本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

近代小説の熟字のふりがな

2004-11-28 17:49:55 | Weblog
 九州から夜通し車を駆けて戻った。轟々と疾走する輸送トラックに囲まれて、余計に草臥れました。この夥しい物流の塊はロジスティクスとは無縁に深夜を爆走している感じですわ。
 話を戻すと、高速道路のIC、SA、PAの名称、つまり地名が常識的に読めないものがある。富海(とのみ)、下松(くだまつ)なんぞがそうですな。この地名表示版の漢字の下に英字標記があるから読み方を知るわけで、英文字が振り仮名の役目をしているようなものですわ。英文字から日本語読みを知るなんて妙な気がしますな。
 
 ついでに、似て非なる話に移すと、和語を漢字に当てたものがありますよね。抽斗、吃驚、流石、所謂、木偶等々今でも結構通用している。これは、こう読むものと決め付けたもので典拠はなさそうに思う。実際は知りませんけど。ただ、悪戯(いたずら)は漢語の意味合いがありそう。
ところで、言文一致に腐心した明治の小説には、「悪戯」と同様、漢語の意味に適った和語の当て読みがたくさんありますな。
 
 試みに、二葉亭四迷の『浮雲』から拾うと、華美(はで)、野暮(じみ)、莞爾(にっこり)、恍惚(うっとり)、放心(なげやり)、齟齬(くいちがい)、悄然(しょんぼり)、無言(だんまり)、虚言(そらごと)、余熱(ほとぼり)、挙動(そぶり)、所在(ありか)、邂逅(たまさか)、面相(かおつき)なんぞとありますが、これでもほんの一部です。
 他に送り仮名をひょいと付けて、凝視め(みつめ)、待遇す(もてなす)、徘徊いて(まごついて)、故意と(わざと)、感染て(かぶれて)、沈着て(おちついて)、怠る(ずるける)、周旋て(とりもって)、卓絶て(すぐれて)、冷笑い(あざわらい)などがある。これぞ華美に恍惚として感染てしまいそうな文章ですわ。
 
 高島敏男氏の和語はひらがなで書けという説に原則賛成ですが、漢字に添ってその漢字の意味がわかるというのも捨てがたい。
 国語力の増強のためにも、若い人たちに近代小説を読んでほしいと思いますわ。







 

横書き結構、でも縦書きも

2004-11-27 10:14:46 | Weblog
 「冬の時代」の出版界にあって、ペーパーバックスは売り上げ好調という。
 売れ筋にはニーズに合ったコンテンツは重要だけど、それはさておきこのペーパーバックスの特徴である横組みも影響しているらしい。なるほど、新聞・雑誌と一般書籍を除けば、教科書、Eメール、ビジネス文書(社交上の格式を重んずる文書を除いて。) 等すべて横書きですな。その読み習慣になじんでいるわけだ。
 眼だって横に並んでいるから横読みが合理的でしょうね。縦書きの一行の文字数20字までがせいぜい眼の上下の範囲ですな。新聞・雑誌は、原則そのように腐心している。
  
 戦後まもなく読売新聞は横組み主張の立場をとって題字を横書きにした。今の横書きはその名残ですな。購読拡張に躍起になるなら横書きにすればよいでしょうに。もっとも、小生は読売を購読する気はありませんけど。
 いずれにしても、活字離れに歯止めがかかるなら横組みという手段を講ずればよい。

 一方、森鴎外や幸田露伴の小説が横書きではぞっとします。『五重塔』なんぞハナから横倒しの感がしますよ。
 それに、横書きでは使えないくり返し符号がありますよね。「たゝみ」の「ゝ」や「かゞみ」の「ゞ」(ひとつ点)、あるいは「いろいろ」や「さまざま」の後の2字を略す「く」や「ぐ」(くの字点)は、縦書きにだけ使える符合ですな。これらは近代小説にやたら出てくる。とても横書きに向きませんわ。

