高校時代、国語の教科書に天野貞祐の随筆があった。題名は忘れたが「自由について」論じたものだった。哲学者の文章だから内容がさっぱり理解できなかった。手紙で質問すると丁重にも返事が届いた。「…今はわかるだけにしておき、将来哲学を学んでから考えることにしてください」とあった。
さて、話は「自由」の語だが、この語彙は明治時代の造語といわれている。スチアート・ミルの「On Liberty」を中村正直が「自由之理」と訳したのがはじまりとされている。つまり、西洋語の訳語である。
ところが、市民講座で某大学の准教授が、江戸時代の「自由」はわがままの語義だと話していた。古語辞典を引くと、「じいう」はわがまま、気まま、勝手なことの意とあり、徒然草にその用例があった。辞書は引いてみるものだ。
となれば、まことしやかに明治時代の造語と言い伝えられていることが不思議だ。あるいは形式や規制に縛られないという概念を明治の時代にはめ込んだ点がミソか。これだって、気まま、わがままと大差はないけれど。
さて、話は「自由」の語だが、この語彙は明治時代の造語といわれている。スチアート・ミルの「On Liberty」を中村正直が「自由之理」と訳したのがはじまりとされている。つまり、西洋語の訳語である。
ところが、市民講座で某大学の准教授が、江戸時代の「自由」はわがままの語義だと話していた。古語辞典を引くと、「じいう」はわがまま、気まま、勝手なことの意とあり、徒然草にその用例があった。辞書は引いてみるものだ。
となれば、まことしやかに明治時代の造語と言い伝えられていることが不思議だ。あるいは形式や規制に縛られないという概念を明治の時代にはめ込んだ点がミソか。これだって、気まま、わがままと大差はないけれど。