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らんかみち

童話から老話まで

亡き人を訪ねてわが身の糧と為す

2009年09月16日 | 陶芸
 広大な墓地の中にはバス停がいくつもあって、亡き人たちもこうやってあちらの街に住んでいるんだな、だったら花屋ばっかりじゃなく飲み屋の一軒も店を出してくれんか、そしたらテル爺のあちらで一杯ひっかけているさまも見えてこようものを。などと午前中に、秋雨に泣き濡れている彼の墓石に自作の花器に花を活け、ありゃ~、一つだけじゃバランスが悪いぞ!
 仕方ないので他に人にあげるはずだった徳利も置いてみました。最初は香炉も置いてみたんですが、うちの用意した香炉に不足があるいうんか! みたいな遺族感情を香炉して、いや考慮してやめ、般若心経を唱えてテル爺に別れを告げました。


 
 次に目指すのはノンプロの陶芸家の遺作展、じゃなくて、お願いして遺作を見せていただきました。驚いたのは、ノンプロと聞いていたのに、作品を見せていただいたら、独自の作風を確立した立派なプロ陶芸家だったということ。
「この作品群は、ぼくが百年頑張っても作れないでしょうね」
 奥さんに言ったのは、ご主人を亡くされて間のない心痛も癒えてないであろうことを慮っての社交辞令ではなく、ぼくの正直な感想です。というのも、精緻を極めた上絵付けや象嵌は、手先の器用さのみならず几帳面な性格が必須なら、到底ぼくには無理なんです。
 
 
 
 明日は陶芸クラブです。うちのクラブにはプロの陶芸家を師に頂いてないので、上を向いて陶道を歩もうと思えば先輩方に頼るだけでなく、自らが外に出て教えを請うしかありません。その意味において今回の訪問は亡き陶芸家の作品に触れることで、単に勉強になった以上の刺激をもらいました。

墓参りならエンタメをからめるべからず

2009年09月14日 | 陶芸
 お師匠さまの予定が急にキャンセルとなり、ああこれは昨年亡くなった友人、テル爺の墓参りに行けということかな、と何の脈絡もないアクロバティックなこじ付けをしてみました。
 
 まあしかしそれだけでは大阪まで行きづらく、かねてより気にかかっていたノンプロの陶芸家に工房を見せてほしいと打診したところ快諾を頂き、急きょ段取りを、というかこちらが本命だったりして……すまん、テル爺!
 
 フェリーとバスと電車を乗り継いで7時間か、それともフェリーとバス、またフェリーと電車を乗り継いで10時間半の行程のどちらを選択するかで迷いましたが、果報は寝て待ての格言に従い、夜の船旅に賭けてみました。それではそろそろ出かけます。

茶碗のために朝鮮人になれといわれても……

2009年09月10日 | 陶芸


 この二月ほどというもの、要釉斎先生とかロクロ子先輩が「大井戸茶碗、大井戸茶碗」と五月蝿いものだから、ぼくも頑張って挽き続けてはみたものの、どうしてもできません。今日は天気が良くて朝から挽いて昼までにはいくつか高台まで削り終えたんですが、写真の裏側には日の目を見ることなく逝った数多の失敗作が写り込んでいるはずです。
 
「やっぱ今のぼくの技量では大井戸は無理っぽい。ロクロ子の言う通りだわぁ」
 ロクロ子先輩にメールしました。ところで、ロクロ子先輩とかロクロ子姉さんとか、敬称をつけて呼ばんかいと言われたらそれにはやぶさかでないけど、彼女は自分で自分のことをロクロ子(仮名)と呼ぶので構わないっぽいです。
「っそやから言うてるやん、あんたみたいな陶芸始めて1年にも満たん陶素人(とうしろう)に大井戸茶碗が挽けてたまるかい!」
 えらい言われようの返信ですが、ロクロ子先輩はぼくがどこで苦しんでいるのか解っていないのかも知れません。
 
 ぼくが目標にしているのは「喜左衛門」と呼ばれる国宝の茶碗。この形をなぞろうとしてできないことはありませんが、問題は重さ。喜左衛門は370グラム、ということは、高台を削り終えた時点で400グラムくらいでなくてはいけません。釉薬をかけて本焼きを終えたら軽くなるのを見越しても、ぼくとしては削った時点で400グラムを超えた物を焼きたくないんです。つまり非常に薄く挽き上げないと実現しないということ。


