今からちょうど20年前の1991年(平成3年)1月20日に南武線で活躍した101系のさよなら運転が行われました。南武線の車両を管轄する中原電車区に初めて配置されたのは1972年(昭和47年)でありましたが、1969年(昭和44年)12月から川崎~登戸間の快速(データイム以外は各停に充当)に武蔵小金井区の101系が使用され、それ以前にも青梅線へ乗り入れた「南武奥多摩号」として101系が使用され、南武線の近代化に長年貢献しました。
ということで、さよならから20周年という節目を迎え、101系の思い出を少々述べていきたいと思います。
現在も私が鉄道を趣味としていられるのも南武線と101系のおかげではないかと思っております。それは私が物心つく2歳の時に南武線の見えるところに引越してきたのがきっかけであります。当時の南武線は茶色のオンボロ車両である73系ばかりで、私としてはあまり興味がありませんでしたが、先程も記述しましたように1969年12月より南武線に快速列車が運行されることになり、オレンジ色の101系が運行されたことにより私の鉄道に対する興味を開花させました。
今までノロノロと走る73系に比べ、オレンジ色の101系は時速80km/hのスピードで快走するシーンは鮮烈に見えたようで、この頃から新形車両に対して憧れを抱き、日本の経済成長期を支えた101系や103系に興味を抱きました。ご存知のとおり当時の南武線は東京近郊の横浜線や青梅・五日市線とともに山手線や京浜東北線、中央線などの路線で使用されたお古の車両が晩年これらの線区で使用されるため、電車の墓場とまで揶揄されてきました。私が東京都心にある親戚の家に遊びに行く時に乗った京浜東北線や山手線などのカラフルな車両がますます憧れを抱くというか釘付けになったようで、南武線にもカラフルな車両が走ってくれることを願っておりました。
1972年(昭和47年)から101系が中原区に配置され、徐々に73系を取替えが行われましたが、当時の稲城長沼以北の有効長が4両であったため、急速には新形車両への置き換えができなかったようです。また、昭和47年からオレンジ色の車両は黄色に塗り替えられ、南武線のラインカラーが黄色と定着したようですが、度重なる中央線からの転入により冷房車も含めて黄色とオレンジ色の混色やオレンジ色のみの編成も見られました。
1975年(昭和50年)12月から浦和区のスカイブルーの車両が転入し、スカイブルー1色の異色編成や黄色との混色編成も見られ、混色劇場がますますエスカレートしました。
1977年(昭和52年)9月に稲城長沼以北の有効長が6両になり、73系の置き換えが進み、翌年1978年(昭和53年)7月に73系さよなら運転が実施され、101系化が完了しました。また、ちょうどこの時期に101系1編成を冷房改造し、初の冷房車が登場しましたが、立川方のT'c56は1978年3月に豊田区から転入したばかりということでオレンジ色のまましばらく活躍しました。
話しがどうも長くなりそうですので、本日はここまでとしますが、さよなら101系から20年ということで、今後も101系の思い出を中心に述べていきたいと思っております。
上の写真の車両は一灯ライトで有名なMc168で立川方も一灯ライトのM'c167です。
1982年(昭和57年)からは103系が転入し、103系との競演が見られました。103系の編成はMc46の編成でオレンジ色はT770 M749 M'2006です。
ということで、さよならから20周年という節目を迎え、101系の思い出を少々述べていきたいと思います。
現在も私が鉄道を趣味としていられるのも南武線と101系のおかげではないかと思っております。それは私が物心つく2歳の時に南武線の見えるところに引越してきたのがきっかけであります。当時の南武線は茶色のオンボロ車両である73系ばかりで、私としてはあまり興味がありませんでしたが、先程も記述しましたように1969年12月より南武線に快速列車が運行されることになり、オレンジ色の101系が運行されたことにより私の鉄道に対する興味を開花させました。
