本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

飲み誘いの嘘

2006-02-23 22:00:22 | Weblog
 くだんの駐在のひまわりさん、いや、おまわりさんはくどくて喧しいから、最近、冷淡になって一緒に飲まない。ところが、昨夜、「転勤だから飲みにこいや」と電話があった。今頃異動かと出かけたら真っ赤な嘘。「嘘は泥棒の始まりだぞ」とからかったら「本官の場合は嘘も方便じゃ」とぬかす。あるいはこの面々はだれもが取調室で、はったりをかましているのではないかと疑う。悪意も毒気もないおまわりさんだが、甚古村の駐在とえらい違いだ。


安政の種痘

2006-02-21 20:38:53 | Weblog
 芸術新潮(1月号)に興味深い風俗画が載っていた。「種痘施行図」とある。
 キャプションをかいつまむと、安政4年(1857年)、アイヌ集落で天然痘が大流行し、箱館奉行村垣淡路守が江戸から12人の医師団を呼んで集団種痘を施した時の場面を描いたものとある。ついでを言えば、この絵は東北福祉大学芹沢介美術工芸館で展示中(3/26まで)とか。
 へぇーと驚いたのは、明治以前にも蘭方医かなんか知りませんが、種痘の知識があったんですね。ジェンナーの成功(1796年)から僅か半世紀で日本にも及んでいる。天然痘の伝染は恐ろしいだけに、予防法の持ち込みも速かったということかな。

攻撃の終末点

2006-02-19 19:32:05 | Weblog
 攻撃の終末点という戦術用語があるそうだ。司馬遼太郎の本で知った。
攻撃をどこで終えるかという計算がなければ敗れる。むろん、自軍の兵力、武器・弾薬、兵糧、輸送手段、地理地形を勘案してのことだ。
 海軍は小笠原諸島の先、マリアナ諸島を国防圏と考えていたそうだが、陸軍はガダルカナルまで行ってしまった。補給線が間に合わない。もともと物量で敵わないうえに腹が減ってはなんとやら。大体、ガダルカナルの海図を作ったのは戦いの後のこととか。それまでは英米の海図のコピーを頼りにしたそうな。どこと戦争をしていたんでしょう。とにかく、泥沼化したのは終末点を見極めなかったからだ。その挙句にピカドン。
 陸軍の参謀本部にも「攻勢の限界点」なる言葉があったという。同じ意味だろう。ただ、現実の作戦に考慮されていないというから始末に負えない。

 そうそう、司馬の本は坂上田村麻呂の話だった。田村麻呂は勝利をむさぼらず志波、胆沢を終末点として守りを固め、陸奥の兵と一線を画した。終末点を知っていたこの古代の将軍は常人ではない、と書いている。
 司馬遼太郎はノモンハンに従軍した。あの惨敗を黙して語らなかったが、その後の軍部の終末点無視を田村麻呂の戦術に重ねたような気がする。


ほとんどが犬死

2006-02-18 11:38:28 | Weblog
 同窓の例のHPに、後輩の現役高校生から、靖国参拝なぜ悪い、犬死させるつもりかと投稿があった。そこで、次のとおり投稿した。

 シェイクピアの悲劇では「犬死」と思われるバカバカしい死に方が多い。騎士道には無鉄砲な面がある。他方、新渡戸著『武士道』では「犬死」をいたく諌めている。太平洋戦争の全戦死者の70%が餓死という。意思に反して、犬死させられたとしか言いようがない。だから靖国に祀ることにより、戦没者という美化に包んで昇華させたいのだろうと思ってしまう。
 遺族によっても靖国には賛否がある。国を挙げての慰霊を喜ぶか戦争肯定のシンボルと観るかの違いだろう。軸足は違うが、どちらも間違っているわけではない。むろん、一般国民が参拝しようがしまいが誰もとやかく言う話ではない。しかし、政治家の参拝は票の確保という政治的欺瞞が拭えないから物議をかます。公用車を使って私人とは滑稽だ。

 あの戦争は確実に風化していく。我々だって、戦争の内実をきちんと学んでいないがすでに老いた。若い世代こそ情感からではなく、書物からあの戦争はなんだったかを知ってほしいものだ。

信教雑感

2006-02-14 19:50:21 | Weblog
 同窓のHP掲示に、小泉首相の靖国参拝は中日関係を悪化させるアメリカの陰謀だと書き込まれていた。穿った見方だけど、米国が中国を敵視するのは、建国理念である宗教の自由が抑圧されているという一面はあるでしょうな。中国には宗教=アヘンの偏見もあるし、一党独裁には信仰の自由はやっかいなのかな。ただ、馬立誠という方が、靖国神社参拝は票の獲得が目的であると看破していた。

 一方、米国の大統領はバイブルに片手を置いて就任宣誓を行いますよね。修正憲法第一条では、言論の自由を謳い、その最初に信仰の自由とこれを担保するための政教分離を定めている。信教の権利が言論の自由の一種としているところに米国憲法の特色があるけど、バイブル宣誓と政教分離がよくわかりませんわ。
 
 ところで、靖国神社。徳川末期から太平洋戦争までの間に、天皇のために命を捨てた魂を英霊として祭るのですな。だから西郷や白虎隊は今流で言えば想定外。他方、天皇制護持のための犠牲とされたA級戦犯の霊は想定内というわけ。
 だけど、会津藩は京都守護職として禁門の変で御所を攻めた長州兵から孝明天皇を守りましたけどねぇ。大政奉還後、錦の御旗を逆用されてやられた。西郷も士族の不満を背負って維新の功績をふいにしたけど、あれ、天皇制に逆らったのかね。A級戦犯は本当に天皇制護持ですかね。
 いずれにしても国家権力のさじ加減で靖国が存在する。菩提寺だけで弔えばいいものを、天皇に殉じた英霊はそれぞれの出身地の護国神社にも祭られ、さらに各地の護国神社の頂点に立つ靖国神社にも分祠されるわけですな。一人の霊魂が、三箇所に別れて祀りあげる重層構造は、日本人にもわかりにくいが、外国人には理解をはるかに越えますわ。
  
 それはともかく、遺族の希望とは無関係に、戦没者リストから勝手に英霊資格を選考し、靖国に合祀し、遺族からの削除申請は却下される。これ、信教の自由、国の宗教活動の禁止を規定する憲法二十条違反と思いますね。皮肉なことに、旧憲法第二十条は兵役の義務なんですな。

 話は飛ぶ。『麦と兵隊』に陥落後の南京で子供がアヒルを売りに来るという描写があった。虐殺の死者数が沸騰していたときに思い出して、違和感を抱いた。殺戮は事実だろうが、日本兵に少年がアヒルを売りに来るとはいささか牧歌的だ。しかし、話の基には必ず真実の種子はあるものだ。そもそも、話が伝わっていく間に規模がどんどん小さくなった戦争のエピソードはひとつもないそうだ。裏を返せば、針小棒大に誇張されていくようだ。