 
「削らなきゃ無理よ」
 ロクロ子先輩はアドバイスをくれるけど、喜左衛門は削ってない。もちろん高台は削っているけど最小限にとどまっている。電動ロクロも無い室町時代かそれ以前の李氏朝鮮時代の作品が、ぼくだけじゃなく現代陶芸家の目標になっている、すごいことですよね。
 
「朝鮮人になりたまえ、大井戸茶碗を挽きたくば、君は朝鮮人になるしかあるまい」
 要釉斎先生はおっしゃるけど、どうやったら朝鮮人になれるねん! 
 むろんこれは比喩で、貧しかったであろう当時の朝鮮陶工に身をやつしてみろという意味か、それとも朝鮮人気質を研究すべきという意味か……。
 今日で大井戸茶碗から脱出するつもりだったけど、もう一回だけ頑張ってみるか、当時の朝鮮陶工に思いを馳せながら。

女性器に関する男女の感性差

2009年09月03日 | 陶芸
「アイデアが浮んでこなくて、陶芸をしばらく休もうかと思ってるの」と、妙にテンションの低いメールをロクロ子先輩にいただきました。彼女は人に弱みを見せるタイプじゃないので、これはかなり異変でしょう。
「こっちはロクロ子の『石』を念頭に花器を挽いてみようと企んでるんだけど」
 こういうことを言えばすぐさま触媒反応するのがロクロ子先輩なんですが、「頑張ってね」だって……。
 
 そういうわけで大井戸茶碗みたいなのものをたくさんこしらえた後、破れ花器を挽いてみました。「しょうもなッ」とお思いの方に申し上げますが、これって結構難しいんです。
 これを作るにはまず徳利が挽けないと作れません。手順は、まず最初に筒みたいなものをこしらえ、次にそれをビヤ樽状にし、口を閉じて泥の風船をこしらえたら出来上がり。
 言葉にすれば簡単そうですが口を閉じるのが最難関で、陶芸歴10か月にしてようやくできたんです。
 
 さてこれをロクロ子先輩にメールしたらどうなるでしょう。「あんたよっぽど女に不自由してるんやなぁ、一生そんなもん作っときぃ!」みたいな反応かとおもいきや、「お上手ね」とはこれいかに。彼女は滅多なことで人をほめるような御仁じゃないのでどっか具合が悪いとしか思えません。
 
 モチーフがモチーフなので、クラブの皆さんが帰ってから作りました。もしこれを要釉斎先生の一派がいるときにこしらえようものなら、クラブはたちまち興奮の坩堝と化して収拾がつかなくなるでしょう。
「そこはそうじゃない、もっとこうせにゃいかん」
「よそは知らんが、うちのはこうじゃがのぅ」
「うむッ、デフォルメが足りん、リアルを追及するにはリアルを超えねばならんのじゃ」などなど……。
 
 帰ってから、こんなもんあからさまに焼けんよなぁ、と思っているところへ、「それのどこが女性器じゃ! 下手くそすぎて判らんかったわい。写生を積んでから製作せんからリアリティを欠くねん、ロクロ子の女性器を見んかい!」と、ロクロ子先輩にメールしてからずいぶん経って写真の添付された報復メールが来ました。彼女には判らなかったんですね、ぼくの作品のモチーフが。
 ぼくが下手くそというより、こういうものに関しては男と女の違いで見え方感じ方が違うんだと思います。あ、念のために申し上げておきますが、送られてきたのは実写ではなく、作品の写真です。

陶芸作品に美というものなど存在しない

2009年08月27日 | 陶芸
 先日焼いた作品群を陶芸クラブに持っていったのは、出来が良くて見せびらかしたいからではありません。窯の温度管理はどうやったか、どの位置にどんな作品を置いたか、釉薬は何をかけ、その結果どんな焼き上がりになったか、といったデーターをクラブ員に提供するためです。こっそり焼き上げたからといってだれも文句はいいませんが、童話講座にたとえるなら合評みたいなものでしょう。他者からの評をいただくことで、次回作への踏み台とさせていただくのです。
 
「ふむ、若い者は他人の評価を気にしすぎていかんのぅ。人の評価がどうあれ、君の場合はひたすらろくろを回し続けるのみじゃ」
 クラブの重鎮、要釉斎先生のおっしゃる若い者とはぼくのことかいな? それはさておき、ぼくの場合は人に良く見られたいとか自慢したいという気は毛頭なく、向上心あるのみなんですがねぇ。
「うむっ、木の葉形の皿はまずまずのできじゃが、茶碗らしきものは茶の湯での約束事が守られておらん、評価の対象外じゃ」
 木の葉形の皿というのは、要釉斎先生の横で先生の口出しを受け止めつつ手びねりした物、先生が一枚かんでりゃ低い評価もせんわな。

