本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

カメラを持たない旅

2005-11-27 06:59:25 | Weblog
 数年前、リスボンでカメラを置き忘れた。これ、ポルト「ガール」に見とれてリスボン「くら」になっていたせいかな。
 ところが思わぬ効用があった。視野が広がったということです。
 カメラを持つと、撮りたい一心からレンズ越しのアングルでものを見て、視野狭窄になりますわ。
 それ以来、旅行にカメラを持参しないことにしました。もっと言えば、この歳では、旅の思い出を懐かしんで振り返るほどの歳月なんぞありゃしないもの。
 カメラのない旅もお勧めですよ。

我が在所の紅葉

2005-11-18 17:52:41 | Weblog
 車で20分足らずの神社は奇岩に囲まれている。樹齢6百年以上といわれる大公孫樹の黄葉が目に沁みた。この大木から急勾配の階段があって、神社はその上にあるのだが、足に自信がないから参拝を遠慮した。なにしろ、この山は英彦山から連綿と連なる山の一つで、修験者の修行の霊地とか。とても、苦行なんぞに立ち向かえない。
 
 それでも、車で峠まで登ったようで、眼下に山あいのパノラマが望める。ちょうど細雨がやんで、虹が懸かっており、その虹を透かして見えた山腹の紅葉が素晴らしい。これぞ、眼福の景観でありました。



五十肩

2005-11-15 11:13:14 | Weblog
 数日前、右肩に疼痛の兆しがあり、さらに痛みが増し、腕が上がらない。これ、五十肩ですな。
 友人が「そんなに若いかね」と冷やかす。こちとらの歳は六十も半ばですからねぇ。
 江戸の頃は五十肩を長寿病と言ったとか。人生五十年でしたから、50歳を過ぎれば、長寿だったのでしょう。
 ところが、当時の50歳は、今は38歳ぐらいに相当。してみると、こちとらの年齢が、五十肩の盛りとなりますな。
 つまり、寿命が延びた今日の「五十肩」は、病名と年齢実態があいませんわ。換算すれば、「古稀病」でもよさそうだが、これもおかしい。この年齢の代称、
杜甫の時代であれば古来稀なりでも、今や、稀どころかわんさといる時代ですもの。考えてみれば、喜寿、傘寿、米寿、白寿は、漢数字による歳のもじりですから年齢ドンピシャリですけど、古稀のような故事は陳腐化するということですな。
 昭和25年のある小説の会話に、危篤の父の年齢を訊かれて「七十三ですから、年に不足はないんでございますけれど」とある。この娘、薄情のようですが、その頃は、まだ古稀というものが通用していたのですな。

 むろん、五十肩は俗称、正式名称は「肩筋肉周囲炎」というそうですわ。イタッ、タ、タ


「みなす」と「推定する」は大違い

2005-11-11 09:40:04 | Weblog
 「みなす」と「推定する」の使い分けの話です。
 どちらも、同一視させて法律効果を発生させる用語ですが、二つには大きな違いがあります。
「白を黒とみなす」とあれば、白と黒は明白に違うけれども、強引に同じ色にすることですな。つまり、本来、性質や状態や事柄が異なるものを同一視させるわけで、しかも反証を許さない。
 一方、藍色を青と同色扱いにすることが法律効果上はっきりしないときに「藍を青と推定する」として、一応、青と同じ色にするのですな。つまり、性質や状態や事柄が同一かどうか不明であるものを取りあえず同一視させるわけです。そして、こちらは反証が許される。

 民法に「胎児は、相続については、既に生まれたものとみなす」とありますな。「私権の享有は出生に始まる」という規定がありますから、生まれていないのに、強引に生まれたものとしなければ相続権の対象になりませんもの。これ、「親父が死んだとき、お前は生まれていなかった」と欲の皮を突っ張ったところで、反証は許されません。

 同じ民法に「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」とありますね。こちらは推定ですな。早い話、あるとき、子供の血液型が理に合わないことを知る。今やDNA検査もある。あっと驚く為五郎というわけ。しかし、こちらは反証が許されますから、認知取り消しの反証が通れば、夫の子と同一視するという法律効果は消滅しますな。
 ご主人、我慢しなさいという場合は「夫の子とみなす」となりますわ。

 なんだか、わたしゃ、この条文を引用したかったのかな。



珍名わかがしら

2005-11-06 11:38:20 | Weblog
 ある居酒屋のおかみさんの話。
 ある夜、数人の男が飲みに来て、ひとりの男を「若頭、若頭」と呼ぶ。それをカウンター越しに聞いて、おかみさんは「わかがしらさんって珍しいお名前ですね」と言ったとか。ヤクザもびっくりしたでしょうね。
 「普段、お愛想も言えませんが、久留米から来たというお客さんだったので、言葉のひとつもかけようと思って」というこのおかみさん、家内の高校の同級生。
 夜の商売で、その筋の客を見定めできないのは珍しいから若頭にも疎いだろう。それに、パールバックの『大地』に感激するような人だったらしいから、夜の商売というよりおいしい家庭料理の店という感じである。

 例のひまわりさんが常連の居酒屋で鉢合わせになれば、どうなったのだろう。