Asian Railway Plaza

アジア各国の鉄道やJR南武線の話題などをお届けします

ソウルメトロ1000系を求めて

2016年02月23日 00時11分08秒 | 韓国
昨年の5月下旬~6月上旬のことになりますが、マニラにいる子供の2才の誕生日にあわせてフィリピンに一時帰国した時に大韓航空を利用してソウル経由で8年ぶりに韓国へ行く機会があり、ソウル周辺の鉄道探訪と抵抗制御車のソウルメトロ1000系を追いかけてみました。
利用した航空便は以下のとおりで、ソウルでの滞在はいずれも24時間以内ということで、ストップオーバーにならないスケジュールにしてみました。
5/27 HND9:15→GMP11:35
5/27 ICN20:05→MNL23:00

6/2 MNL0:30→ICN5:20
6/2 ICN20:55→HND23:05

5月27日は徹夜で仕事を終わらせ、ほとんど寝ないでふらふらな状態でしたので、ソウルに到着しても寝ていたいところでしたが、せっかくのソウル訪問ですし、まずは抵抗制御車の1000系を見たいということで、301系似のオリジナル1000系を含む編成が動態保存されている2号線の新亭車両基地に行ってみることにしました。
新亭車両基地は2号線新亭支線の陽川区庁駅近くにありますが、Googleマップのストリートビューで見ると301系似の1000系を確認することができ、私ももう一度あのなつかしい顔を拝みたいということで来てみました。
道路と車庫の間には少々高いフェンスがあるものの、下の写真のように赤と肌色のツートンの車両は健在であり、韓国鉄道庁のスカ色というのでしょうか、青と白のツートンの1000系とともに活躍したあの良き時代の光景を思い出しました。


その1000系の近くには旧2000系が留置されていましたが、一昨年5月に上往十里駅において追突事故を起こした車両なのでしょうか、車両の妻面に衝突の衝撃によりできたと思われる破損が見られました。


301系似のオリジナル1000系を見ることができ、103系ファンの私としては嬉しいかぎりですが、続いて是非見たかったのは先頭改造はされているものの抵抗制御車の1000系で、この編成は6本ほど在籍しているようですが、以前に比べたら運用範囲が広がり、1号線とそれに直通する京元線逍遥山から京仁線の仁川または遠くは長項線新昌まで行く列車もあるようで、この中でその1000系を見つけるには容易ではないのですが、以前、電鉄線の車両を撮影したこのある龍山にとりあえず行ってみることにしました。
龍山に到着するや否やホームの端っこで待っていたところ運の良いことにすぐにやって来ました。


続いてすぐにメトロの新1000系が現れ、私にとってはラッキーなことでしたが、この前のジャカルタではありませんが、ホームの中央のほうから警備員らしい人間が近づき、私に韓国語でここでは撮影はできませんというようなことを言われてしまったようです。(私自身は韓国語はほとんど理解できません)
私が韓国を初めて訪れたのは92年頃で、当時、ホームで撮影していても怒られるということはなかったと思うのですが、やはり戦時体制を意味しているのかホームでの撮影は場合によっては禁止されているのかもしれません。
とりあえず言葉は通じないものの英語で許可証を取得すれば良いのかと警備員に聞いてみると駅長室に連れてってくれました。駅員さんに話してみると「ここに電話して聞いてみてください」とのことで、韓国語をほとんど話せない私に電話してみてと言われてもほぼ無理な状況はわかっていましたので、ついでにこの部屋のテーブルにあった起点から距離数字の入った韓国全土の鉄道路線図を記念にいただいてもかまいませんかと聞いてみると、嬉しいことにいただくことができました。


続いて、マニラから東京に戻る際にもほぼ丸1日近く、ソウル周辺で1000系を追っかけておりましたが、詳しいことはわからないもののメトロの1000系は急行に入ることはないのだろうということで、京仁線の仁川方面に行く1000系を見かけましたので、その列車に乗車し富平のあたりまで行ってみて、103系と113系を合わせて2で割ったようなモーター音を堪能しておりました。


