虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

兆民の子ども

2007-11-29 | 読書
中江兆民の娘の名は千美。兆民はチビチビと呼んでいたそうだ。
弟が丑吉。子ども時代は、弟よりも姉のほうが賢く、兆民から「千美と丑が代わればよかった」といわれたそうだ。丑吉は弱虫で勉強嫌い、姉は成績もよく終了式では総代をつとめたらしい。美少女でもある。父親っ子で、生涯、父の話をよくしたそうだ。丑吉の方は父についての話はほとんどしていない。

この千美は、竹内綱の三男虎治と結婚。吉田茂は義弟になる。虎治は事業に失敗し、暮らしが楽でない時もあったようで、敗戦後、亡くなっている。
この千美の娘が浪子。浪子は、中江丑吉の親友鈴江言一のヨメさんになるが、鈴江言一も中江丑吉のあとを追うように、戦争中に死んでしまう。

千美は、1971年の8月に84歳でなくなる。家族だけの密葬。千美は棺に掲げる写真を早くから用意していたようで、それは70年前の15歳のときの少女姿の写真だったという。以上、加藤惟孝「北京の中江丑吉」から書いた。

図書館で、中江丑吉関係のものを借りてきたけど、だいたい中江丑吉がジャーナリズムや学界に出た人ではなく、無名の書斎人なので、親交を結んだ人の中江評ばかりで、中江丑吉についてはよくわからない。わからないながらも、いくつかエピソードを。

頭山満は父の友人だったので、会いにいくが、相手は黙ってばかり。客としていったのに、黙っているなんて無礼だ、とばかりさっさと座を立ってしまった。人を前にして西郷隆盛みたいに泰然沈黙するような人はきらいだったそうだ。

死ぬ前に病室で読んでいた最後の小説がトルストイの「戦争と平和」

ヘーゲルもマルクスも原典で読んだ。明治の人は、健康な子どものようなところがある、といっているが、明治の人は、原典から出発しなくてはならなかった。解説本や注釈本で皮相に思想を理解してはいけない、ということか。

生活者はマルクスの「資本論」を読まなくてはならない。資本論を読まない頭は子どもの頭だ、ともいったそうだ。

著者は戦争中、丑吉に時代の重い空気が切迫して、われわれ大衆の日常にも圧力が加わってきたとき、どう考えて暮らしていいのかを質問した。
加藤氏は学校の教師をしていたが、朝礼で軍人勅諭を唱えたり、国民服を着ることを強制されたり、学問についても強制されるが、わたしは、そういうものはすべてサボっている、といった。すると、丑吉はこう答える。
「だから日本のインテリみたいなのは沈痛悲壮になってくるんだ。マッセ(大衆)は二つか三つどうしても守ることを決めておいて、あとはできるだけ普通にやるんだ。そうしないと弱くなる」

「朝礼にはきちんと出て、題目も唱え、国民服も着て、たいていのことはこっちから従ってしまえ。しかし、戦地で捕虜を殺せといわれたらことわれ、東亜新秩序のビラをはれといわれたらことわれ、皇国経済学の講義などは絶対やるな、個人的に自由な話をすることをはばかるな」