「親の家の片づけ? 余計なお世話よ」(文藝春秋12月号、樋口恵子)を読んだ。
片づけられる親の論理では成程と思うところもあるが、片づける子どもサイドからは、その論理は違うなという面もある。
本人には思い出と未練がある物であっても、経年劣化して不用物になっているほうが多いのだが、捨てきれないのだろう。
かみさんの実家に住むにあたって、先に帰郷したかみさんは亡くなった両親の不用物の片付けを業者に依頼した。なんでも何十万か掛かったらしい。それも当座の片づけだけの分である。
その後、私が処分の陣頭に立った。思い出も未練もへったくりもないからどんどん処分対象になる。それで、三度ほど借りた軽トラで市の処分場に持ち込んだ。それでもまだ、手つかずの押入れや納戸があるのだ。
とにかく、溜めずに片づけることが大事だ。チリも積もれば山となる、そのとおりだ。
片づけられる親の論理では成程と思うところもあるが、片づける子どもサイドからは、その論理は違うなという面もある。
本人には思い出と未練がある物であっても、経年劣化して不用物になっているほうが多いのだが、捨てきれないのだろう。
かみさんの実家に住むにあたって、先に帰郷したかみさんは亡くなった両親の不用物の片付けを業者に依頼した。なんでも何十万か掛かったらしい。それも当座の片づけだけの分である。
その後、私が処分の陣頭に立った。思い出も未練もへったくりもないからどんどん処分対象になる。それで、三度ほど借りた軽トラで市の処分場に持ち込んだ。それでもまだ、手つかずの押入れや納戸があるのだ。
とにかく、溜めずに片づけることが大事だ。チリも積もれば山となる、そのとおりだ。