富平のあたりから引き返し、鷲梁津で1時間ばかし撮影していましたが、3本の抵抗制御の先頭改造車を撮影することができました。


最後に水原近くの義王駅近くにある鉄道博物館に行ってみましたが、ここには韓国鉄道公社(KORAIL)の1000系が飾られているということで、楽しみにしておりましたが、初期の塗装である青と白のツートンの1000系と晩年の頃の塗装である緑と黄色に白の塗装の車両を見ることができました。


以上、抵抗制御車1000系に関する報告でしたが、103系好きな私としてはまだまだこれらの車両にがんばってもらいたいものです。

南武線205系引退

2016年02月21日 01時33分56秒 | 南武線
既に1ヶ月以上が経ってしまいましたが、先月1月9日に唯一残っていた先頭改造のナハH46がありがとう運転と題して川崎~登戸間の臨時下り快速列車が運行され、約27年間の205系の長い歴史に終止符が打たれました。この列車は川崎→登戸を快速で走るだけということで、撮影か乗車するかのどちらかを選ばなければならず、私は撮影することにしました。
前日8日、ツイッターなどで調べてみるとある程度知られている撮影地には置きゲバと言われる自分の三脚を予めその撮影場所にセットしておいて、自宅やホテルに戻り、翌日そのセットした場所に戻るという非道徳的な行為の人間が居たようで、本来であれば公道上にそのような障害物を置く場合は警察署に道路使用許可を取得する必要があるかと思いますが、そのうちこういう連中には神様から厳しい裁きがあるものと信じています。
まあ、そのようなことはどうでも良いのですが、1月9日の当日朝もどこで撮影しようかと決断もできないまま、川崎駅近くの柳町踏切に行ってみることにしました。ここを選んだ理由は武蔵中原から川崎に回送される列車でも行先表示は下り方面の行先に変更されているということもあり、「快速登戸」を撮影できることと、後続の列車が時変がかかっていても、場内信号で停止し、E233との並びが撮影できる可能性が大きいということで、ここに来てみました。
柳町踏切に到着したのは8時前でしたが、先客は3人程度と少なく、撮影場所は無難に確保できたため、このまま待ち続けると少しずつギャラリーが増えていきました。冬に3時間近くを外で待ち続けるのは大変なものがありますが、この日の朝はそれほど思ったよりも冷え込みが厳しくなく、川崎への送り込みまでの時間がそれほど長く感じませんでした。


送り込みの列車は定刻どおり通過し、行先表示も既に快速登戸になっていましたので満足であはありますが、メインは川崎→登戸間を行く列車を撮影するほうで、後続で来る上り列車とこの205系がどのように並ぶかですが、予想では後続列車はもう少し手前の位置に停止もしくは徐行するかと思いきや、結構、ギリギリまで進んでしまいました。


その後、登戸駅はほぼパニック状態のようであり撮影は難しいのではないかと予測し、おとなしく武蔵中原で到着を待っていましたが、ホーム上にロープで囲ってくれたおかげか、問題なく何枚も撮影できました。冬の時期だからどうしても側面が影ってしまいますが仕方ありません。
立川寄りのホームでは入庫する際にH39の最後の入庫と同じように「ありがとう」などの叫び声が聞こえてきました。


ここまでは1月9日の「ありがとう運転」の話題でしたが、この205系最後の「ありがとう運転」には乗車できないであろうと予測しておりましたので、通常の営業運転で乗車を締めくくるということで、最後の日と予測される12月24日朝早く武蔵中原へ行って、ナハH46が出庫されるところを待っていましたが、短い運用の29Fに充当され、乗車と撮影を楽しませていただきました。


翌25日はナハH46が茅ヶ崎に疎開され、代わりに南武線では最後の配備となるE233系N35が中原区に到着するということで、この日の昼間にちょっと出かけてみました。
ナハH46を武蔵中原で撮影し、すぐに鹿島田に来てみたのですが、ギャラリーの姿は見られずゆったりと撮影できました。


続いて、武蔵中原駅に戻り、最終編成となるN35が到着し、これにてE233系の配備が完了したわけですが、残る209系H53の1本が現在も使用されており、今後、3月のダイヤ改正以降も使用されるのかどうか注目されていますが、今のところ運用本数削減というような情報もありませんので、今後もしばらくは使用されるものと推測しております。