今までノロノロと走る73系に比べ、オレンジ色の101系は時速80km/hのスピードで快走するシーンは鮮烈に見えたようで、この頃から新形車両に対して憧れを抱き、日本の経済成長期を支えた101系や103系に興味を抱きました。ご存知のとおり当時の南武線は東京近郊の横浜線や青梅・五日市線とともに山手線や京浜東北線、中央線などの路線で使用されたお古の車両が晩年これらの線区で使用されるため、電車の墓場とまで揶揄されてきました。私が東京都心にある親戚の家に遊びに行く時に乗った京浜東北線や山手線などのカラフルな車両がますます憧れを抱くというか釘付けになったようで、南武線にもカラフルな車両が走ってくれることを願っておりました。
1972年(昭和47年)から101系が中原区に配置され、徐々に73系を取替えが行われましたが、当時の稲城長沼以北の有効長が4両であったため、急速には新形車両への置き換えができなかったようです。また、昭和47年からオレンジ色の車両は黄色に塗り替えられ、南武線のラインカラーが黄色と定着したようですが、度重なる中央線からの転入により冷房車も含めて黄色とオレンジ色の混色やオレンジ色のみの編成も見られました。
1975年(昭和50年)12月から浦和区のスカイブルーの車両が転入し、スカイブルー1色の異色編成や黄色との混色編成も見られ、混色劇場がますますエスカレートしました。
1977年(昭和52年)9月に稲城長沼以北の有効長が6両になり、73系の置き換えが進み、翌年1978年(昭和53年)7月に73系さよなら運転が実施され、101系化が完了しました。また、ちょうどこの時期に101系1編成を冷房改造し、初の冷房車が登場しましたが、立川方のT'c56は1978年3月に豊田区から転入したばかりということでオレンジ色のまましばらく活躍しました。
話しがどうも長くなりそうですので、本日はここまでとしますが、さよなら101系から20年ということで、今後も101系の思い出を中心に述べていきたいと思っております。
上の写真の車両は一灯ライトで有名なMc168で立川方も一灯ライトのM'c167です。
1982年(昭和57年)からは103系が転入し、103系との競演が見られました。103系の編成はMc46の編成でオレンジ色はT770 M749 M'2006です。
早々と103系に置き換えられたのに対し なぜ
山手線よりも駅間の短い南武線では、比較的長きにわたって活躍したのでしょうかね・・?
池上彰氏であれば「いい質問ですね」と言いたいぐらいの質問だと思っております。
私も何度も「なぜ南武線は長期に渡って101系が在籍したのか」ということを考えたことがあり、かつ南武線や101系・103系の雑誌などで、このなぞを解決してみたいと試みたことがありますが、決定的な答えは見つけることができませんでした。また、私が高校生、大学生だった頃に中原電車区の担当者に尋ねたことがありますが、同じ東京西鉄道管理局管内の車両をできるだけ転配するようにしているとか、黄色やオレンジ色以外の車両はできるだけ転入させないなどごもっともなお答えをいただことがありません。
先日も昭和44年から53年にかけて活躍した南武線の快速や一昨日の101系の思い出の中で述べましたが、南武線の新性能化は武蔵小金井区による快速列車の運行から始まり、そのまま使い慣れた101系によって新性能化が図られたと考えられます。
また、青梅線・五日市線の新性能化においては中央線快速との関係から101系化を推進すべきところだと当然思われますが、101系で4両編成を組成した場合、オールM車でなければパワー不足になることやモーターが焼けてしまう。組成上T車が余りすぎて、効率的な組成ができないなどいろいろな問題があるようで、当該路線の新性能化は103系によって問題が解決された経緯があるようです。よって転配の関係上、どうしても中央線や赤羽線などの101系を他の線区にまわし、新性能化を推し進めなければならないのですが、ちょうど南武線の両数と合致し、南武線が101系の受け皿となったのではないかと思いますが、はっきりしたことは言えません。
2006年5月号の鉄道ファンで大熊孝夫氏がまとめられた103系特集をご覧になると転配の関係がわかりますし、ご本人にお会いできる機会があれば、直接ご質問されると何か決定的なお返事を聞くことができるかもしれません。
私もこの件に関しては勉強不足でちゃんとしたお返事ができませんが、何かわかりましたらその都度述べていきたいと思っております。
こんばんは。
黄色い101系は中央・総武緩行線沿線で育った私にとっても大変馴染ある電車でした。
自宅に居るといつも聞こえて来たC-1000形コンプレッサーの音は、今も忘れる事が出来ません。
