散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

永井陽之助“感染する思考”(3)~「冷戦の起源」解説・中山俊宏

2014年09月16日 | 永井陽之助
今回は『「永井の思考」の危険性』について考える。
中山の永井評価には反語的な側面があることを、昨日の記事で述べた。「危険」という評価についても同じだ。
 『永井陽之助“感染する思考”(2)140915』

先ず、危険という言葉そのものに、反語的意味合いが潜んでいる。どこか、人を惹きつける魅力を含む、もの、ひとに対して使われるからだ。そこで逆に、「危険」という言葉は、そのときに関連して使われる用語、文章によって、その意味合いを判断されることになる。

では、中山の用法は?以下の様に、魅力ある危険について語っている。
「永井の思考の危険性は、読むものの思考の中に独特の用語群を介して、いとも簡単に浸入…」「永井のきらびやかな用語群の危険性を察知」等。更に、「米国に関するアフォリズム的な洞察…不用意に拾い上げると危険」との言葉から、「永井政治学の本質」と考える部分に中山は分け入る。

先ず、「言語の機能」を次の二つに分ける。
1)認識機能…学問ではできるだけこちらを思考
2)感情喚起機能…言葉通り

「マルクス主義は両者が渾然一体になり、科学を装い感情を喚起することを永井は指摘」しかし、「永井自身の「象徴的な用語法」は、まさに言語の認識機能と感情喚起機能が渾然一体となっている典型的例だ」。

但し、「永井はマルクス主義のように道義的方向づけを自分の分析に加えることは決してしない。米国の(表層的な)行動(の背後)に潜む「(原風景的な)イデオロギー」を顕在化させる手段としてそれらの機能を使っている」。

以上、抜き書きした処が「永井政治学の本質」と中山が考える部分だ。
即ち、永井が時として「学界の基準」から外れて、きらびやかな用語群を過剰に用い、感情喚起機能を有する文章に仕立てあげる、と中山は指摘しているのだ。但し、ここでは、それが危険なのは「学界の基準」より、感情喚起によって、永井の思考が、読むものの思考の中に浸入する処を重視しているようだ。

中山は本書の中から例を二つ引いて、
「…読者の思考を一気に引きつける危険な匂いを発している。…客観的な検証を退ける密教的な世界が広がっており、…そこにはカオスをカオスで制御しようとする永井の知性が脈打っているだけだ」と指摘する。

それがまた、中山自身にとって、
「感情を喚起され、自分の認識の枠組が揺さぶられ…深層心理の次元で作用し…」と感染の実態を吐露する。そこで、「その修辞に適切な距離を保つことができなければ、危険な効果を及ぼす書物」との評価になる。

しかし、昨日の記事でも触れたように、これは「いかなる意味でも永井政治学批判ではなく…永井は最大級の賛辞として受け取るだろう」との認識でその分析の幕を閉じるのだ。

ここでは、短い文章の中で、議論を始めたら延々と続くであろう「言語の機能」を正面から取り上げ、永井の文に当てはめた形で論を進めている。従って、例えば、例文の二つを読んでも、それが中山の永井批評と具体的にどの部分が、どの様にミートするのか、にわかには理解できない。

「カオスをカオスで制御しようとする永井の知性」との魅力的な評価もまた、何を意味するのか不明な表現となって、読むものの思考の中に、象徴性を欠いた言葉だけとして、中途半端に残るだけかも知れない。

しかし、中山の永井論は筆者自身にとっては、極めて刺激に富むものであった。何となく永井政治学に持っていた「認識の枠組」を揺さぶられたことも確かだ。

例えば、最初のメモに書いたように、
「疫学的知性学の発想の起点としての1962年の米国での違和感」
「平和の代償から続く、米国イデオロギーの認識の深化」
 『永井陽之助“感染する思考”、メモ140912』

また、今回の記事に書かれた中山の言語と政治との関係に対して、
「永井の認識を誤解している部分があるのでは、との疑問」
「永井政治学の本質に関する中山の認識との大きな違い」などである。

これらは、筆者自身の課題として残されており、今後、考えていく。

      

永井陽之助“感染する思考”(2)~「冷戦の起源」解説・中山俊宏

2014年09月15日 | 永井陽之助
国際政治学者としての中山は、永井から影響を受けていることを、解説『感染する思考』に書かれている。中山が、永井論として捻りを入れていながら、しかし、率直に自らと永井との距離を見せている処が面白い。
 『永井陽之助“感染する思考”(1)140913』