最後に約27年間活躍した205系の労いと感謝をこめて、1989(平成元)年3月11日のダイヤ改正にデビューした当時の写真をお見せしたいと思いますが、第1弾投入のTc86~88の3本が川崎重工で製造され、国鉄・JR時代では初めて新車が投入されたのですが、同時にダイヤ改正を機に最高速度を95km/hにスピードアップし、川崎~立川間で約3分縮めることが実施されました。この3本の新車は編成番号27~29が使用されましたが、第2陣のTc100~103の4本投入後に編成番号が変更され、10~12が使用されました。
下の写真は中原区に到着したばかりのTc86~の編成で、2月14日に検修の方にお願いさせていただき、撮影させていただきました。


3月11日にダイヤ改正が実施され、205系3本が一斉に運用に入りました。全て終日運用で、ナハ27が13デ、ナハ28が21デ、ナハ29が15デ運用に充当され、それぞれ各々のヘッドマークが取り付けられていました。


その後、第2弾はその年の9月~10月にかけて4本、第3弾は翌年90年の8月~10月に9本が配置され、合計31本のうち約半数の計16本が205系、残り半分は103系となりました。91年は205系16本を投入し、残りの103系全部を取り替える予定で、本来であれば横浜線のように南武線も全て205系化する予定でしたが、計画が途中で大きく変更されてしまい、私が検修の方にお伝えし願いが通じたのかどうかわかりませんが、結果的には残り半分の103系はそのまま2004年まで長い間残ることになり(より新しい103系によって取り替えられましたが)、103系好きな私としても嬉しい結果となりました。


これで南武線本線上からは205系が撤退しましたが、ジャカルタをはじめ武蔵野線や仙石線で南武線で活躍した車両が活躍し続けていますので、今後もこれらの車両を追いかけるとともに、懐かしい南武線の205系の話題も述べていきたいと思います。

20年前のサバ州鉄道

2016年02月20日 00時49分11秒 | マレーシア
マレーシアのボルネオ島にあるサバ州鉄道(Sembulan~Tenom間旅客営業)に名鉄、会津鉄道で活躍していたキハ8500が譲渡されたということで、私もビックリしておりますが、キハ8500が譲渡されたということで非常に行ってみたい気持ちになりつつある状況で、次回のマニラ帰国にあわせてそのまま足を延ばしサバ州の州都コタ・キナバルへ行き、その後、元南武線の205系や103系を求めて、エアアジアでジャカルタへと考えているところです。
それはさておき、サバ州鉄道で譲渡されたキハ8500に乗車してみたい気持ちが募る中、約20年前にこのサバ州鉄道に乗車した時の想い出を少々振り返ってみることにしました。94年10月に私が4年間勤めた会社をあっさり辞め、約7ヶ月間のフィリピン全土、サバ州+ブルネイ放浪の旅を行っていた時に、この鉄道を利用したことがあったのですが、その懐かしい写真が何枚かありますので、乗車記とともに話しを進めていきたいと思います。
当時、フィリピン全土を旅してみたいということで、スルー諸島の最も西端でボルネオ島に近いSitangkaiというイスラム勢力の小さな島に来て、このあたりには海漂民族で船の上で暮らすバジャウ族が多く、違法ながらもそのSitangkaiからボルネオ島マレーシア領のSempornaという都市まで頻繁にスピードボートが発着していましたが、そのボートに乗ってボルネオ島に足を踏み込むという勇気まではありませんでした。
数ヶ月してから、やはり行ってみたいという気持ちが湧き出し、フィリピン、ミンダナオ島最西端のZamboangaから船が1週間に1便、山崎朋子の小説でも知られているSandakanまで行く船があるということで、正規にその船に乗船しSandakanに到着するとサバ州の地図を購入しました。サバ州鉄道の存在については地図を購入する前まではその存在を全く知らなかったのですが、その地図に書き込まれた鉄道を見て、これは是非見てみたいということで、バスでKota Kinbaluを目指しました。

私がこのサバ州鉄道を利用したのは、当時の日記によりますと1995年4月23日で、この日は日曜日ということで、終点のTenomまで行く直通列車は平日であれば2本あったのですが、日曜日は1本のみでTanjung Aru発は11:20でした。Kota Kinabaluの宿を10:15にチェックアウトし、黄色と赤のツートンカラーのミニバスで駅に到着すると約50人の客が列車を待っていました。とりあえずTenomまでの切符を購入し、車庫へ向かうと車庫の手前にはその日にお世話になる列車が停まっており、前からDL1両+貨車(トラのような貨車?)5両+客車3両の編成でした。日本ではこのような混合列車は北海道を中心に走っていましたが、現在の日本ではこのような列車もなく、海外の先進国ではこのような混合列車はあまりないのかもしれません。
下の写真は別の列車でありますが、このような客車と貨車の混合列車が主体だったかもしれません。


