本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

根菜類

2007-10-31 11:09:17 | Weblog
 飲み仲間にコンニャク屋さんがいる。コンニャク屋といっても、別に店舗があるわけではなく、大掛かりに生産もしていない。正確には、奥さんが手作りししたコンニャクを道の駅やJAの売店に納めている。それを、市役所定年後に手伝っているだけのようだが。
 このコンニャク、色は黒くて、鮫肌のようにざらざらしているが、刺身にしても煮物にしてもおいしい。

 さて、コンニャク問答みたいな話はこれくらいにして、コンニャクのように「こん」のつく食べ物は根気がつくといわれていますね。他にだいこん、れんこん、ごんぼう(ゴボウ)、こんぶをいう。正月には、これらの食材がなますやお煮しめになる。まことに先人の知恵はすばらしい。

 ただ、根菜類(コンニャク芋を含む)に対し、海藻であるこんぶだけが異質だ。「こん」のつく食品を無理に付け加えた感がある。
 ならば、こんぶを外し、「ん」のつく根菜類としてにんじん、にんにくを加えてはどうだろう。こんぶを邪険にするつもりはないし、にんにくはちょっとねと思うが、ん、これは筋が通る。

訓読み

2007-10-30 10:10:49 | Weblog
 漢字の訓読みはやっかいだ。
 漢字がどんどん入ってきたが、何分、訓読みとなる和語の語彙は少ない。「取、採、撮、捕、執、獲、摂、盗、録」に「る」を送って、全部訓読みを「とる」とした。「基、元、下、本、素、許」を「もと」に充てた。つまり、異字同訓だらけだ。
「固い、硬い、固い、難い」もその例だが、かたい材料、かたい石、かたい握手、決心がかたい、表現がかたい、義理がかたいと書く場合、さて、どの漢字を充てるかとなると、かなりまごつく。漢字には意味があるだけに、どれでもよいというわけにはいかない。迷ったならひらがなで書くに限る。

 訓読みのない、つまり音読みだけの漢字は、常用漢字表からも相当拾える。しかし、常用漢字では定めていないが、「愛」を愛しいと、「威」を威すと、「遺」を遣わすと訓読みに使う。こんな例はいくつもある。本を読まなければ、若者に読解力が身につくわけはない。
 常用漢字のついでを言えば、本来、音読みである漢字を訓読みしか認めていないものもある。箱、娘、肌などである。もっとあるだろうが、1945字から拾うのも面倒だ。

 余談をさし挟んだが、やっかいな訓読みに戻ると、熟字訓も困る。
 熟字訓といいながら、大人や五月雨なんぞは音訓読みと無関係だ。今日(こんにち)の塾字音が(きょう)と熟字訓で読まれては文脈が合わなくなる。生物も「なまもの」、最中も「もなか」と訓読みすれば、話が違ってくる。
 まことに和語読み漢字は一筋縄ではいかない。

奇祭

2007-10-29 09:28:44 | Weblog
 隣県の村、といっても1キロ先の県境に接している。県は違うけれど隣村となる。県境には、特に横たう川があるでもない。国道のある一点に表示があるだけだ。

 首都の人口はドーナツ現象といわれるように、通勤者が隣県にあるねぐらに帰る夜は、ぽっかり穴が空く。要するに都県を往還しているわけで珍しくない。しかし、地方の県境に住んで、徒歩で行ったり来たりすると妙に華やぐ。
 小生の生まれ故郷の県都は、県のほぼ中央にある。県を跨ぐ往来はまったくなかった。そんな往年の体験が、県境に新鮮な思いを持つのかもしれない。これは余談。

 さて、その隣村の県の境目に神社がある。この神社の秋の祭りは奇祭といわれている。
 なんでも、収穫の米のわらで作ったおほし様なる神輿を担ぎ、その後ろには村人が太鼓を打ち鳴らしながら続くそうだ。この新わらで作った神輿が、キンキラキンの今流の神輿の原型らしい。
 どんなものかと見物に行ったが、すでに練り歩く行事は終わっていた。開け放された社の中で氏子がお祓いをしているだけ。五穀豊穣の感謝の祭りでしょうけど、なにが奇祭なのかわかりません。

