本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

作家の値打ち(続き)

2006-01-23 17:42:13 | Weblog

  作品の評点の前に、ひとつだけ釈然としないものがある。作家の選び方だ。安岡章太郎、阿川弘之、小島信夫の大正生まれ組は第三の新人として、石原新太郎、大江健三郎は昭和30年代の作家として、北杜夫、古井由吉は昭和40年代の作家として近代文学史で評価を固めている。つまり、現存とはいえ往年の作家で今更の感もある。だから選ばれた作品も旧時に属する。手元にある昭和44年版の筑摩書房の全集 にさえ収録されたものが多い。ならば、一例だが三島由紀夫も司馬遼太郎も選ぶべきだった。作品は書店でいくらでも入手できる。

  先に眉唾と書いたのは、文芸評論家たるものが『太陽の季節』も『海辺の光景』も『アメリカンスクール』も『楡家の人びと』も『芽むしり仔撃ち』等など、それ以前に読んでいなかっただろうか。恐らく半数は既読だろう。700作品読みは誇張だろうと思う。

  さて、作品の評価だが、全てを取り上げられないので、最高と最低を転載する。最高の96点は、『仮往生伝試文』(古井由吉)『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)『わが人生の時の時』(石原新太郎)であった。最低は20点以下の測定不能として船戸与一の作品8点を挙げている。ダメ点の割にはずいぶん読んでいる。最低は私も納得。最高の古井作は読んでも解らず途中で放った。慎太郎作はこの人に珍しく抑制の効いた文章でしたが印象に残っていない。村上作は、これが感心するほどのものかと今読んでいるところ。



作家の値打ちという本

2006-01-20 21:04:47 | Weblog
 福田和也著『作家の値打ち』は、純文学とエンターテイメントから五十人ずつ計百人の作家の574作品を評価したものだ。労作であることは間違いない。何しろ、700の作品を9ヵ月で読破し、評価を下したという。ただし、眉唾の点がある。これは後述。
 著者は気鋭の文芸評論家のようだが、その評論の一作も読んだことはないので、実力に接していない。ただ、文芸評論以外にも様々なことを書いていて、月刊文芸春秋連載の「昭和天皇」なんぞは楽しみのひとつである。目利きの読書人であることは確かであろう。

 さて、くだんの労作の対象条件は、現存の作家でかつ、作品が入手可能であるとのこと。つまり、読もうと思えば、本屋で買って評価の検証ができるわけで、これはまことに親切。換言すれば、珠玉の作品でも絶版のものは採り上げないということだ。また、百人の枠に入らない作家は、ある程度の作品はあっても存在感が薄い作家か水準の低い濫作だけの作家らしい。ただし、評価の結果、鼻も引っ掛けないような作家もいた。
 
 この本の面白いのは、評価を数値化したことだ。90点以上(世界文学の水準で読み得る作品)、80点以上(近代日本文学の歴史の銘記されるべき作品)、70点以上(現代の文学として優れた作品)、60点以上(再読に値する作品)、50点以上(読むに値する作品)、40点以上(何とか小説になっている作品)、39点以下(人に読ませる水準に達していない作品)そして29点以下(人前で読むと恥ずかしい作品)である。

 どんな作家のどんな作品は何点か。それは次回に。といっても興味はないか。


勉強・稽古・工夫

2006-01-14 15:57:17 | Weblog
 眠気もよおしに、寝床で谷崎潤一郎の小説『蓼喰ふ蟲』を読んでいたところ、「仏蘭西語の稽古に行って」という一節があった。昭和3年の作である。
 それで思い出した。ある時期まで「勉強する」とは言わず「稽古する」と言っていたそうだ。
 
 漢語辞書によれば「勉強」とは『中庸』からの出典で、つとめはげむ、精を出すという意とある。しかし学問や学習の意味はない。どうやら「勉強して学問をする」の後段が落ちて、勉強イコール学問・学習になったらしい。これは、漢字の本来の意味からはずれ、日本独特の意味を持たせたもの。つまり国訓とある。
 骨董市で「勉強してよ」と言うのは「勉強して値下げしてよ」の後段落ちだろう。骨董屋のオヤジに「学問をして」と迫ったわけではない。こちらは、勉強イコール精を出して、となるから本来の意味に近い。
 一方、稽古イコール学習・練習とする意味も、実は国訓。ただし、本来は、いにしえ(古)の道をかんがえる(稽)ことの意であるから「学校に稽古に行く」が本質だと思う。
 
 ついでながら、ある中国文学者の話を敷衍すれば、勉は「免」からできた言葉であるそうだ。この「免」、ク(女性のしゃがんだ格好)、口(穴)、人(子供)が縦に組み合って新生児を生み出す形の象形文字で、狭いところから出ることが本来の意味とか。ところが、ある状態からまぬがれるという意味を含んで免責、放免、免税があり、一般に許さないが特別に許すという意味を含んで免許、赦免がある。そこで、本来の意味は女偏の「娩」という形声文字に換えて区別したと辞書にある。そうそう、「勉」は力が加わった形声文字で、りきんで出すことである。

 韓国語で「コンブ」とは学習のことである。漢字語の「工夫」からの由来という。日本語での漢音読み「こうふ」と発音が似ている(「くふう」は呉音読み)から、なにやら保線現場にでもいる人を想像してしまうが、本来の意味は、思慮をめぐらせることだから、勉強より理に適っている。土木作業員の意味は、これも国訓。
 床を這い出て、眠れなくなったことでした。

好戦的なヒト科

2006-01-10 16:05:33 | Weblog
 オランウータンはマレー語で「森のひと」の意であることはよく知られている。ある本によれば、チンパンジーはポルトガル系アンゴラ語の由来で「まねをするひと」、ゴリラはアフリカ系言語の語源で「野生のひと」の意味という。いずれも「ひと」扱いですな。
 ところで、ヒト科で括るとチンパンジーとゴリラは人の仲間らしいが、オランウータンには異説があるとか。
 科学的にもヒトとチンパンジーのDNAは1.6%しか違わないという。異種の蛙の間では8%も違うそうだから、相当の近親さと思う。もっとも、専門書からの受け売りではないから確証はないけど。
 さて、本題だが、チンパンジーのあるグループは、別のグループを意図的に滅ぼすという。ただ、殺人マシーンを持たないから時間がかかる。また、ゴリラがゴリラに殺される確率は、アメリカ人が殺される比率と変わらないそうだ。
 どうやらヒト科のDNAは好戦的といえそうだ。人間は道具があるから殺戮のスピード化と多量化が図抜けているわけ。
「森のひと」がヒト科に入らないのは大いに結構。あの柔和でユーモラスなオランウータンのDNAと同じであればよかったと思ったことでした。