また、車庫には1台の蒸気機関車と1975年に川崎重工で製作された客車とどこかの国で作製された気動車が居ました。蒸気機関車は1955年にイギリスで製造されたものらしく、かつては使用されていたようなのですが、この当時は残念ながら使用されておらず、ただ留置されているだけのようでした。



列車は11時前に駅に入線し、私は最も後ろの車両に乗り込むと乗車率は40%程度でした。定刻11:20に出発したのですが、突然、列車は急停車し、乗り遅れた人を待っていました。その後は何のトラブルもなく、のんびりと畑の中や海岸沿いを走り、乗車率も全員が楽々座れる40%程度と変わりなく、この路線の中間駅では最も大きいBeaufortに約10分遅れの14:10に到着しました。
Beaufort駅ではTenomに行くための大勢の乗客が乗り込んできたのですが、大半がヨーロッパやアメリカ大陸などの白人系バックパッカーばかりで、私の周りの席は彼らによって占領されました。また、列車はTenom方面からの列車の到着を待っていたため、定刻には発車できず少々遅れて発車したようですが、このBeaufortから山間部のTenomまではPadas川に沿って走り、渓谷美と雄大な自然が見事だったものの雨が途中から降りだし、路盤が軟弱なのか列車は今までの快調なスピードで走行できずゆっくり走り、Tenomにはおよそ1時間遅れの17:30頃に到着しました。この日はそのままTenomのホテルに泊りましたが、山の中にあるせいが夜はかなり寂しかったかと思います。

朝一番のTenom~Beaufort間の列車は、どうも豆粒のような車両が運行されているということを知り、翌日朝早くTenom駅に行ってその列車に乗車すべく切符を購入しようとしたのですが、なんとそれは予約制であり、事前に予約していた人から切符が販売され、最後の最後に残った1席は運の良いことに予約をしていなかった私がゲットできました。


この車両はレールカーと呼ばれているようで、Beaufortまでの運賃は通常であれば2.75リンギットですが、このレールカーですと8.35リンギットと約3倍もかかります。
列車は定刻の6:40に発車したものの昨日からの雨のせいか、途中、枝や岩などが線路上に落ちており、2回程、それらを除去するため停車し、Beaufortには少々遅れて到着しました。
その後、私はKota Kinabaluに戻らず、再びTenom行きの列車に乗車したようですが、前日のように白人軍団に車内は占拠されることがわかっていましたので、1人で貨車に乗車し、大自然を堪能していました。


以上、簡単でありますが20年前の乗車記で、現在の状況と比べると変わっているところもあるものと思われますが、譲渡されたキハ8500もしばらくは活躍するものと思われますし、この譲渡が良いきっかけになれば今後も日本の中古気動車を譲渡するということにもなり、ミャンマーやジャカルタのように日本から多くの鉄道ファンがこれらの車両を追い求めて来るのかもしれません。

どうなるジャカルタの103系

2016年02月15日 00時14分34秒 | インドネシア
今日は1月のジャカルタ遠征の最後の報告としてジャカルタの103系について述べていきたいと思います。
昨年9月のジャカルタ訪問時においてはKCJ色のT'c597 T246 M'231 Mc105 Tc359 M654 M'810 T'c384は環状線のManggaraiフィダーと呼ばれるManggarai~Duri間の運用に充当され、元気に活躍している姿を見ることができましたが、昨年暮れの12月にMGなどの故障により運用から外れ、しばらくBukit Duri車庫に留置されていたものの、私が訪問する数日前にBukit Duri車庫からDepok車庫へ回送され、1月の訪問時にはDepok車庫の部品取りなどで留置されている車両のあたりに置かれていました。