 見物人もいなければ、テキヤのお兄ちゃんの出店ひとつない。まことにお祭りらしくないお祭り。もしかすると、これぞ奇祭かもしれないと疑いたくなる。おほし様という古式のわら神輿が目玉であるのなら、古代祭りが適当ではないかと思ったりする。
 あちこちから今は盛りのキンモクセイの香りが漂う。おほし様は木星だったか。

使用文字

2007-10-28 08:58:42 | Weblog
「パソコンS-Ⅲ格安3万円三日間に限る」
と張り紙があったとする。むろん、内容は嘘っぱちだが、日本で使用される文字と数字のすべてを使ってみた例である。
 すなわち、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字、漢数字、アラビア数字、ローマ数字の7種類。
 このように文字の種類が多いと、一行広告でも、俳句でも、日本一短い恋文でも自在に操れる。しかも、違った文字を誰にでも識別できるから読みやすい。
「ぱそこんS-Ⅲかくやす3まんえんみっかかんにかぎる」では目が点になりそうだ。
 
 漢字だけの国はこうはいかない。特に外来語に弱い。北京で走る巴士、的士はバス、タクシーだ。音を借りただけで意味がない。漢字は表意文字だからその持ち味が崩れる。麦当労なんぞチンプンカンプンだが、幸い黄色い大きなMがあるからマクドナルドと分かった。
 ローマ字を使った言葉に「卡拉OK(カラオケ)」があるそうだ。OKを王家にしてもよさそうに思う。それはともかく、漢字だけでは外来語の対応に限界がある。
 
 韓国語は外来語もハングルで対応する。英語力が高いのでビジネス文では英単語もあるだろうが、一般にはそうはいかない。逆に言えば、ハングルはカタカナのように柔軟性があって何語でも表記できる。しかし、ハングル表記では母国語と外来語の識別はできない。だからもともと自国の固有語と思っているフシがある。
 ただし、反論に先回りすると、日本語と思われている外来語も沢山ある。アカシア、ダルマ、ダンナ、イチジク、キセル、カッパ、カボチャ、ジョーロ、テンプラ、ゴムなどいくらでもある。輸入語が自国の言葉に溶け込むことは同じだが、すくなくとも外来語対応のカタカナで表示できる仕組みはある。
 
 とにかく、文字の種類が多いと、言語の識別が可能ということだ。言語には和語、漢語、英語、仏語などそれぞれに特徴や傾向がある。それを一つの文字で表すと表現がギクシャクする。
 まことに使用文字の多い日本語はありがたい。

五十回忌

2007-10-27 10:52:02 | Weblog
 先般、帰省した折、長兄に伯母(母の姉)からのハガキが届いていた。伯父の五十回忌の法要の案内である。うーんと唸った。五十回忌の年忌法要も珍しいが、若くして戦争未亡人になった人と違って、その年忌を連れ合いが執り行うのは稀有ではないか。

 伯父が早く亡くなって、かつ伯母が長生きしているということだ。伯母の実際の齢を知らないが、母の二つ三つほど上として92~3歳だろう。40代で寡婦になったというわけだ。その伯父は田舎で開業医をしていたが、いとこである長男は、小生と同年の高校生だったからやむなく閉業した。

 そのいとこは、やがて医者になったが、学生時代に感心したというか舌を巻いた話がある。実家が閉業したわけだから、木造の入院用病棟を取り壊して、その木材を運び、首都圏のとある場所にアパートを建て、学業とアパート経営をこなしていたのだ。
 その後、生活の拠点が違って、縁遠くなった。木造アパートはとっくにないだろうが、先見の明のあるいとこのことだから、昭和30年代に手に入れた不動産をどう活用しているか知りたいものだ。
 五十回忌から話が飛躍してしまった。