当時、編成の中間に挟まれた運転台車の「木更津」幕を見た時は、子供ながら興奮しましたっけ・・・・
今も南武線と聞き、真っ先に浮かぶイメージは、やはり黄色とオレンジが混ざった101系ですね。
親戚が亀戸に住んでいましたので、幼い頃に何度も中央・総武緩行線を利用しましたが、当時101系オンリーの路線で、冷房車が0%という首都圏の国鉄の路線では冷たい扱われ方をされていたことを思い出します。汚名返上ということで登場した101系の冷房車も千葉方3両のみで抜本的な解決にもならず、編成重量の関係(101系冷房車10両は入線できず)から早々に南武線に転出したことも思い出します。
また、中央・総武緩行線101系の混色、異色というと実際に見たことがありませんがウグイス1色の101系や800番台のオレンジ色を含む混色編成などがありましたね。もちろん、103系や201系でもオレンジやウグイス(103系のみ)の混色、異色編成がありましたが、時間のある時に当路線の混色、異色編成の写真をアップロードしたいと思っております。
PSそういえば、さよなら運転に使われた101系、引退後に太東駅付近の外房旧線で横風対策試験に使われましたね。回送はDD51牽引で深夜に行われましたが無動力とはいえ外房線を走る101系を見てみたかったです。
ごもっともなご意見、どうもありがとうございます。また、フィリピン国鉄の話題もご覧いただき、どうもありがとうございます。
フィリピン国鉄については、最近、記事にしておりませんが、そろそろ大きな動きやあっと驚くようなことも計画されているようですので、後日述べていきたいと思っております。1つだけご報告させていただきますが、昨年9月に譲渡された14系寝台車の使用予定は、計画では今年6月までにBicol Expressとして運行する計画があります。(上下1本ずつ) また、現在Tutuban~Binanに運用されている通勤用12系客車は、代替車両が調達できしだい廃車の予定です。
本題の南武線の101系化について、MT比のことを考えてみると確かにごもっともな理由かと思っております。4両、8両編成の場合、101系では通常4M、6M2Tの組成になり、103系ではMT比率が1:1で済みますので、6両編成の南武線(南武線の4両編成はオールM)では他の路線の編成両数との絡みや形式別の両数バランスから101系化によって新性能化が推し進められたことに納得しております。6両編成の路線と言えば関西線、片町線(あとで5両から6両編成化)、武蔵野線もそうであり、これらの路線は確かに101系が導入されていることからも理解することができます。
また、101系の冷房車については、編成重量の関係やMGがM'車に付いていない、103系と同じ160KVA、210KVAの3種類あり、片町線用の車両を除く全ての冷房車が集結したほうがより効率的に組成され、ましてや台車検査のあった国鉄時代では有効的だと判断できます。ただ、それでも中原区としてはこの問題に少々悩まされていたようですが。
北海道に渡った103系とともに101系が外房線の旧線で実験に使用されたことを雑誌で読み、少々ショックであったことを今でも覚えております。その101系の残骸などあるのでしたら、今でも見に行きたいところです。
武蔵野線については現場の一部から115系を導入したらどうかという意見があったそうですが「諸事情」から却下されたそうです。おそらく、まだ近郊型電車の車両数が充足していなかったことと三鷹電車区からの回送スジの確保が困難だったのではないかと考えています。
101系ですが、秩父鉄道の1000系になったもの以外に5~8両が広瀬川原に入線しているようです。内訳はクモハ101とモハ100が各2~3両、クハ100が1~2両です。このうち5両が秩父入線後すぐに解体されたと以前存在した「101系掲示板」に書き込みがありました。3両は平成5年に私が実見しています。モハ100は200番台の車番までは確認していますが、工場前に留置されていた車両を走行中の車内から確認しただけのため正確な車両番号は失念してしまいました。この先頭車1両分の乗務員室仕切りはデハ1006号車に流用されていると思われますが、該当車は東急車導入時に真っ先に解体されてしまいました。他に南武支線ワンマンカーや鶴見線用の800番台の部品も1000系の予備部品として活用されています。有姿で秩父に入線した部品取り車は全て解体されています。