この解説の最初に、中山は研究者への道を進み、しかし、永井に距離を置かざるを得ないことを語る。
「永井の思考に魅せられて研究者の道を志し、永井の下で学んだ」、しかし、
「永井のきらびやかな用語群の危険性を察知し、キャリアを地道に積むため、研究のスタイルは永井と距離をおいた」、しかし、
「知らず知らずのうちに、永井の表現を内面化していた」。

筆者は「きらびやかな用語群」よりも、むしろ「私は政治意識や人間行動の研究から出発…アメリカ社会の急速な変化に…深い反省を強いられた…その自省をこめて書いたのが『ジョンソン外交と情報の壁』であった」(「多極世界の構造」P16)という、鋭い感受性から醸し出される自己認識の深化の表現を好む。
 『永井陽之助―自己認識の学としての政治学 序にかえ20110502』

解説には、「危険」と言う言葉が七回も出てくる。副題が「『冷戦の起源』の危なさについて」であるから、キーワードであることは確かだ。主題と繋げれば「感染の危険がある思考」になる。この“危険”については、次回に考えよう。

中山は上述の“内面化”に関して「いかなる意味でも、永井の思考を継承したことを意味しない」と述べる。これは当然だろう。危険を察知し、距離を置いた以上、如何に内面化された部分があっても、意識の上では避けているからだ。

では、中山は永井の思考の特徴をどの様に捉えているのか。
それは「カオスをカオスとして制御する、混沌とした知の巨人」である。混沌とした知の巨人とは、南方熊楠を筆者は直感的に想い浮かべる。また、「カオスをカオスとして制御」も判り難い。制御とは、科学用語であって、何らかの秩序を構成せずにはできない。従って、その意味は狭い範囲にしか通じない表現に思える。

「「平和の代償」の解説において、永井政治学の本質を「成熟や慎慮に根ざした均整の感覚」と政治学者・櫻田淳が評したことに、中山は異論なしと云う。

しかし、次の瞬間、「永井の思考の本質は「自由奔放」で危険なほど「ラディカル」だった。その思考のスタイルには、「成熟」や「慎慮」とは対極の、絶えず読者を挑発し、誘惑し、困惑させるような「暴力性」があった。従来の言葉の意味をずらし、定説を嘲笑し、思考の深淵に立つとニヤッと笑ってあえてそこに飛び込んでいくような危険な無邪気さが、永井の思考を特徴づけていた」とも評する。

立派な異論という以外にない!
中山から見れば、他人事のように、「均整の感覚」とは云えないのだ。それは判る。しかし、中山の表現も判り易いとは言えない。「思考の深淵に立つ…ニヤッと笑って…飛び込んでいく…危険な無邪気さ…」これが永井の思考の特徴と云われても、正直、素人にはお手上げだ。櫻田のような学者には判るのだろうが。

筆者の感覚では、その表現は永井の表現とは「非なるもの」と感じる。永井の文章は用語の象徴性、論理の飛躍を含むが、文章そのものは判り易い。中山の文章は象徴性ではなく、修飾と形容の用語が多く、大仰な文になり、判り難いのだ。

中山は永井からの影響として、
「独特の用語群や思考のスタイルが、気がつかないまま自分の思考の中にあたかもウィルスのように浸入」「言葉の感染力の強さ…永井の表現を知らず知らずに内面化」「距離をおいたが感染」していたと云う。従って、「自らの思考の重要な一部を構成」することになる。

即ち、自らの意識として欲しない思考・表現を永井と交流することによって、自らの思考の重要な一部にしてしまったのだ。しかし、これは反語的な表現を含むようにも筆者は感じる。

それは、中山が「永井政治学の本質」と考える部分を分析し、本書(冷戦の起源)が「極めて危険な効果を及ぼす書物」と云いながらも、「これはいかなる意味においても、永井政治学に対する批判ではない」とし、更に「永井は最大級の賛辞として受け取ってくれるだろう」と自信を示しているからだ。

ここまで読んでみると、中山は永井の思考と“和解”したように思える。それが反語的表現と筆者が感じた所以だろう。

      

永井陽之助“感染する思考”(1)~「冷戦の起源」解説・中山俊宏

2014年09月13日 | 永井陽之助
中山による「解説と永井論」を含んだ『感染する思考―「冷戦の起源」の危うさについて』、昨日のメモをもとに、更に項目毎に分けてまとめてみる。先ず、本書「冷戦の起源」の構成及び意義に関する部分について述べる。。
 『永井陽之助“感染する思考”、メモ140912』

「当時の書評で評者たちは困惑している様子」と中山は述べる。「比喩的ないし象徴的な用語法は魅力的、と共に難解…『密教』の伝道者…」との有賀貞の指摘を、批評とも礼賛ともつかないとしながら、その代表として選ぶ。

