(承前)
2018年1月28日。神田小川町から、聖橋を渡って北上し、上野公園を目指して歩いた話の続き。
1~2月前半に上京するたびに驚いているような気もするが、いつにない寒さでも、早咲きの梅の花はもうほころんでいるのだった。
神田明神の北側は、蔵前橋通りに面していて、高低差が相当あるため、階段になっている。
交通量の多い蔵前橋通りを、車の切れ目に渡る。
向かい側も階段になっている。
こんな細い道が、千代田区(外神田2丁目=右側)と文京区(湯島3丁目)の境界になっている。
階段を上りきって、左に折れて緩い坂を上り、「妻恋神社」の前を過ぎたあたりで、右に曲がる。
前項で、神田明神に寄り道する前に歩いていた道に、戻った格好だ。
南北に通るこの道路の、ここらへんは「清水坂」と呼ばれており、北に向かってゆるやかな上りになっている。
高層住宅や中小企業の事務所などが並ぶ中、ラブホテルがぽつぽつある。妻恋坂という地名が近くにあるせいだろうか。
つぎの写真は、とくに意味はないけれど、「緬羊会館」という名前が村上春樹の『羊をめぐる冒険』に出てきそうな感じがしたので、撮った。
あれは札幌だけど。
それにしても、今回の神田から上野に至るルートは、東京の台地の東端をたどっているのだなと、あらためて思う。
その次の画像は「実盛坂」。平安期の武将の名を冠している。
たいへんな高低差である。
前項の神田明神もそうだし、かつてNHKのラジオ放送局があった港区の愛宕山などもそうだが、昔は高層建築物が少なくて、東京湾が一望できたのだろう。
これらの海抜30メートルほどの高台と、数メートルの下町があるのが東京の街であり、その高台の間を川が深い谷を刻んでいる。渋谷川(古川)の渋谷や、茗荷谷、神田川沿いの御茶ノ水駅などは、いずれも地下鉄が地上に顔を出す地区であるが、高台の地下を走っていた丸ノ内線や銀座線が、海抜数ないし10メートルの谷間を横切る地点なのだ。
江戸期の古地図を見ると、海岸沿いの低地や、深い谷間には、町民が密集して住み、高台は大名などの屋敷になっていることが多い(低地にも屋敷はあるが)。
その屋敷の跡が、東京の都市計画にあたって貴重な土地になったことはよく知られていると思う。
たとえば、東京大学の本郷キャンパスは加賀藩の屋敷だった。
水戸徳川家の屋敷は、陸軍砲兵工廠を経て、戦後は後楽園球場などが造られた。
というわけで、高台と谷間の二十数メートルの高低差は、東京の町並みに大きなアクセントになっている。崖の下に住むということが、物語に陰影を与えている漱石の「門」といった作品もある。
話がそれたが、東京の高台のへりを南北に走る道路を、北へ進んでいくと、湯島天神に突き当たる。
筆者は10年前、高台の下から階段を上って湯島天神にお参りしたことがある。
高台の側から来るのは初めてだ。
観察していると、若い人も、鳥居の下をくぐって境内から出るとき、振り向いて一礼している。いまどきの若者はずいぶんと礼儀正しいのである。
もっとも、スタジアムジャンパーのポケットに両手を突っ込んで頭を下げても、あまり礼儀正しいとはいえないような気がする。
最後に挙げた画像は、境内にある、王貞治氏の「努力」という碑。
この人に「努力」といわれると、まったく反論できる気がしない-という意味のことは、10年前にも書いた。
境内には雪が残っているのに白梅が咲いていた。
庭園のまわりには屋台が出て、にぎやかなことである。
湯島天満宮の縁起についてはサイトを見ると、雄略天皇時代の創建などとずいぶんなことを書いているが、江戸城をひらいた太田道灌の力が大きかったというのがおそらく史実に近いのだろう。
『江戸名所図会』にいう。
2018年1月28日。神田小川町から、聖橋を渡って北上し、上野公園を目指して歩いた話の続き。
