本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

こともなし

2015-10-31 09:22:47 | Weblog
 旅行でもしない限り、毎日ブログに書きこんでいる。このため、ネタをひねり出すのに苦労している。
 ならば、サボればいいのだが、書くリズムがぶち切れになることにためらいがある。また、1回休めば、2回も3回も同じとなる。

 今日はこれでブログ継続のつじつまを合わせたつもりだが、こんなでは休んだのと同じだと恥じ入る。

古臭い習わし

2015-10-30 11:10:22 | Weblog
 この地域にはいくつかの町に分かれている。
 この町ごとに自治会があるわけだが、一つひとつの町にはいくつかの地区で構成されている。さらに一地区ごとに班の単位があるのだ。
いわば、親の自治会にはいくつかの子地区といくつかの孫班があるということになる。

 町単位では自治会のイベントがあり、地区だけの祭礼もある。そして冠婚葬祭は昔から班単位で行うようだ。ただし、今は葬祭の互助が中心である。

 ところが、他の地区のある班では、ある家から娘が嫁ぐときは「別れ」といって、その家では当該班の女性に対し飲食のもてなしをする習わしとか。そんなものは廃れたと思ったのだが、先日、実際にその習わしがあったそうだ。
 前近代的な共同体の例である。

 班単位、地区単位、自治体単位で改革の要があって盛んに声を上げたが、がちがちの封建的体制で風穴を空けられなかった。
 それでこんな自治会はバカバカしいから退会した。親ガメがこけたから子ガメも孫ガメもこけたわけで、イベントからも祭礼からも葬祭からも解放されて清々している。

エッセーの変な文

2015-10-29 09:12:34 | Weblog
 ある物書きのエッセーに老人から聞いた話があった。
 その老人は「あれは大学4年生のときでしたかね。そば屋の親子丼を親に食べさせてもらって、思わずうまい!と叫んだんです。後略」と言う。
 続いて「老人の家はそのころ貧乏人の子だくさんだったそうだ。後略」と物書きは語る。
 老人はさらに「あの親子丼は、あのときは子供だったから言葉を知らなかったが、驚異だったですね。後略」と言う。

 カッコの部分が引用文である。この文には瑕疵がある。
 貧乏な家なのに大学生とはちょいと信じられない。ことにこの老人は大学進学率が低い時代の人のようだ。奨学金やらアルバイトやらの苦学生でしたか。
 後段のセリフで「あのときは子供だったから」とあるが大学4年生とある。大学生は子供かね。親子丼を知らない大学生というのも気になる。
 
 こんな不自然な文章は、物書きがうかつでも担当の編集者は気づいて指摘すると思いますがね。

英語教育

2015-10-28 09:07:49 | Weblog
「新・教育論」(文藝春秋11月号)に「英語教育は日本を植民地化する」なる小タイトルがある。

 このタイトルに意味がある。アフリカ、中南米、タイを除く東南アジアで英語、フランス語、スペイン語などが母国語化しているのは植民地だったからだ。「国語は国家なり」という言葉を思い出す。
 敢えて植民地化に迎合することもないのに、文科省は小学生の尻を叩いて英語教育を進めている。

 ものの本によると、米国外務省は「外交官のための外国語学習の難易度ランキング」で日本語とアラビア語が最も難解の位置付けにしている。ラテン語が通底にあるのでヨーロッパの言語はインターオペラビリティがあるはずだ。英語と日本語・アラビア語とには大きな言語距離があるのではないか。
 裏を返せば、日本人には英語習得はむずかしいことになりそうだ。

 そもそも仕事で英語を必要とする人は18%にすぎないとか。いささか古い統計なので今ではもっと高いかもしれないが、その仕事をターゲットにしたいと思う人たちが英語等の語学を頑張ればよいだけの話ではないか。

同窓会

2015-10-27 09:14:36 | Weblog
 高校の同窓会の案内がきた。11月の下旬の土曜日に開催する。
 2年ぶりの開催であるから久闊に叙すというほどでもないか。とはいえ、世話役がいないと同窓会は開かれない。幹事に感謝である。
 
 そんなわけで郷里に飛ぶ。前回は西国筋からはるばる来たということで、最初の挨拶の指名を受けた。今回もそうかもしれん。なにしろたった一人の九州住まいだ。
 
 今も現役で働く者は医者ぐらいだろう。ある時、そのひとりのA君に冗談で「今まで何人殺した」と言った。側にいた女史が聞きつけて「うちの義母もやっとAさんで逝きました」だって。姑で苦労したことがにじみ出ていた。
 
 古里は遠い。これが最後の同窓会出席になるだろう。