何故、困惑したのか。
それは本書が「冷戦の起源を克明に再構成することを目的としたのではなく」、従って、「日本のおける初の本格的な冷戦研究の書物ではない」からだ。

そうであれば、日本での本格的な冷戦研究の成果はあるのだろうか、と一読者は考える。
数年前に読んだ「アジア冷戦史」(下斗米伸夫2004年(中公新書)が旧ソ連側の資料を中心に、東アジアの歴史を描いており、資料に基づいた基本的な知識を得る点において、参考になった。

また、今回の川崎図書館での検索によれば、「冷戦」363件、「冷戦 起源」7件、「冷戦史」7件、のヒットがあった。その中に、「日本冷戦史」(下斗米伸夫2011年(岩波書店)を見つけた。直ぐにでも読んでみたい。他に、イェール大学・ジョン・L.ギャディス「ロング・ピース-冷戦史の証言「核・緊張・平和」」(芦書房)も必読かも知れない。

永井の関心に話を移そう。それは、
「第二次大戦後、冷戦に直面した米国の行動のイデオロギー的起源を明らかにすること」、即ち、「「ジョージ・ケナンの有名な8000字に及ぶモスクワ発公電」に内在する「疫学的地政学」の論理を暴き、「冷戦思想の疫学的起源」の輪郭を浮かび挙がらせること」だと中山は述べる。

本書を再読して、「「ケナンが「8000字のモスクワ発公電」においてロシアに関して行った分析を、永井はアメリカに関して行った」「米国イデオロギーを浮かび上がらせるアメリカ論でもある」とも云う。

中山の指摘はその通りである。しかし、このことを「22行」に渡って、やや冗長に書くのであれば、筆者としては、永井自身が“史実の中の発見”と考えたであろう公電発信日1946/2/22のタイミングに関しても触れて欲しかった。

歴史の皮肉と呼び、単なる偶然の月日が、歴史を転回させる月日になったとの永井の認識を批評することが、評者に先ず求められる様に筆者は考える。先の評者の困惑、自身が感じた違和感、に対する処理が何か軽い様に感じる。

何故なら、「この公電がワシントン当局に受理され、「センセーショナルとしか言いようのない」反響を合衆国政府内部にもたらした」(「冷戦の起源」P5)、そして「ソ連の対外行動に対するケナンの密教的解釈は、当時、ワシントン当局内に形成されていた、外界の情報を処理する基本的枠組に対して、明確な方向づけと理論的な根拠づけを与えた」からだ。

そこで、この電文の構造を検討することは、「冷戦とは何か」、「冷戦の開始時期はいつか」に対して明確な回答を与える」と永井は考えたのだ。

但し、ケナンの発信のタイミングがずれていれば、歴史が変わったかもしれない、と言っているわけではない。あくまでも、歴史としての冷戦を考える上で、その空前の反響を歴史的事実として分析するという態度なのだ。

中山は、「米国は今、アジア太平洋地域に「回帰」しようとしている」「本書が今、再刊される意味…「冷戦研究」ではなく、…「余剰部分」である本書の本質的な問いかけの上に、更に我々自身の思考の積み上げを可能にするからだ」と指摘する。

そうであるなら、ケナンの電報に関してだけにしても、情報の内容、意味、背景と共に発信・受信のタイミング、その情報の容認基準等に関する一つの例題を与えているとも考えられる。    



永井陽之助“感染する思考”、メモ~「冷戦の起源」解説・中山俊宏

2014年09月12日 | 永井陽之助
“感染する思考”との表題は極めてユニークだ。
思考が病原菌のように感染するという「冷戦の起源」の主題を逆手にとり、その本の「冒頭の解説」に当てた処に、国際政治学者・中山俊宏の苦心が表れている。

永井の弟子筋による作品の紹介・評価に関して、当然ながら世間が興味津々に見ていることを、中山も意識しながら筆をとったのだろう。しかし、短い解説の中に、自ら受けた影響も含めた永井論も押し込めると、その文章のテンポはリズムに乗れず、蛇行する川のように、右往左往して読書の薦めに落ち着く。

「冷戦の起源―戦後東アジアの国際環境」(永井陽之助1978年(中央公論))は、このたび復刻(2013年)された。本体は持っているが、復刻版に書かれた中山の論考を読みたくて、ここは、図書館で借りて読んでみた。
解説の『感染する思考ー「冷戦の起源」の危うさについて』に、少し雑駁にメモを書いておこう。

先ず、永井の影響を受けていることを云う。
「…独特の用語群や思考のスタイルが、気がつかないまま自分の思考の中にあたかもウィルスのように、浸入していたことだ」。しかし、研究のスタイルは、距離をおいた。それは研究者としてのキャリアを地道に積むためだ。

