天保7年(1836年)9月4日の古文書に、石州(今の島根県)浜田藩の御用聞きの話として次の一節がある。
「…石州ノ溟ニ、竹島トイエル地アリ。朝鮮ニ近シ。其地ニ刀剣類ヲ持行、韓人ト八幡ス事覚、家老二名切腹。公儀ノ吟味甚巌ナリ。切腹ニテハ不済、必削地ナルベシト申事ナリ」
いい加減に意訳すると、石州の最果てに竹島という地があって、そこは朝鮮に近い。その地に刀剣等を携えて行き、韓人と事を起こした。家老二人が切腹したが、公儀の吟味は甚だ厳しい。切腹だけではすまない。必ず削地するべしと申している。ただし、「八幡」の意味がわからない。一体、韓国人とどういう状況にあったのだろうか。
それはそれとして、文言から竹島は石見の国の領有と思えるが、なおいくつか腑に落ちない。
先ず、なぜ、そこに韓人がいたのか。つまり、実効支配していたのか。それで、武器を携えて武力で彼らを追い出しに行ったのか。
次に、なぜ、二人の家老が切腹したのか。文は短絡しているが、責任を取ったからだろうが、どんな責任か。公儀はさらに厳しく咎めているところから韓人を殺害した詫びと朝鮮国への気配りだったのか。深読みすれば、竹島は朝鮮の領土でそれを占拠したからか。
さらに、公儀が削地するとしたのは、単に藩の領地の一部を召し上げるということか。それとも占拠した竹島を削れということか。
この古文書ではさっぱりわからん。ただ、この当時から「竹島」の日本名があったことは確かだ。
「…石州ノ溟ニ、竹島トイエル地アリ。朝鮮ニ近シ。其地ニ刀剣類ヲ持行、韓人ト八幡ス事覚、家老二名切腹。公儀ノ吟味甚巌ナリ。切腹ニテハ不済、必削地ナルベシト申事ナリ」
いい加減に意訳すると、石州の最果てに竹島という地があって、そこは朝鮮に近い。その地に刀剣等を携えて行き、韓人と事を起こした。家老二人が切腹したが、公儀の吟味は甚だ厳しい。切腹だけではすまない。必ず削地するべしと申している。ただし、「八幡」の意味がわからない。一体、韓国人とどういう状況にあったのだろうか。
それはそれとして、文言から竹島は石見の国の領有と思えるが、なおいくつか腑に落ちない。
先ず、なぜ、そこに韓人がいたのか。つまり、実効支配していたのか。それで、武器を携えて武力で彼らを追い出しに行ったのか。
次に、なぜ、二人の家老が切腹したのか。文は短絡しているが、責任を取ったからだろうが、どんな責任か。公儀はさらに厳しく咎めているところから韓人を殺害した詫びと朝鮮国への気配りだったのか。深読みすれば、竹島は朝鮮の領土でそれを占拠したからか。
さらに、公儀が削地するとしたのは、単に藩の領地の一部を召し上げるということか。それとも占拠した竹島を削れということか。
この古文書ではさっぱりわからん。ただ、この当時から「竹島」の日本名があったことは確かだ。