古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

高木護『爺さんになれたぞ!』を読んで考えました。

2013年02月01日 02時53分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
 きのうはポカポカと陽が当たり、裏山で仕事をしたら汗ばむほどでした。母・妙子さんは運動靴をはいて登ってきて、竹の枝を切り刻み、道子さんはこの6年間に植えた木々に寒肥をやり、ぼくは竹薮を1メートル×5メートルほど開拓しました。そしてお昼。妙子さんは家に帰って昼食。道子さんとぼくは焚き火をして、お餅とパンを焼いて食べることにしました。「ワイルドだぜ!」というセリフが流行ったそうですがちょっとだけそんな気分かな。
 去年12月9日のブログに、図書館で何気なく借りた本のことを書きました。高木護の『棺桶ひとつ』という本です。自叙伝のような半生記でした。この本で「高木護」をはじめて知りました。肩書きをつけるとすれば<若い頃に九州の野山を彷徨った、この国最後の放浪詩人>でしょうか。何も持たず風に吹かれる柳のように生きる姿に魅かれて、アマゾンで『爺さんになれたぞ!』という本を購入しました。
 そして年明けから読みはじめました。でも途中まで読んでそのままにしています。帯にはこう書いてあります。

 放浪の詩人が辿りついた境地!
 「……七十歳になった日に、『おぬし、きょうから爺さんだよ」 / 自分で、わたしにいってやった。
  / こんなわたしでも、人並みに爺さんになれたのか、“よかったな”と、ほっとしただけでなく、
  うれしかったのだ。」

 貧乏暮らしの爺さんが、仕事場と称している街の住宅に出掛けて帰ってくる一日の様子を、回想を交えつつ語っているのですが、ぼくには年寄りの「ダラダラ話」に思えて、どうしても入っていけないのです。己の生きてきた「生き様」をそのまま受容し、人生を達観して淡々と書いている筆のタッチは見事です。本は立派なのに食いつけないぼくが、未熟なのです。それがわかりながら、達観しようと思わないぼくを、ぼくは大事にしようと思います。といいながらこのブログが、その年寄りの「ダラダラ話」になっています。……自分で自分に言い訳をする人生は終着駅まで続くのでしょうか。
 この本は本棚に置いておくことにします。また読む気になったらそのとき。
 
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