昨日は東京文化会館へ。
上野に来ると、本当に日本の文化の中枢だと思ってしまう。
大ホールも小ホールも同じ時間に催しがあり、大ホールではなんとこんな催しが。
聴きたかったが、私は小ホールを聴きに来たので、残念ながらまたの機会に。
小ホールで開催されたのは東京混声合唱団の定期演奏会で、親しくさせていただいている作曲家の鈴木純明さんが曲を書いたとのことで、聴きに伺った。
催しは三宅悠太、鈴木純明、野平一郎3名の作曲家による作品で、現代の合唱作品、しかもどれも大作で聴きごたえがあった。
三宅作品は「-長田弘の詩とヴォカリーズによる-祈る」。
震災に際して思うところから筆を進めた作品だそうで、否応なく鎮魂の雰囲気が漂い色々考えさせられる作品。
鈴木作品は「恋するルバイヤート」と題され、モーツァルト、リスト、ドビュッシーのラヴレターをテキストにして、曲想もそれぞれの大作曲家を肖られていた。
シリアスなイメージの現代音楽の中で、このように本当に愉快で奔放で楽しい曲というのも珍しく、その着眼点や技術も素晴らしいと思った。
特に、ただでさえ大作曲家による文で、しかも「ラヴレター」という、人生を賭けたテキストには一語一語に重みがあって、絶妙な言い回しや表現はさすが大作曲家のなせるものだと思った。
石川亮子さんの日本語訳も絶妙で、特に印象的だったのはモーツァルトの「ハニー!」で始まる歌いだしに、さもありなんとニヤリとしてしまった。
休憩を挟み野平作品「フランスの7つの詩」は大作な上に圧倒的なエクリチュールだった。
元々はフランスのテキストのフランス語にではなく、日本語訳に作曲を施した作品とのことで、7曲はテキストの時代や様式などがシンメトリーに構成していた。
特に惹かれたのが、中心の第4曲のマリネッティの「戦闘」で、戦争の現場で見たもの、聞こえた音を言葉の羅列で表現したもので、歌も音程が無く、まるで呪文や読経のように集中力があった。
徐々に単語からフレーズになっていくのに合わせて音楽も速度を上げ高揚して、エネルギーの大きさを感じるのと、戦争に対するやり切れなさが同時に伝わるものだった。
演奏者目線で聴いていると、複雑なリズムと種々の音色の使い分けがかなり難しいのではと思ってしまったが、どの作品も作曲家の業がちりばめられていて、きっとどれもやりがいのある作品なのだろう。
終演後の帰りは、いつもなら電車の中で何かしらの音楽を聴いているのに、何も聴く気がおきず、ずっと頭の中に余韻が残っていた。
上野に来ると、本当に日本の文化の中枢だと思ってしまう。
大ホールも小ホールも同じ時間に催しがあり、大ホールではなんとこんな催しが。
聴きたかったが、私は小ホールを聴きに来たので、残念ながらまたの機会に。
小ホールで開催されたのは東京混声合唱団の定期演奏会で、親しくさせていただいている作曲家の鈴木純明さんが曲を書いたとのことで、聴きに伺った。
催しは三宅悠太、鈴木純明、野平一郎3名の作曲家による作品で、現代の合唱作品、しかもどれも大作で聴きごたえがあった。
三宅作品は「-長田弘の詩とヴォカリーズによる-祈る」。
震災に際して思うところから筆を進めた作品だそうで、否応なく鎮魂の雰囲気が漂い色々考えさせられる作品。
鈴木作品は「恋するルバイヤート」と題され、モーツァルト、リスト、ドビュッシーのラヴレターをテキストにして、曲想もそれぞれの大作曲家を肖られていた。
シリアスなイメージの現代音楽の中で、このように本当に愉快で奔放で楽しい曲というのも珍しく、その着眼点や技術も素晴らしいと思った。
特に、ただでさえ大作曲家による文で、しかも「ラヴレター」という、人生を賭けたテキストには一語一語に重みがあって、絶妙な言い回しや表現はさすが大作曲家のなせるものだと思った。
石川亮子さんの日本語訳も絶妙で、特に印象的だったのはモーツァルトの「ハニー!」で始まる歌いだしに、さもありなんとニヤリとしてしまった。
休憩を挟み野平作品「フランスの7つの詩」は大作な上に圧倒的なエクリチュールだった。
元々はフランスのテキストのフランス語にではなく、日本語訳に作曲を施した作品とのことで、7曲はテキストの時代や様式などがシンメトリーに構成していた。
特に惹かれたのが、中心の第4曲のマリネッティの「戦闘」で、戦争の現場で見たもの、聞こえた音を言葉の羅列で表現したもので、歌も音程が無く、まるで呪文や読経のように集中力があった。
徐々に単語からフレーズになっていくのに合わせて音楽も速度を上げ高揚して、エネルギーの大きさを感じるのと、戦争に対するやり切れなさが同時に伝わるものだった。
演奏者目線で聴いていると、複雑なリズムと種々の音色の使い分けがかなり難しいのではと思ってしまったが、どの作品も作曲家の業がちりばめられていて、きっとどれもやりがいのある作品なのだろう。
終演後の帰りは、いつもなら電車の中で何かしらの音楽を聴いているのに、何も聴く気がおきず、ずっと頭の中に余韻が残っていた。