とはいえ、無意識のうちに永井の影響を受け、その表現を内面化していた、即ち、感染していたことを認める。だが、それは永井の思考を継承したわけではないと、直ちに断っている。

この屈折した表現を正当化するためでもないだろうが、本書の刊行時の書評を共連れにし、評者たちが困惑している様子を描く。此処まできて、漸く、永井の思考をまともに評価する。それは櫻田淳による「平和の代償」が描く永井の思考の一面性に反論を加えることで表現される。

永井政治学の本質を櫻田が「成熟や慎慮に根ざした均整の感覚」と評価することに対して、中山は、異論はないと云いながら、
「永井の思考の本質は「自由奔放」で危険なほど「ラディカル」だった。その思考のスタイルには、「成熟」や「慎慮」とは対極の、絶えず読者を挑発し、誘惑し、困惑させるような「暴力性」があった。従来の言葉の意味をずらし、定説を嘲笑し、思考の深淵に立つとニヤッと笑ってあえてそこに飛び込んでいくような危険な無邪気さが、永井の思考を特徴づけていた。」と述べる。

立派な異論という以外にない!中山から見れば、他人事のように、「均整の感覚」とは云えないのだ。それは良く判る。

筆者の感覚では、その表現は永井の表現に「似て非なるもの」と感じる。永井の文章は用語の象徴性、論理の飛躍を含むが、文そのものは判り易い。中山の表現は、象徴性というよりも、形容、修飾が多くなっている。「カオスをカオスで制御する」という表現も、永井の知性を表す言葉として、二度出てくるが、何を言わんとしているのか、伝わってこない。

さて、本書の構成について、中山は次のように云う。
「本書は「ジョージ・ケナンの有名な8000字に及ぶモスクワ発公電」に内在していた「疫学的地政学」の論理を暴き、「冷戦思想の疫学的起源」の輪郭を浮かび挙がらせることに全力を注いでいる。」

「今回再読して「ケナンが「8000字のモスクワ発公電」においてロシアに関して行った分析を、永井はアメリカに関して行った」ことに気が付いた。即ち、米国イデオロギーを浮かび上がらせるアメリカ論でもある」。

上記のことは、本書の「はじめに」において永井が書いたことだ。また、そのなかで、永井の発想と思考に関する重要な記述がある。
「1962年に私が初めて渡米したとき、奇異に感じてならなかったのは…全国的に広がりを見せるフルオリデーション反対の狂気じみた激しさであった」。

「米国の思想と行動」に焦点を合わすと書いてあるように、歴史は個々の事実の積み重ねだけではなく、それを捉える意味づけの重要性を永井は説いている(例えば、「二十世紀の遺産」P369)。政治学者としては当然の発想だ。

更に米国の外交・軍事に関する言及は「平和の代償」においてもメインテーマの一つであった。「米国の戦争観と朝鮮戦争」に始まり、それがまた、憲法第九条の問題から始まるのだ。

以上の様に、「冷戦の起源」の発想と内容は、永井から見れば当然のものであって、それ自体に困惑することもない。中山には触れてもらいたかったことだ。

      

自治体行政への議会の貢献度~議会改革から抜け落ちる部分

2014年09月11日 | 地方自治
「議会における議事内容を知れば、自治体行政の全体像を理解できる」というのが筆者の発想の起点であった。そこで、議会改革を目指す、川崎市議会を語る会(世話人:筆者)の中で、『市民による川崎市議会白書』を企画し、2010年、2011年と続けて編集・発行してきた。今回は4年まとめてだ。
 『「市民による川崎市議会白書2011-2014」基本構想140325』

議会改革の考え方からは、討論の場であり、予算・決算、条例に関する意思決定の場である議会が、単なる質問の場であり、「議場」とすれば立派だが、機能としての「議会」の姿にはなっていないのだ。議会として最重要の仕事である議事は低調を極めるのだ。

一方、情報提供の場としては、行政側の答弁が市政の現状を説明しているという意味で、少なくても質疑の時間の50%は意味があるとも云える。その行政側の情報を引き出す役割をするのが、議員の仕事と云うわけだ。

さて、この場合、選挙の洗礼を受けて、市民の中で活動している議員によって構成される議会の、市政に対する貢献度をどの様に評価すれば良いの?行政に対する質問は、どの程度の意味があるのだろうか。測りかねるものがある。