この編成の今後の行方については、資料には修繕・廃車という中に記載されているようですが、いただいた最新の編成表の中にはこの編成の車両番号が記載されていないことから、復活することは計画されていないのかもしれません。
私の願いとしては新潟地区の115系が徐々に廃車されていますので、素人的な考えではありますが、その中で状態の良い部品を簡単に調達できるのであれば修繕への道はあるものと思いますが、修繕するにはどれだけの費用が嵩むのか推測もできないものの、何とか復活してもらうことを願うばかりです。
下の写真は低運T'c597の反対側であるT'c384で、こちらは別の編成がギリギリにつけるものですから、かなり広角レンズでないと撮影はできません。


一方、もう1つの東海色の編成であるT'c822 M'2009 M752 Tc815 Mc153 M'321 T210 T'c632は相変わらずBalai Yasa Manggaraiに隣接する場所に留置されており、撮影するとなると手前の高運のほうは良いものの、反対側の低運のほうを撮影するには草むらの中を歩く必要もあるかもしれませんし、場合によってはインドネシア独特のオナモミとか言われている草のトゲトゲが服にくっつき大変なことになります。それもトゲトゲがとても痛いので注意が必要です。
この編成はいずれCikaumやPurwakartaに送られると思っていましたが、この場所に置かれてから2年程経過しますので、そのままこの場所で朽ち果ててしまうのかもしれません。


ということでジャカルタの103系の活躍の復活があるのかどうかわかりませんが、ちょっと懐かしい写真ということで、103系が譲渡されてから間もない2005年5月に撮影した写真を2枚程アップします。
この当時の103系は全て4両編成で運行されており、下のTc359の編成は主にBogor線・中央線で活躍していました。


また、Tc815の編成はTangerang線のBenteng Ekspressに充当されることが多く、低運のMc105やMc153の編成は朝Tangerang線からBogor線に乗り入れるCisadaneという名前の列車に充当されることが頻繁にあったようで、Serpong線でも運用に入っていたことも覚えております。


ここまでは103系の現状と想い出ということで述べましたが、最後についでということで元南武線205系の動きに大きな動きがあり、このブログにリンクさせていただいているJABODETABEK COMMUTERS NEWSのパクアン急行様のご報告を総括させて、1月作成した元南武線の編成表を修正すると以下のとおりとなります。


元南武線の205系は全て12両編成となり、KCJ色は譲渡第5陣のナハH12,34,39とペアを組むようになった11がKCJ色に変更されたものの、その後はKCJ色化された編成はない模様で、南武色からKCJ色化が確実に今後も実施されるのか注目されますが、私個人的には南武線ファンの1人でもありますので、他の編成にはKCJ色化が波及しないことを願うばかりです。

下の編成はナハH11+10の6M2Tによる8両編成で、この南武色8両編成は元より10両編成でさえも過去のものとなっています。

Cikini駅で撮影

2016年02月09日 23時07分35秒 | インドネシア
前回でのお約束どおり、今回はCikini駅での撮影について、少々述べていきたいと思います。
朝、中央線内で撮影する上では、光線状態や線形的な条件を考慮するとCikini駅のホームが最も良い場所かと思いますが、今回の撮影の目的は元南武線205系を撮影するということで、ほとんどの元南武線の編成は中央線に入る運用となっていましたので、先日の報告のとおり1/17の日曜日朝にCikini駅ホームで撮影することとしていました。
しかしながら、カメラの電池をホテルの部屋に充電したままカメラの中の電池を確認せずそのまま来てしまったため、ここで初めて気がつくというドジをしてしまい、タクシーで電池を取りに往復したのち、再びここCikini駅のホームで撮影しようと思っていたのですが、PKDのお兄さんに許可証がないと撮影できませんとのことで、翌月曜日の朝であれば駅員がいると思うので、結局出直すことにしました。
翌日朝8時にCikini駅の事務室へ寄ってみると、駅員担当者は交通渋滞の影響により出社が遅れているとのことで朝の撮影は断念したのですが、受付嬢曰く、夕方はたいてい16時まで居るのでまた来てくださいとのことで、Depok車庫訪問の帰りに寄ってみることにしました。
駅事務室で事情を話すと許可証を発行するのかと思いきや、駅のスタッフの1人が一緒にホーム先端までついて行くというので、ちょっと申し訳ないような思いでお願いさせていただくと、最初にやって来た列車がラッキーなことに下の元南武線のナハH3+36の12連でした。