外房旧線の101系も実験終了後DD51牽引で浦和電車区大成派出まで廃車回送されています。
フィリピン国鉄は旅客収入だけでは維持が困難であり、DOTC(運輸通信省)からの援助や政府開発援助など何かしらの援助が必要だと感じております。状態の良い12系はリニューアル化され、再び営業につくものと思われ、不足する車両については日本の鉄道会社から無償譲渡を前提(輸送費などはフィリピン国鉄負担)として、今後、譲渡が行われるかと思います。(数ヶ月後には動きがあるかもしれません)
武蔵野線に115系を導入する予定があったのですか?初耳で少々驚いています。中央東線用の115系が使用され、編成はMc M' T'c Mc M' T'cで組成され、中央東線との使い回しによりT車を出し入れしていたのかもしれませんね。実際には中央線に103系新製冷房車を66両投入し、特快の冷房化率をほぼ100%に上げるとともに捻出された101系を1000番台に改造した上で武蔵野線に投入されました。私が小学生の頃(昭和50年前後)、武蔵野線のデータイムは40分間隔の運行であり、他の東京近郊路線と同様に冷房車が全くない状況でしたが、昭和55年に待望の新製冷房車の103系1本が直接投入され、南武線沿線に住む私にとっては羨ましいかぎりでした。
秩父鉄道へ譲渡された101系、部品取り用の車両もあったと聞いておりましたが、この部品取り用に5両ほどもあったのですか。先程、101系特集の雑誌などをちょっと見てみたのですが、どの車両が部品取り用になったのか残念ながらわかりません。
秩父鉄道の1000系(101系)も製造から50年近くなり、よくぞここまで頑張ってきたと思い、今後の東急からの譲渡車の状況によっては、50年を超える車両も出るのではないかとひそかに期待しております。
もはやJRでも客車が実質絶滅状態であることを考えると電車を客車化するか別の国から客車を買い付けるしかなさそうですね。
>武蔵野線
115系導入案ですが、当時、東京西局の担当者だった方が意見を言ったものの、本社での具体的な転用計画にまで至ったという話は聞いていません。仮に計画段階まで行ったとしても低屋根車にする場合は普通屋根車よりも車両価格が高くなることから普通屋根車を入れ、限定運用を組まざるを得ないなど問題が多すぎるため、実現は無かったと思います。101系は中央快速にも1000番台車がイレギュラーながら運用されていたと聞いています。
>秩父部品取り車
以前インターネットに車番まで出ていたのですが、見つけることはできませんでした。車両は全てJRに引き継がれた中原と習志野の車両でした。譲渡車の部品は通常10年程度で枯渇して共食い整備になる傾向がありますが、これだけの部品取り車があったからこそ20年以上持ったのでしょうね。
また、私事ではありますが、自宅のリノベーションを行っている関係からPCが一時的に使用できないため(PCの移動、接続の繰り返し)、すぐに返事ができず、申し訳ございません。今後ともコメントに対する返事やブログの更新がすぐにできないこともあるかと思いますが、どうぞご理解いただけたら幸いです。
武蔵野線の115系導入の件に関するご説明、どうもありがとうございます。先程、ふと私の頭の中に過ぎったのですが、大鉄局で検討されていた東海道・山陽線緩行線73系の置き換えで幻の105系(103系の高速用)が導入されていたら、駅間の長い武蔵野線にも導入されていたのではないかと思ったしだいです。当時の国鉄としては新形式を起こすことに大変であったようで、かつ旧型車両を一刻も早く置き換えする必要性があるなど切迫した問題が山積していましたが、結果的に各路線に妥当な形式が配属されたのではないかと思っております。(アマチュア的な考え方しかできませんが)
秩父鉄道の1000系(101系)、既に国鉄、JRから譲渡されてから20年以上も経ち、約1500両の最大両数があったからこそ、部品の供給ができたのではないかと共感しております。ジャカルタでも同様に三田線で活躍した6000形が譲渡から約10年経過し、103系についても7年経過し、いずれの形式も事故車以外元気に活躍しております。これも部品が確保されているからこそ現役で活躍できるものと思っておりますが、最近では部品の確保、代替になる部品の作成、改造などに四苦八苦しているようですので、秩父鉄道についても同様に譲渡車両を使い続ける困難な状況があるものと推測されます。