本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

可能の助動詞は不要

2008-10-21 10:51:22 | Weblog
 著名な某教授の雑誌掲載文に「~おもしろがれたとは、考えにくい」という表現があった。声を出して読めば舌を噛みそうだ。本人のミスか校正のミスか定かではない。「おもしろがれた」は「おもしろがられた」となるはずだ。「られる」から「ら」が抜か落ちたということ。

「られる」の助動詞は、可能、受身、尊敬、自発とある。話し言葉では、このうち可能だけは「ら」抜き言葉を認める方向にある。「食べれる」、「見れる」、「起きれる」がそうだ。でも、書き言葉では誤りとなる。
 しかし、可能動詞の場合は「書ける」、「読める」、「切れる」、「取れる」のようにハナから「ら」がない。この表現と横並びにすれば、可能の「ら」抜き言葉も書き言葉として通用させてもよさそうだ。つまり、「られる」の助動詞から「可能」の機能を削ることだ。

 一方「おもしろがれた」はなぜ変か。これは、可能ではなく、自発か受身だろうと思うからだ。「相手が心の底から面白く感じる」ことなら自発になり、「相手が思わず面白く受け止める」ことなら受身になる。
 ただし、自発と受身はあいまいでよく分からない。「サボっているところを見られる」は受身に違いないが、「あの女性によく見られたい」は自発なのか受身なのかはっきりしない。

 ということで、読書はなかなか進まないこととなりました。