続いて元ハマ線の205系と元埼京線の205系がManggarai方向からKota方面へと通り過ぎたのですが、このあと来た列車は先程Depok車庫に留置されていたナハH2+4の10連でした。
この編成は行先表示と種別表示をちょっといじらせてもらった編成だけに、もしや後ろのH4編成で種別が「快速」、行先表示「快速川崎」という表示で拝めるのではないかと期待していたところ。


前面を見ると下の写真のとおり嬉しいことに種別が「快速」、行先表示「快速川崎」という表示を見事に見ることができました。
あまりにも嬉しくて後続の列車で追いかけ、Kota駅でもこの姿をもう一度拝みたいと思っていたのですが、最後の最後の駅であるJayakarta駅まで来ていながら、この駅をちょっと出たところで15分程停車し、このナハH2+4編成と不幸にもすれ違ってしまい、再び、種別「快速」、行先表示が「快速川崎」という姿を撮影することができませんでした。
(Kota駅に到着してみると、Commuter列車は私が乗車した列車しかいませんでした)


19日朝、18日夕方に続き、上りホームのKota寄りで撮影するため、18日夕方に駅員に19日朝も撮影させていただきたいということで許可を得ていたのですが、許可証のようなだれもがすぐに認めてくれるものは発行されず、口頭だけでの許可でありますので、果たしてPKDのお兄さんたちが理解していただけるのか不安でした。
朝8時頃にCikini駅に到着すると、まずは上りホームにいる1人のPKDお兄さんに昨日駅員に口頭で許可をいただいているので撮影させていただきますと断ってホーム先端で無難に撮影していたところ、しばらくして別のPKDのお兄さんが私のところまでやって来て「撮影には許可証が必要なので、この駅の事務室に行ってください」と忠告されました。私は昨日の夕方に駅員から許可を取りましたと説明すると、そのお兄さんはまだ私を疑っているようでしたので、それならば「あとで駅員に聞いてみてください」と言うと、素直に引き下がってくれました。
どうもPKD同士での連絡や駅員とPKDとの連絡も必ずしも徹底していないところがあり、やはり再び私が他のPKDのお兄さんに対して説明する必要がありますので、ホームでの撮影となるとこのような説明をしなければならない場面も出てきますし、フィリピンのように国民全員が英語をうまく話せるとはかぎらないところもあり、インドネシア語で会話することが必要な場合もありますので、インドネシア語がわからない方にとっては撮影する上で苦労することもあるかもしれません。
私自身、マレー系の言語でフィリピンの公用語であるタガログ語を長年勉強していたおかげで、インドネシア語の中に同じもしくは類似する語彙が多くありますので、非常に助かっておりますが、語根でタガログ語とインドネシア語で対比するとたくさんの共通する語彙が多く、マレー系の言語の特徴である接頭辞、接尾辞、接中辞を変えるだげで、簡単にタガログ語からインドネシア語、インドネシア語からタガログ語にもできますし、人称代名詞の「私、彼、私たち(話し手を含む、含まない)」や指示代名詞をはじめ、名詞、動詞、形容詞などほとんどの品詞に対して非常に近いものがあります。
ただ、同じ語彙でも意味が若干違うものがいくつかあり、例えば「インドネシア語のtunai、タガログ語のtunay」はインドネシア語は現金、タガログ語は本物という意味であり、「ingat」はインドネシア語は記憶・覚え、タガログ語は気をつけるという意味で、若干意味が違いますので、私にとっては混乱することもあります。また、この駅の名前であるCikiniもタガログ語のChikininiに似ていて面白いのですが、タガログ語のChikininiはキスマークという意味で、この駅の名前のCikiniはどのような意味があるのかわかりません。
話しがインドネシア語とタガログ語の類似性ということで脱線してしまいましたが、話しを元に戻すとこのままホームの先端で撮影し続けたものの、下の写真のとおり列車が数珠つなぎ状態になっていました。
どうもこの日の朝はBogor線のLenteng Agung駅付近において、レールに亀裂が見つかり、数時間列車が止まっていたために、Bogor線方面からの列車は少なく、Bogor線・中央線に充当されている元南武線の205系は撮影開始から1時間経っても来ませんでした。