「茶碗のように約束事ばあるなら別じゃが、そうでないなら独善も可なり。他者の評価に一喜一憂することの愚かさを、君もいつか知るときが来よう」
 先生のおっしゃることは解ります。陶芸作品を鑑賞するのは、自分自身の内面からの欲求と作品の放つオーラとのコラボレーションが全てであり、言い換えればこれまで培ってきた己が美意識と作品との蜜月……自分で書いていながらよう解らんなってきた。
 要するに、麺の不味さに定評のある尾道ラーメンを支持する人がいるからといって、その人が味音痴というわけではない。絶対味覚というものが存在しない以上「うまい」という人がいればそれはうまいのである。つまり尾道ラーメンは万人受けする凡庸な味を目指したのではなく、瀬戸内のイリコ出汁と豚の背油のコラボレーションで100人のうち1人を虜にできたらそれで良い、というスタンスなのです。陶芸作品も万人が良いと評してくれる物なんてできっこないなら、100人の内1人が惚れ込んでくれたらそれは傑作なのでしょう。
 
 要釉斎先生のような山紫水明の心境、寒山拾得のごとく俗世と隔絶した生き様にして初めて、他者の評価や名誉欲に恬淡となれるのかなぁ。次回作へのステップなどと、酷評を恐れて予防線を張るぼくとしては、良いねと評されたらやはり嬉しいんだけど。
「ところで、この前いただいた先生のいかがわし、もとい、妖しいコーヒーカップですが、お盆に帰ってきた兄がたいそう気に入って持って帰りました」
「なにっ! それは嬉し、いや君のお兄さんの審美眼は確かなもの、あの作品の良さが解るとは、大したもんじゃ」
 なんと、霞を食って生きる仙人かと思いきや、要釉斎先生はいきなり還俗されました。先生もまた人の子、他者の評価を糧にしておられるからこそ、あのお歳にして陶芸を続けていけるに違いありません。

梅華皮(カイラギ)出たには出たかな?

2009年08月23日 | 陶芸
 窯出しの儀に望む前夜「失敗だ、失敗だ、失敗だ」という声にうなされましたが、思ったほどではありませんでした。手びねりの木の葉皿もこの通り。
 
 
 梅華皮(カイラギ)は多くの陶芸家が最初に失敗する道を踏襲したかもしれません、この通り。
 
 生焼けなんですが、そこを狙ってのことなので、とはいってもやり過ぎました。
 
 ロクロ子先輩に「井戸茶碗のつもりだけど、梅華皮がうまく出なかった」とメールに添付したところ、「ロクロ子の作品を見んかい!」と写真が。
 
 な、なんすか、これはぁ? あ、花器ね、石かと思った。
「石に擬態させとるんや、この詫び寂びが解らんあんたはまだまだやね」
 なんかよう解らんけど、石で叩いてこしらえた作品なのだとか、こりゃあロクロ子先輩の尻尾は見えても、まだまだつかめそうにないわい。

初めての窯入れはでたらめの数珠つなぎ

2009年08月21日 | 陶芸
 陶芸クラブに在籍して一年未満のぼくは、まだ一人で窯入れをして焚いたことがありません。先輩方の監督の下でないと不安でならないのは、6時間もかけて1220℃まで窯の温度を上げ続け、途中に水蒸気爆発とかの難関が待ち構えているからです。

 だれもぼくと一緒に焚きたくない理由はまさにここ。大物を焼くときには厚さの違いからくる膨張率の違いで破裂してしまうこともある、そんなやつの流れ弾に当たって自分の作品まで戦死させられるか、子どもの頃にさんざん苦しめられた「連帯責任」じゃあるまいし、三十六計逃げるにしかず、という賢い選択をされるんです。
 
 写真を見ていただければ分かりますが、窯の中に大物は入ってません。焼くに値しない作品と断じて土に戻してしまったからです。なので余白の多ことといったら、俵屋宗達の風神雷神図じゃあるまいし、恥ずかしいさも中くらいですが、とにもかくにも素焼き無しの生がけで爆発の目にも遭わずに焼き終えました。(傑作の予感があった皿を一枚割ってしまったのを除けば)
 