これに対して、先ず意思決定機関としての機能を果たすために、新たな条例の制定あるいは既存の条例を含めた改定がある。例えば、地方の特産品に関する条例だ。しかし、これはニッチな政策の領域になる。また、新たな社会問題に対応する条例もある。最近の例で云えば、子ども虐待防止条例、自殺防止条例などだ。これは理念条例になり、具体策は行政が対応することになる。

この様に、意思決定機関としての機能を果たすにしても、それはニッチな領域を探すことが主眼になるのではなく、広く市政を知りつつ、その課題を見出し、政策として追求し、練り上げていく能力を身につけなければならない。

従って、個々の議員が、一方で、日頃の議員活動として市民の市政に対する要求等を把握しながら、もう一方で、行政のチェックを厳しく行い、個々の政策の全体像を描き、具体的な問題点を政策に落とし込む必要がある。

しかし、現状は、議会での会派であれ、議員であれ、その質問は大体において、筆者らが云う「状況把握」質問に終始することが大部分である。そうすると、先にも書いた様に、質問そのものには意味が無く、行政側の答弁だけが結果として残ることになる。

また、かつて、片山前総務相(当時は前鳥取県知事)が、地方議会は八百長、学芸会をしていると述べた様に、川崎市議会での例では、質疑応答は事前の質問者と答弁部局との摺り合わせによって、シナリオが出来上がり、特に答弁側の局長は原稿の棒読みになる。すなわち、単なる結果報告で何が質問から得られた新たな政策なのか、不明なのだ。

そこで、議会は先ず、本会議及び委員会審議での議事を政策毎にまとめることが必要だ。次に、個々の政策に対する議会の貢献度を自ら評価するべきだ。議会改革が進展した地方議会は多くあるが、その結果、その自治体の政策に議会がどの程度に関与したのか、明らかにする必要がある。

例えば、会津若松市議会は「議会からの政策形成」(ぎょうせい(2010年))を謳っているが、それは一つのニッチ条例を作るプロセスに過ぎない。市全体の政策の中で、それらの政策形成のアプローチが、どこまで市政の政策に浸透しているのか、さっぱりわからない。

議会改革が市政の何に影響を及ぼしているのか、これまで報告例がないように見えるし、問題意識としても浮かび上がってこない。議会基本条例が各地の議会で成立し、その数が増えても、結局、何も変わらなかったとの評価を受けない様に、議会による「議会白書」を刊行する議会が増えることを望みたい。

      


仕事のやり方に変革を~グローバル化への対応、冷泉彰彦氏の提案

2014年09月09日 | 経済
日米の文化の違いに強い関心を持ち、日頃、健筆を振るっている冷泉彰彦氏の指摘を紹介しよう。グローバル化と云えば、日本においては主として経済問題になるが、氏の議論はビジネス文化、更には日本文化の基盤に係わる問題を簡潔に箇条書きした処にユニークさがある。

日本経済の競争力回復のために、労働時間は如何にあるべきか、「ホワイトカラー・エグゼンプション」が議論され、一定のレベルでは残業代をゼロにする案がこの5月に議論されていた。

これに対して労働界を中心に、ブラック企業・過労死の増加との批判があったが、氏は「仕事のやり方」の中に蓄積されてきている“日本的習慣”を厳しく批判し、その改革なしには日本経済の衰退を加速すると主張した。

どうして日本の多くの産業で国際競争力が落ちたのか?労働時間が長いのは何故か?との問いに、氏は「家族より仕事が大切」、「企業が共同体として精神的な帰属の対象」との印象論ではなく、具体論に切込んで答える。

以下、8点の具体的指摘を要約し、重要と考える順に列挙し、コメントする。

(1)「合議制が極端に多い」…少数で迅速な意思決定組織ではない
責任分散の「ヨコ合議」、と最先端の知識・情報がある現場との「タテ合議」、開発・生産・販売の「機能同士合議」、外注先の系列化による「社外合議」が必要で、会議、資料作成等に膨大な労力も必要となる。
(2)「日本式と国際標準」―独自ルール
英語が仕事の公用語ではなく、会計制度、契約概念、許認可、諸規制、上場基準、情報開示等に対して国際的企業は「日本向け」の対応で手間をとる。

グローバル化を目指す企業として最重要な課題で多くの人が指摘。

(3)「対面型コミュニケーション」―「本社出張」、「得意先回り」
「合議の際の重要な局面」、「下から上への報告」、「問題発生処理」は対面型が原則、“B to B”のビジネスも対面型の販売が原則で、時間と労力がかかる。
(4)「見える化」―「目で見て」理解する習慣が強い
聞いて納得せず、言葉で人・組織を納得させることもしない。社内外向けに膨大な書類、凝ったパワポ資料等、作成・修正に膨大な時間がかかる。