Bogor線内でのレールの亀裂により、Kota方面から来る列車はBekasi線方面の列車ばかりで、自ずから元南武線の列車もなかなか姿を現さなかったのですが、撮影開始から1時間経って、ようやく元南武線がKota方面へと去って行き、その30分後に帰ってきたのですが、危うく被られるところでした。


後ろを振り返るとすぐにKota方面の元南武線の列車が到着し、元南武線同士でのツーショットの姿も珍しくないようです。
また、上り列車の停止位置を観察していると、大方、正しい位置に列車が停止しているのですが、中には8両編成のくせして、私が撮影しているホーム先端の12両の停止位置で停止する列車があり、その運転士に「なぜ、ここで停止するの?」と聞くと、運転士曰く「tidak apa-apa」と問題ないと返事されましたが、改札へ降りる2つの階段は、Kota寄りの階段に降車客が集中してしまい、うまく分散されないことをわかっていない運転士もいます。
この他、列車の最後尾の車両の乗務員室には日本と同様に車掌が乗務していますが、発車直後のホームでの安全確認は実施されておらず、JRが乗務員に対して実施している指導講習も活かされていないような気がします。


中央線では通過するコミューターの中でほとんどが205系で、おそらく1割程度が東急やメトロ系列の車両で、205系以外のファンにとっては面白くない路線でありますが、JR以外の車両をお望みの方は環状線で撮影することが望ましいようです。


元南武線の編成が連続でやってきましたが、このような姿を見ることは珍しくないようです。


ということで、続いてきたこちらの12連の列車に運良く乗車することができ、Depok車庫へと向かいました。


Depok車庫幹部の話しでは南武色205系の帯を1月中に全て変更すると述べていたものの、蓋を開けてみるとKCJ色になったのは第5陣のナハH12,34,39とその相手を組むナハH11の4本だけで、その他の編成もKCJ色に変更されるのか注目されますが、これらの元南武の編成は基本的に12両編成として使用されるようですので、KCJ色との組成は想定されないものの、今後どのようなことになるのか気になるところです。私個人的にはこの南武色はKCJ色化されないことを願いつつ、そのような様子が見られなければ、今年の断食時期(ラマダン)の前にもう一度ジャカルタに訪問し、今度は南武色の205系をJuanda駅のホームからMasjid Istiqlalとともに撮影してみたいものです。

Depok車庫訪問2

2016年02月02日 23時25分36秒 | インドネシア
先日の続きで、今回もDepok車庫訪問についてですが、留置線からさらに奥へ行くと最終の第5陣で運ばれた元南武線のナハH12,34,39が洗浄線で整備中で、私がDepok車庫を訪問する3日ぐらい前までは赤鬼にはなっておらずオリジナルのままの姿のようでしたが、私が訪問した1月18日には3編成ともに残念ながら赤鬼化されてしまいました。


当然のように前面には新たに南武色の帯が貼られていたのですが、ナハH34の山側のサイドの帯はなぜかKCJ色化されており、海側についても一部がKCJ色化されビックリしました。
先日も報告しましたとおりDepok車庫幹部の話としては検査時期を待たずに1月中に約100両全ての南武色の帯を全てKCJ色に変更する予定と述べており、この時点でいくらなんでもあと10日間で帯を変更するのは無理ではないかと思っていましたが、現時点で急速的な変更は無理なようであったものの第5陣のナハH12,34,39に加えて11がKCJ色化されており、元南武線計20編成中4編成がKCJ色化されているようです。
下の写真はちょっとわかりづらいですが、ナハH34の編成で、前面が南武色、サイドの帯がKCJ色化されており、18日の時点では残りのナハH12と39は前面・サイドの帯ともに南武色でした。


洗浄線から再び留置線に戻ってみると、元南武線の編成を探してみたのですが、私がDepok駅から車庫まで乗せてもらったナハH8+7の10連以外にナハH4+2の10連が留置されていました。
平成元年に南武線初の205系として登場した編成で、それぞれの中間車のMM'は不幸にも中原区内の検査時に引き起こした事故によって元来のMM'は使用不可能な状態に陥り、元山手の車両に交換されてしまいましたが、新天地のジャカルタに移ってからもそのままの編成で活躍し、南武第1陣同士が編成を組んでいます。
また、行先表示と種別のところをちょっといじらせてもらい、南武線では幻で終わってしまった行先表示が「快速川崎」、種別も「快速」にして、1人でこの姿を堪能させていただきましたが、南武線で実際にこのような姿を見れたならばきっと感動していたのではないかとあらためて感じておりました。