 見守ってくださったのは、冷淡というのではなく手取り足取り教えてはくれない、後輩の自主性を尊重するタイプのベテランです。当然ながら口も出さないので自力で考えないといけないのですが、この窯詰めのスカスカしさは作品が少ないから止む無しとしても、訳あってのでたらめ並べ。そのでたらめが吉と出るか凶と出るかは、日曜の窯出しの儀を待つしかないのです。
 
「フッフッフッフ、出来が悪かったのは窯の悪戯じゃね、気を落さんでもよいが、まあ今の君にはそれが相応しかろう」
 クラブの重鎮、要釉斎先生のおっしゃるであろう呪文のような言葉が脳裏に渦巻き、いたずらに勝ち誇ってんじゃねーぞ! みたいな悪夢に今夜はうなされそう。

人間国宝の茶碗はとんでも値段

2009年08月20日 | 陶芸
「さて先生、この井戸茶碗をぼくはいくらで買い求めたでしょうか」
 いつぞや買った古井戸茶碗を、陶芸クラブの重鎮であらせられる要釉斎先生に見せて聞きました。
「君ぃ、儂を試そうというのかね! まあそれも良かろう、どうせ素人の君のことじゃ、ふっかけられて3万円か5万をドブに捨てたかのぅ」
 先生はぼくを買いかぶっておいでのご様子、ぼくはそれほどリッチでもなければ放漫でもないのに、ご自身の物差しでぼくを計られては赤面の至りです。
「いえ、それが先生、1500円だったんです」
「君ぃ、そういうジャンケンの後出しみたいな振る舞いには鉄槌をもって……ふむ、しかし古井戸茶碗の条件を全て満たしておる……なかなか良い買いものをしたんではないかね」

 ぼくの持っていった茶碗でひとしきり盛り上がっているところへ、リッチマン氏の登場。ぼくの井戸茶碗を嘗め回すようにながめて、
「儂も井戸茶碗にぞっこんの頃があってのぅ、ある日のこと人間国宝の個展に行ったら茶碗に上中下と値が付けられとったとせいや、その下くらいの作品を一つ買うた。それがなんぼか当ててみ?」
 人間国宝なんて人には生涯に亘って縁は無いと思うのでちょっと分かりませんが、
「そうですねぇ、ふっかけられて30万か50万くらいドブ、いやお買い上げなさったのでは」
「よいよいじゃねや! 儂をだれと思うとるんかい、250万ぞ、一つが。売れ筋は400万と言うとったな、最高は800万とも。あの頃は金回りが良すぎて、儂ものぼせ上がっとってぇ……」

 その後リッチマン氏にろくろを指導していただいたんですが、要釉斎先生といい、とんでもない人たちとぼくは付き合ってるんだろうか。1500円の茶碗を買って「良い買い物」などと浮かれていたのが恥ずかしい。
 明日は急きょ本焼することに決まりました。素焼きもしてないし、今日挽いた作品も釉薬の生がけで本焼します。通常は何人かのグループで一窯を焚くんですが、だれもぼくと一緒に焼いてやろうと愛の手を差し伸べてくれないので仕方ありません。あんなとんでもないやつと一緒に焼けるか、と思われているのかもしれませんねぇ……。

マイ井戸茶碗/1500円は分相応か

2009年08月15日 | 陶芸
 たまに行く古道具屋で井戸茶碗を見つけました。ぼくが目指すのは口径15cmほどの大井戸茶碗、写真のものは12cmなので古井戸茶碗かもしれません。
 値段が付いてない、でも回りのものは3000円とあって、井戸もそれらと同じように紙の箱に入っているからなぁ……。
 井戸茶碗って出来損ないなんですよ。不思議なことにその出来損ないに惹かれて目指している、といって3000円も払ってこの小汚い碗で飯を食うってのもどうよ?
 
 陶芸クラブの要釉斎先生いわく「分不相応な井戸茶碗で毎日飯を食いたまえ、そうすれば君もいつかは立派な大井戸が挽けるようになろうぞ」と。3000円というのは、ぼくにとっていかにも分不相応ではありませんか。1000円、いや100円が相応しいところなら、この茶碗を清水買いしなくてなんとする。
「あの、これ値段が付いてないんですけど……」
 店内をあてどなくさまよって後に決意を固め、レジに陣取っているホストクラブの兄さんみたいな男前に聞きました。