1~2月前半に上京するたびに驚いているような気もするが、いつにない寒さでも、早咲きの梅の花はもうほころんでいるのだった。
神田明神の北側は、蔵前橋通りに面していて、高低差が相当あるため、階段になっている。
交通量の多い蔵前橋通りを、車の切れ目に渡る。
向かい側も階段になっている。
こんな細い道が、千代田区(外神田2丁目=右側)と文京区(湯島3丁目)の境界になっている。
階段を上りきって、左に折れて緩い坂を上り、「妻恋神社」の前を過ぎたあたりで、右に曲がる。
前項で、神田明神に寄り道する前に歩いていた道に、戻った格好だ。
南北に通るこの道路の、ここらへんは「清水坂」と呼ばれており、北に向かってゆるやかな上りになっている。
高層住宅や中小企業の事務所などが並ぶ中、ラブホテルがぽつぽつある。妻恋坂という地名が近くにあるせいだろうか。
つぎの写真は、とくに意味はないけれど、「緬羊会館」という名前が村上春樹の『羊をめぐる冒険』に出てきそうな感じがしたので、撮った。
あれは札幌だけど。
それにしても、今回の神田から上野に至るルートは、東京の台地の東端をたどっているのだなと、あらためて思う。
その次の画像は「実盛坂」。平安期の武将の名を冠している。
たいへんな高低差である。
前項の神田明神もそうだし、かつてNHKのラジオ放送局があった港区の愛宕山などもそうだが、昔は高層建築物が少なくて、東京湾が一望できたのだろう。
これらの海抜30メートルほどの高台と、数メートルの下町があるのが東京の街であり、その高台の間を川が深い谷を刻んでいる。渋谷川(古川)の渋谷や、茗荷谷、神田川沿いの御茶ノ水駅などは、いずれも地下鉄が地上に顔を出す地区であるが、高台の地下を走っていた丸ノ内線や銀座線が、海抜数ないし10メートルの谷間を横切る地点なのだ。
江戸期の古地図を見ると、海岸沿いの低地や、深い谷間には、町民が密集して住み、高台は大名などの屋敷になっていることが多い(低地にも屋敷はあるが)。
その屋敷の跡が、東京の都市計画にあたって貴重な土地になったことはよく知られていると思う。
たとえば、東京大学の本郷キャンパスは加賀藩の屋敷だった。
水戸徳川家の屋敷は、陸軍砲兵工廠を経て、戦後は後楽園球場などが造られた。
というわけで、高台と谷間の二十数メートルの高低差は、東京の町並みに大きなアクセントになっている。崖の下に住むということが、物語に陰影を与えている漱石の「門」といった作品もある。
話がそれたが、東京の高台のへりを南北に走る道路を、北へ進んでいくと、湯島天神に突き当たる。
筆者は10年前、高台の下から階段を上って湯島天神にお参りしたことがある。
高台の側から来るのは初めてだ。
観察していると、若い人も、鳥居の下をくぐって境内から出るとき、振り向いて一礼している。いまどきの若者はずいぶんと礼儀正しいのである。
もっとも、スタジアムジャンパーのポケットに両手を突っ込んで頭を下げても、あまり礼儀正しいとはいえないような気がする。
最後に挙げた画像は、境内にある、王貞治氏の「努力」という碑。
この人に「努力」といわれると、まったく反論できる気がしない-という意味のことは、10年前にも書いた。
境内には雪が残っているのに白梅が咲いていた。
庭園のまわりには屋台が出て、にぎやかなことである。
湯島天満宮の縁起についてはサイトを見ると、雄略天皇時代の創建などとずいぶんなことを書いているが、江戸城をひらいた太田道灌の力が大きかったというのがおそらく史実に近いのだろう。
『江戸名所図会』にいう。
太田道灌江戸の静勝軒にありし頃(文明十年六月五日なり)。夢中に菅神に謁見す。翌朝外より菅丞相親筆の画像を携へ来る者あり。乃ち夢中拝するところの尊容に彷彿たるを以つて、直ちに城外の北に祠堂を営み、かの神影を安置し、且梅樹数百株を栽ゑ、美田等を附す。即ち当社これなり。
(この項続く)