合意の形式化によって、実質的な意思決定の場を担保する奇妙な習慣。

(5)「決定儀式と非公式な討議の二重構造」
公式会議は儀式化、本質的問題の検討、意思決定は非公式な討議で決定、公的な会議での配布資料には膨大な時間と手間が掛かり、非効率になる。
(6)「不透明性」―「例外対応」、「オモテ/ウラの使分け」
法律、会計基準、税制、労働法制等のルールに抵触スレスレで仕事をする風土が残り、標準化できず、長時間労働の要因になる。

儀式化が昂じると意思決定が不透明化し、ウラが生成される。

(7)「儀式的なイベント」…合議ではない、儀式的なイベントが多い
創立記念行事、経営方針発表会議等の場に「実務クラス」も巻込み、労働効率を悪化させる。忘年会、歓送迎会等「上が下を慰労」、インセンティブではなく、上下関係で「関係性確認」、参加者のストレスは解消しない。
(8)「電子と紙」―電子署名が普及せず、電子化後にも残る「紙」
署名捺印した原本の紙を残す、印刷・署名・スキャン等で効率化が遅れる。コンプライアンスの普及も「書類中心の形式的な管理」を強化する方向になる。

形式化が昂じるとトップが硬直化し、実質がなおざりにされる。

以上を総括して氏は、日本の経済界は、「非効率な仕事のやり方」を変えずに、グローバル化に対応し、一方、要員は削減してきた。OA化も二度手間が多く、本当の業務効率は向上していない。多くの職場で長時間労働が恒常化しているのはこのためであり、今こそ、仕事のやり方を見直す時期だ、と主張する。

以上の指摘は日本の多くの企業、特に大企業にあて嵌まる。
筆者も身につまされる思いで読み通した。これは単に時間がとられるだけでなく、集中して、長時間連続で仕事に取組む時間を細切れにする。特に高度の専門性を要する仕事をする人たちの能力の発揮を妨げる。

日本は高度技術を身につけ、更に新分野を開発する人材を育成することが不可欠だ。冷泉氏の提案を組み込んでいくのは、ビジネス環境にとって、最低限のことだ。先ずは、企業トップが目を覚ます必要がある。

      

この一年間の格差拡大を推定する~経済統計を読む(7)

2014年09月08日 | 経済
厚労省の勤労統計調査は4,700万人の勤労者をカバーしている。GDP云々とは言っても、生活者にとっての生活実感は、先ず、実入りと買い物とのバランスであるから、給与と物価の関係が指標になる。

給与のデータとして、47百万人の一人平均が、例えば7月速報として369,846円として報告されている。ボーナスが6,7月にかけて出されるから、平均的に総額は高くなる。しかし、大企業の経営者は、固定給よりも変動給を上げようとしたから、それを含めて検証がどの程度できるか、振り返ってみよう。

先ず、昨日も紹介した「月間現金給与額(前年同月比)」7月速報のデータだ。これは第1表として掲載されている。
*事業所規模    5人以上      30人以上
 ・全調査産業合計 370千円(2.6%増) 423千円(4.1%増)
 『物価上昇>賃金増、企業間格差も拡大140906』

ここで、事業所A(30人以上)と事業者B(30人未満)の勤労者数がわかれば、その間の賃金格差を出せる。これが第3表にある。
*事業所規模    5人以上      30人以上
 ・全調査産業合計 47百万人(1.6%増) 27百万人(0.3%増)

事業者B(30人未満)の勤労者数は20百万人で全体の42%を占める。中小企業が300人以下、零細企業が10人以下を一つの目安とするから、零細企業に近い処で多くの勤労者がいる。

簡単な計算から、事業所Bの月額給与は297千円で事業所Aの70%だ。
次に1年前の7月について比較すると、上記の値は72%で格差拡大だ。
2013/7 事A 407千円(27百万人) 事B 292千円(19百万人)
2014/7 事A 423千円(27百万人) 事B 297千円(20百万人)

上記の傾向は大企業対中小・零細企業だけでなく、正規労働者対非正規労働者、フルタイマー対パートタイマー、製造業対医療・福祉業など非対称的な勤労者構造においてパラレルに進行しているのだ。

しかし、昨日の記事でも述べたが、実質賃金の前年同月比は「1.4%減」であり、春闘の際に、政府の肝煎りで賃金を引き上げた大企業は、日経あたりが、鳴り物入りで報じたが実際の人数規模では、産業界全体に影響を及ぼすまでにはとても至らない。従って、じりじりと生活水準を切り下げていく人たちも多いだろう。

