自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

イタドリ騒動

2014-05-12 | 随想

先日,ひとりの管理職がわたしの仕事場に来られました。玄関で「館長さんはおられますか」とおっしゃったので,そこへ行きました。手にはイタドリが握られていたものですから,なにか急ぎの用ができたのだなと直感。

事情はすぐわかりました。その方の勤務先で起こった話を伝えて,確認したいことがあったのです。内容は次のとおりです。

ある学級で野外学習に出かけたときに,担任がイタドリを指して,食べられるんだと言って食べさせたとか。強制感があったのかどうか,それはわかりませんが,何人かは口にしたようです。

ところが,そのうちの一人が帰宅後,発熱・嘔吐症状を呈して,医療機関で受診したそうです。熱は相当に高かったといいます。そのとき保護者が医師からいわれたのが「今日,なにか特別なものを食べなかったか」ということば。それで,保護者が子どもに問うたところ「学校でイタドリを食べた」と答えたというのです。

その話が学校に伝わってきて,関係職員は面食らったというわけです。

以上が経過です。そうして,その管理職は手にした草を示しながら,わたしに「これはなんという草ですか」「毒があるのですか」「これは食べられますか」と聞かれました(下写真は花後にできた実)。


間違いなくそれはスイバでしたから,「スイバです。葉も茎も酸味がしますが,食べても大丈夫。毒草ではありません。ただ,シュウ酸がたくさん含まれているので,食べ過ぎるとよくないといわれています。近頃の子どもはそうした野草を口にすることはないため,少量でも健康・安全にはよくない事態が起こりうるでしょう。生食については特段の注意がいる時代です」と答えておきました。

この話で思うのは,わたしが担任であってもうっかり(?)味見をさせることはありうることで,むしろ,そうしたのではないかと思うのです。ただ,この草が直接の原因で健康被害を被ったのなら,これはとても怖い話なので,ひとごとでは済まされません。慎重にならざるを得ない気がします。

そうであっても,身近な自然と親しくなるのに毒草や食草を知ることは大事です。なにも知らずに怖がるのでなく,初歩的な“知”を獲得しておくことは重要です。その観点に立てば,名の由来である“酸っぱい葉”,つまり“酸い葉”であることは,味を確かめてこそ納得できる事実です。「スイバは酸っぱいから,この名が付いたのか。たしかに酸っぱいなあ」と実感する意味はあります。

そうした点まで教育で敬遠するようになると,おかしな事態を招きます。野外観察,野外探索が萎縮しては困ります。要は,「程度を考えて慎重に手を打っていけ」ということでしょう。

この子どもにはとても気の毒な結果になったかもしれませんが,植物を怖がり,この草を忌み嫌うようにはなっては元も子もありません。その後の経緯がどうなったのかわからないので,話はここまででとどめます。

そこで結論。自然となかよくしようと思えば,怖さもたのしさも知らなくてはなりません。それは生の自然との対話そのものであり,それを欠かさないことが人と自然を結ぶパイプになります。

 


ジャコウアゲハ観察記(その300)

2014-05-12 | ジャコウアゲハ

ジャコウアゲハが一度に一枚の葉に産み付ける卵は,1個や2個の場合,さらにはもうすこし多かったり,多ければ10個以上にわたったりすることもあります。

たくさんになると,時間をかけて産まなくてはなりません。1個の場合などは,産み付けるとさっさと別の葉に飛んでいきます。

考えてみると,少ない数の卵をあちこちの葉に産み付けるのが種族維持の観点からは有利なのに,ぎゅうぎゅう詰めにしてまでも産むのはなぜかと思ってしまいます。

たくさん産むと,ときには重なりが出てきます。それで,卵が団子きょうだいのように積み重なってしまいます。これは,落下防止や孵化時の状況を考えると不利なはずです。ものが触れたとき落ちやすいでしょうし,生まれたばかりの幼虫が殻を食べるのに食べにくいでしょう。

成虫は,産卵時,たぶん微妙に卵をずらして産み付ける習性をもっているはず。ところが,“ずらす”という動きがうまくはたらかないこともありうるということなのです。ここでもファジーさ加減が見えてきます。


もっと近寄ると……。 

 


別の葉にも。こちらは双子団子が2つ。


年に何度か,卵のこの重なりを見かけます。今春も,自宅の植木鉢で目にしました。できれば,孵化した幼虫がその後どう行動するか,見ておこうと思っています。