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冬の終わりの大通公園

2009年03月01日 19時38分01秒 | つれづれ写真録
 
 さっぽろ雪まつりが終わったあとの大通公園は、けっこう好きだ。

 もっと有効に活用を-という声もあるようだが、年がら年中、やれビアガーデンだ、やれYOSAKOIだ、やれ花フェスタだと、いいだけ使われている大通公園である。
 この季節ぐらい、ひっそりと休ませてあげたいと思うのだ。

 都心の3丁目あたりだと、園内には、大雪像を取り壊した後の雪山が残り、広い道がついているが、10丁目以西ともなると、ひとりが歩けるほどの踏み分け道しかついていない。

 しかし、札幌の市街で、歩道の除雪に本格的に取り組み始めたのは1970年代以降のことであって、それ以前は、勇気ある人物がエイヤっと雪の中を歩いて、それからだんだん歩道が広がっていったのだ。


       

 だから、歩道にはたいてい、おとなひとりぶんの道しかついていなかった。

 反対側から人が歩いてくれば、片方が雪の中に身をかわして、もう片方の人に道を譲ったものだ。

 踏み分け道には、人と人とのふれあいがあった。

 すみずみまで歩道除雪が行き届いたいま、踏み分け道の不便さが、むしろなつかしく感じられてくる。


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4 コメント

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はるまち (エゾ三毛猫)
2009-03-01 19:39:11
今時期、お客さんを呼べるイベントが
ないからなのでしょうね。

ところで大通り公園って、中央分離帯
だということを、ご存知でしたか?
(あれっ?このサイトで知ったっけ?)

交通渋滞を緩和する為の一環として、
こんなバカ広い幅にしたとか。

日本で一番、そして圧倒的に集客数が
多い中央分離帯でもあります。

なんか
「大通り公園から見る札幌市の歴史」
が書けそうですね。
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エゾ三毛猫様 (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2009-03-01 23:19:03
 大通公園は、たしかに現況は中央分離帯のように見えますが、こういう道路計画は明治初期になされたものです。当時の開拓使が自動車交通を考慮してこのような計画をたてたとはとうてい考えられません。また、中央分離帯として発想されたのであれば、これほどの幅は必要ありません。
 明治期、自動車はほとんどなかった一方、建築物の多くは木造でしたから、大火を防ぐことは都市計画で非常に重要でした。大通はなによりもまず、火防線であったのです。
 「大通逍遥地」として整備が始まったのは明治後期です。
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うわー、すみません (エゾ三毛猫)
2009-03-02 18:56:15
勝手なことを書きまして、
ご迷惑をおかけします。

そうですよね、自動車の
ない頃から開拓の歴史が
ある訳ですからね。
火防線ですか、建築物と
いえば木造の頃ですよね。

ご指摘、ありがとうございます。


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Unknown (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2009-03-02 20:22:53
エゾ三毛猫さん、わざわざありがとうございます。

パスティーシュ小説の清水さんとかも間違えて書いているので、かなり広まっている説なのかも? 
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