付しています。

ぬばたまの 夜の更け行けば 久木生ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く(山部赤人)


 ところが他方、折口が万葉集の中で最も高く評価しているのは、「瞑想的」というよりは、生理心理的というべき感覚を詠んだ、つぎのような即物的な歌です。

家にても たゆたふ命 波の上に 浮きてしをれば おくか知らずも(大伴旅人従者)

 これについて折口のコメントは、「思想において優れている。傑作」というものでした。「思想において」とは、生命=霊が身体から遊離していこうとする古代信仰的な不安感を、見事に表現した歌、という意味です。



 瞑想的な歌と、即物的な歌では、ずいぶん趣が異なりますが、この歌論から迢空短歌をみると、釈迢空は、二通りの歌を、実作していることがわかります。

 「音による写生」「瞑想的な」「霊を捉えた歌」としては、つぎのようなものがあります。

山の際の空ひた曇る さびしさよ 四方の木むらは 音たえにけり

 他方、生理心理的な歌として、つぎのような微細感覚に集中した唄があります。
 
心 ふと ものにたゆたひ、耳こらす。椿の下の暗き水おと



 迢空短歌の到達した高み、沈潜した深みを知ると、他の近現代短歌の多くが、かつての古典短歌と同様、歌壇という仲間内だけの競い合いであることが、よくわかります。
 現代芸術の世界でも、歌壇や文壇や画壇といった集団に、単独者でいられない貧弱な精神が群れているらしく思われます。愚かなことです。芸術の先端は、人との優劣を競い合うものではなく、「永遠なるもの」「未知なるもの」に触れて、予測できないことが起こることであり、その不可測の事件に驚くことです。





















 
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