車内に入ってみると、今のところ元南武線の編成にはKCJ特有の広告モニターが取り付けられておらず、JR時代そのままの姿ではありますが、自動音声による車内案内の装置が設置されているようです。
また、今回の訪問で気がついたのは、自動音声に引き続き、全ての車掌がドアの開閉時に独自にインドネシア語で「ドアが開きます・ドアが閉まります」、「すぐにドアが開きます・すぐにドアが閉まります」または「ドアが開きますのでご注意ください・ドアが閉まりますのでご注意ください」と案内がバラバラで統一されておらず、車掌によっては英語で「ホームとのギャップにご注意ください」と案内する方もおり、聞いていて面白いものがあります。


こちらの編成はDepok駅から車庫まで乗車させていただいたナハH8+7の10連です。元南武線の編成では第5陣の3編成分は前面・サイドの幕ともに抜かれており、これ以外の編成も前面の幕が抜かれているものが多くありますが、おそらくKCJでは日本語の幕を乗客に見られたくないことがうかがえます。


場所を移動してみるとナハH43+38の12連が居りましたが、こちらは幕ありの編成ということで、KCJに対しては何の恨みもないのですが、ちょっといじらせてもらい、私の好きな「快速川崎」にさせてもらいましたが、この編成が運用に入った時には幕が変えられてしまったようで、「快速川崎」は残念ながら見れませんでした。やはり、日本語の行先が表示されていると運転士がすぐに変えているようです。


こちらは整備中のナハH39で、南武線で最後のオリジナル顔編成ということで73系のヘッドマークを付けた編成ですが、赤鬼+南武色の姿もこの日を最後に翌19日にはサイドの帯の一部がKCJ色に変更されてしまいました。できれば南武色のまま、ここジャカルタにおいても73系のヘッドマークを付けて1ヶ月ぐらいは南武線とKCJ共同企画の第2弾コラボレーションということで運用に入ってくれることを願っておりましたが、今後、73系のヘッドマークを付けて走ってくれるのか、あまり期待できないかもしれません。ヘッドマークを付けて走ってくれたならばすぐに航空券を手配して行きたいところですがね。


ここまでが18日の状況でしたが、Depok車庫内での撮影申請書に17日から19日のうちのいずれかの1日で2時間程度撮影させていただきたいということで申請していたところ、許可証には「tanggal 18 dan 19」(18日と19日)と書かれており、「atau」(または)ではなく、「dan」(と)と書かれていましたので、それに乗じて19日もDepok車庫に入り撮影させていただきました。
気になっていた洗浄線に行ってみると、引き続きナハH12,34,39の編成が整備中であり、昨日は南武色であったナハH12がKCJ色に変更されており、34についても前面の帯がKCJ色に変更され、2編成が僅かな時間でKCJ色へと簡単に変更されました。


その後、洗浄線にナハH39が入線し、サイドの帯の一部がKCJ色に変更されていましたが、現在ではこの編成もKCJ色化が終了しているようです。
南武色からKCJ色への変更は1編成あたり1日もあれば終わってしまうようですので、確かにDepok車庫幹部の言っていたように1月内に全ての南武色をKCJ色に変更するというのも可能だったのかもしれませんが、1月内に全ての変更は無理にしても、もしかすると2月もしくは3月には終了してしまうのかもしれません。南武線ファンとしては数本でよいから残してほしいところですが、今後、どのような展開になるのか気になるところです。


19日は東急の8000系で初めてKCJ色化された8007Fの試運転がDepok~Manggarai~Bogor~Depokとあったようなのですが、私はというとその試運転の撮影より元南武線の205系の撮影を優先するということで、Depok車庫内で撮影していたところ、その8007Fが帰ってきました。
この時点で8003Fも検査入場中ということで、今後、こちらの編成もKCJ色化されるようですが、8039Fについては車籍があるものの部品取りとして供出されているようですので復帰は難しいのかもしれません。


ということでDepok車庫訪問の様子についてお伝えしましたが、次回はCikini駅での撮影について簡単に報告したいと思います。