円安によって輸出拡大に期待した安倍政権は、思惑が外れ、貿易赤字が嵩んで対応ができなくなっている。公共・建設投資によって辛うじて経済を維持する以外に知恵がないようだ。

そして更に、地方創生という統一地方選挙対策に、アベノミクスに続いて幻想(期待感)をまき散らす政策が俎上に挙がっている。しかし、先の民主党の様に、期待感をばらまいてそれが刈り取ることの出来ないネタになってしまうと、反動によって負のエネルギーが引き出されるかも知れない。

     

物価上昇>賃金増、企業間格差も拡大~経済統計を読む(6)

2014年09月07日 | 経済
経済指標の7月(速報)が全体としてまとまった。消費増税後のGDP成長率落込み記事において、池田信夫氏を引用して述べた様に、4月以降の低下は消費増税以外の要因であることが、今回で更に明らかになった。
 『アベノミクス、インフレ・円安政策の破綻140807』

それは6-7月の統計データから以下のことが云えるからだ。
1)賃金増加は主として特別給与(ボーナス)に起因し、
2)更に“物価上昇>賃金増”が明瞭になり、格差も広がり、
3)加えて、低所得者層中心に、家計の実質消費も減少傾向である。

即ち、第1四半期のGDPデータにおいて、以下の様相を今後の予測に結びとけるには、各指標の7月速報を待つ必要があったからだ。
1)実質値で前期比1.7%減(年率換算6.8%減)、
2)マイナスは2四半期ぶりであり、
3)1-3月期(年率換算6.1%増)から急減した。
 『悪性インフラ、真綿で首を絞める140813』

「月間現金給与額(前年同月比)」7月速報(2014/9/2)
*事業所規模    5人以上      30人以上
 ・全調査産業合計 370千円(2.6%増) 423千円(4.1%増)
 ・製造業     523千円(5.0%増) 586千円(6.0%増)
 ・卸売・小売業  354千円(5.4%増) 402千円(7.4%増)
 ・医療・福祉   320千円(2.5%増) 359千円(3.0%増)
*一般労働者    481千円(2.7%増)
*パート労働者   101千円(0.7%増)

賃金は以下の4点がポイントになる。
(1)現金給与総額(370千円)の前年同月比、2.6%増(1,748円)
(2)上記内訳、月額給与(262千円)の前年同月比、0.9%増(2,360円)
(3)同上、ボーナス給与(108千円)の前年同月比、7.1%増(7,560円)
(4)実質賃金(物価変動対応総額)の前年同月比、1.4%減

6月に引き続きボーナス給与は増加したが、月給は微増に止まる。また、消費者物価指数を組み込んだ実質賃金は依然としてマイナスだ。

特に上記のデータに、労働者数(47百万人「事業規模5人以上」、27百万人「事業規模30人以上」)を考慮し、「事業規模5人以上30人未満」(20百万人)の現金支給総額を概算として算出すると、
 「290千円(0.1%減)」(比較「30人以上」423千円(4.1%増)
であり、元々の格差に加えて、給与額も増加せず、物価上昇の悪性インフラのため、実質賃金は大きく目減りし、格差もこの1年間で拡大した。

なお、この傾向は、
 パート労働者(14百万人)にとっても同様であり、
 「事業規模30人未満」パート労働者(7百万人)は更に厳しいと推定する。

一方で、雇用者数、就業者数は増加、完全失業者は減少しており(下記調査参照)、労働力不足を反映している。但し、多くはパート労働者であろうから、上記の様に低賃金であることは免れないと推定する。

「労働力調査」7月分(2014/8/29)
・就業者数 6357万人、前年同月比46万人増(19か月連続増)
・雇用者数 5600万人、前年同月比53万人増
・完全失業者 248万人、前年同月比 7万人減(50か月連続減)

以上のことから、生活の実態は家計においても明瞭に表れている(下記調査参照)。勤労者世帯実収入は昨年に比べ、大きく減少し、当然のことに、消費支出も同様の減少を示している。基本的には物価指数に反映される悪性インフラの影響がもろに、低所得者層の生活を直撃している。

「家計調査(二人以上の世帯)」7月分速報(2014/8/29)
・勤労者世帯実収入:55.5万円(前年同月比:実質6.2%減)
・消費支出:28.0万円(前年同月比:実質5.9%減、前月比:実質0.2%減)

「消費者物価指数:2010年基準」7月分(2014/8/29)
       2013/07 2014/03 2014/04 2014/07(前年同月比) 
・総合指数(1) 100.0   101.0  103.1  103.4(3.4%) 
・総合指数(2) 100.1   100.8  103.0  103.5(3.3%) 
・総合指数(3) 98.3    98.6  100.6  100.6(3.2%) 
 総合指数(2):総合指数(1)―生鮮食品
 総合指数(3):総合指数(1)―食料品(酒類を除く)・エネルギー

