本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

ハダカの王様

2008-10-25 17:40:03 | Weblog
 麻生太郎首相はハダカの王様ですね。庶民から向けられる目が分からない。
 毎晩のように外での飲食、しかもホテルのレストランとバーの利用とか。ホテルのバーは安全で安いとうそぶく。安全を言うなら早々に帰宅したらよい。一家団欒や食育を勧める立場でしょうに。安いのは銀座のバーに比べてというが、そこと比較するところがハダカの王様たる所以ですな。
 金持ちを吹聴しているが、困っている施設に寄付していると聞こえてこない。ノブレス・オブリージとは何かを知らないようだ。

 家系は石炭で財を成したが、他の炭鉱会社より劣悪な条件で炭鉱労務者を酷使したことで有名だった。今のブーム本に仮託すれば「陸の蟹工船」。
 石炭の衰退で、いち早く廃業した。これで、鉱害賠償の資力なしとなって、鉱害被害者に国が賠償を肩代わりした。臨時石炭鉱害賠償法とはそんな法律だった。
 変わり身が早かったのは、政治の世界にいて、あらかじめそのことを知っていたと邪推したくなる。
 なるほど、山師にはノブレス・オブリージは無縁でした。

再び敬語の誤り

2008-10-24 09:52:31 | Weblog
 昨日、話題にしたのは新聞投稿の敬語。同じ日の同じ新聞の文化欄に、やはり敬語のコラムがあった。
「…「どうぞ、ご拝読下さい」と毎号書かれた同人誌が届く。ちなみに、その方は国語教師でいらっしゃる…」という記事がそれ。

 国語教師とあるから中学校以上の教員だろう。この教師の教え子は「ご拝見下さい」や「ご拝受下さい」と相手に対して手紙を綴るに違いない。この教師、何でもかんでも「ご」の丁寧語をつければ敬語になると思っているのかしら。国語教師は失格ですね。

 それはそれとして、これを書いた記者(たぶん、文化部担当でしょう)は、なぜ、誤りを指摘してあげないのか分かりませんわ。この記事を読んで、ハッと気がつけばよいということかいな。しかし、「毎号」届く同人誌の添え書きのようだから長い間、この過ちを放置していたことになる。同人誌なんぞ毎月発刊できるわけないわけだから。
 その間、この教師に学んだ多くの生徒は、敬語を思い違いするでしょう。

この敬語は誤用か

2008-10-23 11:29:09 | Weblog
 新聞の投稿欄に言葉の使い方を嘆いていた。
 その一つに、レストランの店員に「ご注文の品はおそろいになりましたでしょうか」と言われたそうな。これは「ご注文の品はそろいましたでしょうか」としなければならないとある。果たして、店員の言葉は誤用だろうか。

「する」の尊敬語に「お~になる」がある。この用法に当てはめると「お(そろい)になりましたでしょうか」となるから間違いではない。「そろいましたでしょうか」より敬語は過剰のきらいもあるが、客商売には有り勝ちだろう。
 
 あるいは、この投稿者は「そろえる」行為は店員側にあるので、それに「お」の丁寧語をつけて「おそろい」とするのがおかしいと思われたか。
しかし、「お世話になります」、「お家にいらっしゃい」、「ご連絡します」、「ご返事します」、「ご無沙汰しています」など自分の行為や事柄にも「お」や「ご」をつける。敬意を払う相手に対する行為・事柄であるためだ。つまり、おかしいということは当たらない。

 とにかく、投稿欄の担当者も勉強不足だ。


国連安全保障理事会

2008-10-22 10:18:20 | Weblog
 国連の安全保障理事会の非常任理事国に、日本が選任された。これが10回目で過去最高の回数になるとか。しかも、非常任理事国の場合は、連続再選を認められていないので、この回数は重い。これだけの回数を選任されたのだから常任理事国になってもよさそうに思う。
 一体、5カ国の常任理事国とは何様ですかね。第二次大戦の戦勝国として、未来永劫国連で胡坐をかくわけですかね。これは5カ国のエゴですわ。

 一方、国連分担金のトップ5は、米、日、独、英、仏である。6位の伊まで含めると、敗戦国が3国になる。拒否権をちらつかせる中国は9位、ロシアは15位の分担だから笑止ではないか。本来、分担金拠出の上位が常任理事国であるなら納得できるというものだ。

 思うに、安全保障理事会はすべて改選にすればよい。

可能の助動詞は不要

2008-10-21 10:51:22 | Weblog
 著名な某教授の雑誌掲載文に「~おもしろがれたとは、考えにくい」という表現があった。声を出して読めば舌を噛みそうだ。本人のミスか校正のミスか定かではない。「おもしろがれた」は「おもしろがられた」となるはずだ。「られる」から「ら」が抜か落ちたということ。

「られる」の助動詞は、可能、受身、尊敬、自発とある。話し言葉では、このうち可能だけは「ら」抜き言葉を認める方向にある。「食べれる」、「見れる」、「起きれる」がそうだ。でも、書き言葉では誤りとなる。
 しかし、可能動詞の場合は「書ける」、「読める」、「切れる」、「取れる」のようにハナから「ら」がない。この表現と横並びにすれば、可能の「ら」抜き言葉も書き言葉として通用させてもよさそうだ。つまり、「られる」の助動詞から「可能」の機能を削ることだ。

 一方「おもしろがれた」はなぜ変か。これは、可能ではなく、自発か受身だろうと思うからだ。「相手が心の底から面白く感じる」ことなら自発になり、「相手が思わず面白く受け止める」ことなら受身になる。
 ただし、自発と受身はあいまいでよく分からない。「サボっているところを見られる」は受身に違いないが、「あの女性によく見られたい」は自発なのか受身なのかはっきりしない。

 ということで、読書はなかなか進まないこととなりました。