「う~ん、良く分からんけど、売るなら1500円かなぁ」
「よっしゃ、買うたぁ!」
 兄さん一瞬「うそっ!」って顔して、そそくさと包み始めました。
 もしかして1000円に値切れたかも、とぼくは考えたし、ひょっとしたら2000円を吹っかけても良かったか、と兄さんは考えたかもしれませんが、お互いにエクスタシーを感じたとしたら大団円でしょう。
 
 家に帰ってさっそく茶を飲みました。茶は苦手なんだけど陶道のためなら少々の艱難辛苦は厭いません。白米ご飯も滅多に食べないパン派なのに飯も食ってみました。
 なるほど、なるほど、この茶碗は井戸の約束事をほぼ踏襲してはいるものの、出来損ないだ! 大井戸なら370gを目標にするのに、古井戸で370gあるのって、重すぎやしないか?

 正直なところ、ぼくには判定できません。色にしても枇杷色が薄いし、ろくろ目ではなく削り目が高台脇から少し上まで付いている。ろくろの腕前は下手ではないにしろ達人というほどでもなさそう。これならぼくでも挽けるぞって思わせてくれるのですが、ここが重要なところです。もしこれが達人の手によるものであったなら、ぼくの鑑識眼は養えても目標にしようと思わないかもしれません。
 
 人はおしなべて、自分の手に入ると信じられるものにのみ心を動かされるのであって、蜜蝋で羽を固めて太陽に向かったイカロスなんてのは、究極の夢想家にして変態だとしか思えません。分不相応なものというより、ちょっとだけ自分より高みにあるものと対峙しながら暮らすのが、凡人にはよろしいようで……。

大井戸茶碗は、オイド茶碗じゃないのよ

2009年08月06日 | 陶芸
  

 腱鞘炎の注射って痛いんですよ、手のひらには鋭敏な神経があるから。それをもう4回もがまんしているのにまだ治りません。
「先生、この前の注射はようやく命中した感があります」とドクターにいえば、
「う~ん、的から外れとるわけじゃないんよ。ただ、芯に命中したかどうか先生には分からんの」とおっしゃったのもうなずけます。自分が自分の手に針を打つなら、ここって感触はつかめると思うんです。だからって患者に注射している最中に「ここ? え、違う、じゃあこっちにしとこ」なんてチクチクやられたら、打たれる方はたまったもんじゃないでしょう。

 そういうわけで陶芸クラブに行くのがおっくうになってるんですが、行けば行ったで新発見があったりしてスキルが上がるし、なんだかんだ言いながらも皆さんぼくを待ってくれているんです。
「今日は要釉斎先生の一味はお休みよ、テーブルを広々と使ってね」みたいな日だったので、軟らかい土でお地蔵様を手びねりしていたんですが、頭部を作るのが難しくて結局なにも完成しませんでした。
「一日一善、一汁一菜、一日一作」を座右の銘にしているぼくとしては、クラブに来てなにもこしらえもせず帰られるはずありません。三々五々帰るクラブ員を見送って後、電動ろくろを引っ張り出して大井戸茶碗のような物を一つ挽き上げてフィニッシュです。

 要釉斎先生がおられなかったので、ぼくの作品が大井戸茶碗として認定されるかどうか自信がありません。そこで大阪に住むロクロ子先輩へ、作品の写真をメールに添付して送りました。すると夜になって、
「それのどこが大井戸じゃ、ロクロ子の大井戸を見いや~!」
 送られてきたのが冒頭の写真です。見事な出来かと思いますが、やや派手な印象は否めません。
「ろくろの技術がいくら良くてきれいな物が出来ても、茶人が使ってくれなければ茶碗とは呼べないよね」と返信するや否や、
「ロクロ子は陶芸家にして茶人や。ロクロ子が『これは茶碗や』いうたら、茶碗やねん!」と有無を言わせぬ回答をいただきました。

 ロクロ子先輩が酒乱、もとい、酒豪だとは知ってましたが、お茶も飲むとは知りませんでした。彼女の陶芸の腕前を目の当たりにしたことはないんですが、どこぞのイベント会場で陶芸を指導していたらしいですから、ひょっとしたら当アイランド・ポッターズの頂点に君臨できる人かもしれません。
 講師に招きたいほどですが、むきになって返信してくるところを見ると、もしかして、ぼくもロクロ子先輩のオイドが見えてきたか? そこまでではないにしろ、ロクロ子先輩の尻尾の先くらいは見えてきたかもしれません。
「や~い、ロクロ子のオイド見ぃちゃった!」
 メールを返したその後、ロクロ子先輩からの返信はプッツリ途絶えてしまいました。