母なるアッパ

2004-11-18 18:38:11 | Weblog
 『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』という本を読んだ。総じて賛同しがたいが、説得力のある語源もある。その中に、盛岡では乳母を「アッパ」というとある。よく耳にしたような言葉だが、盛岡人はすべて「乳母日傘で育った」わけではあるまい。
 実は、この「アッパ」はお母さんの意で用いていたと思う。そもそも「アッパ」を遡及すれば、古代朝鮮語の母の意味「アマ」に辿りつくらしい。
「このアマ!」は今でも残るが、こんな下品な言い様とは違う。「アマ」は「アンマ」に変化し、さらに現代韓国語では「オンマ」(お母さん)となっているし、日本では「オモウ」となる。つまり、皇室に残っている「おもうさま」ですな。


要話休題

2004-11-18 18:28:47 | Weblog
 知人がコンサルタントの実践経験を踏まえた書き物を上梓することになり、ついては表現をチェックしてほしいという。いやいやながらも、つい応諾してしまった。
 平易な文ながら達意の文でもあった。しかし、筆が滑ったところやひとりよがりの文(早い話、読み手からみると書き手だけが恍惚となっている。)も見受けられた。小生自身も自戒すべきことですけど。
 ところで、この書き物の中に余談を挿入しており、その書き出しを「暫時休題」、書き終わりを「閑話休題」としていた。「あとがき」に、書き出し語の適当な言葉が見つからないため、暫時休題としたとある。
 でも、例はある。里見の『青春回顧』に「要話休題」とあり、「かんじんなことさておき」とルビを振っていましたわ。
 ついでを言えば、里見は有島武郎、生馬の実弟だが、本名は母方の姓を継いで山内英夫。この母幸子の実家は南部藩士なんですな。
 有名な有島三兄弟ですから、盛岡には母方について何か痕跡がありそうなものですけど。ご存知おりませんかね。
 小生、盛岡生まれだが、寡聞にして聞かない。

さらば新渡戸さん

2004-11-09 23:42:15 | Weblog
 五千円札の肖像が新渡戸稲造から樋口一葉に変わった。その著書『武士道』をもじれば、ラストサムライとなった。
 この『武士道』を紐解けば、新渡戸さんの博覧強記に瞠目しますな。古今東西(もっとも、1899年の刊行ですから「今」といっても19世紀末が現代ですけど。)に亘り、多くの著名人、書物、作中人物がいとも簡単に弾き出されていますもの。
 一例を挙げると、シェイクスピアの作だけでもノーフォーク伯、ケント公、デズデモーナ、ロメオ、ポロニウス等々があちこちにちりばめられている。凄いですねぇ。
 小生、本好きだがシェイクスピアとは無縁でしたわ。せいぜい映画や少年読み物(これ、ヴェニスの商人)で擦過傷ていどに触れただけ。
 しかし、幸い地域の読書サークルで沙翁の全36編の戯曲をやり始めた。月1回の読書会だから3年を要する勘定ですな。どうやら今生の始末にふさわしい読書歴になりそうだ。
 そうそう、うろ覚えですが「不滅の性格を持つ主人公は二人だけ、ハムレットとドンキホーテである」とかなんとか言ったのは司馬遼太郎でしたか。なるほど「ハムレット型」、「ドンキホーテ型」と言いますな。「彼、今ハムレットだ」、「あいつはドンキホーテみたいな奴だ」で通じますもんね。

 樋口一葉は国木田独歩とともに短編の名手といわれましたね。とは言え、「近松ドーター」とも呼ばれ、その上西鶴ばりの文体ですから、歌舞伎蒙で文語調に弱いこちとらには骨の折れる文学作品ですわ。尾崎紅葉は「豆腐と言文一致は大嫌い」と語ったそうだけど、その紅葉も晩年の作品は言文一致でした。
 もし、一葉も夭折しなければ「たけくらべ」も「にごりえ」もわかりやすく書き換えてくれていたかも。