      

政権中枢も実体経済をようやく認識か~世間に対する数学的判断

2014年09月05日 | 経済
消費増税後の実質GDP成長率が大きく落ち込んだことをトリガーに、実体経済がグローバル化の影響をこれまで受け、大きく揺らいできたことを、マスメディア、各機関がようやく認識し、それが政権中枢へも及んできたようだ。
以下、その間の事情を報道で辿ってみよう。
 『「日本経済を取り巻く国際環境」~齊藤誠教授のエッセイより140831』

8月半ば、政権幹部から景気に対する慎重な見方が相次いだ。以下は報道のまとめ。経済関係に関する政権幹部とは、
甘利経財相「デフレ脱却宣言は時期尚早」、
麻生財務相「企業はそう簡単に借り入れを増やせる状況にはない」、
に他なら合いない。当然、彼らは内閣改造でも依然、中枢にいる。

「消費増税の影響が予想より大きく、政府が慎重姿勢に転じる可能性」とは、マスメディアの一般論だ。しかし、政府中枢の考え方は、メディアに乗って、これを消費増税の影響と誘導するかの様にも見える。

甘利発言は、第2四半期期の実質GDP成長率の前年同期比較、-1.7%(年率換算、-6.8%)を受けたもので、この落ち込みは消費増税の駆け込み需要に対する反動が大きいのは確かだ。第1四半期期は+1.5%で次期の数字を見る必要がある。しかし、今後も順調に回復との見方まで踏み込めずにいる。

麻生発言は、最近の金利急低下を評して「国債大量発行、長期金利上昇」とはいかないのは、企業の慎重姿勢と指摘する。中小企業の経営者は、多少景気が回復との感覚があっても、容易に融資を増やす状況ではないと考えるだろう。また、大企業も同じで300兆円ほどの内部留保を抱え、目立った投資先が国内になく、資金を余らせている状況が続く。

今年の春闘では賃上げが実施されたが、消費増税、物価上昇により、実質的な賃金は下落している。先行き不透明で、企業がこれ以上の賃上げを実施する可能性は低く、消費の回復力は弱いままだろう。

以上は、マスメディアが政権中枢の発言を軌道修正への“準備発言”と受け取っていることを示している。しかし、以下に示される消費増税以外の本質的な影響について、政権として気が付いてきた可能性も示している。

それは既に記事で指摘した上記の実質GDP成長率の低下は、新興国のグルーバル化による日本の経済的基礎体力への影響を含んでいることだ。
 『アベノミクス、インフレ・円安政策の破綻140807』

8月末、ようやく「個人消費指標の軒並み大幅減」、「消費増税の反動減ではない」とのマスメディアの見方が出された。以下は報道のまとめ。
 個人消費減速が加速…背景:賃上げを打ち消す実質賃金の低下
 ・要因…消費増税、物価上昇、非正規社員増加
 電機工業会:白物家電の国内出荷額(7月):前年同月比15.9%減
 (3カ月連続減、15%超は約3年ぶり)
 チェーンストア協会:全国スーパー売上高(7月):前年同月比2.1%減
 (4カ月連続減)
 百貨店協会:全国百貨店売上高(7月):前年同月比2.5%減
 (4カ月連続減)

この落ち込みを消費増税の駆込み需要に対する単なる反動として捉える本質を見誤る可能性がある。過去2回の消費税の増税では、今回ほどの反動減は見られなかった。今回は消費者の不安心理が増大した可能性がある。

安倍政権は企業に対して賃上げを求め、大企業を中心に一部の企業はこれに応じた。しかし、物価の影響を考慮した実質賃金は下がる一方である。これは正社員が減少、非正規社員が増加、との構造的要因も大きく影響している。

企業の賃金原資は限られているので、正社員の既得権益を守ろうとすれば、非正規社員を増やす以外に方法はない。非正規社員の給与は正社員より著しく低いので、この動きが続く限り、全体の賃金は増加しない。

マスメディアが上記の認識に到達したのは一歩前進!しかし、消費増税前後の景気指標の市場予想と実績とを比べると、80%の指標は予想を下回った。これは予測した機関の実体経済の把握が甘かったことを示すのだ。銀行、金融機関だろうが、政府筋からのデータ等をもとに作成したはずだ。従って、自ずと彼らの権益に縛られた認識の限界の示すことになる。

      

欧米メディアのアベノミクス評価~欧米的偏見が含まれていないか

2014年09月03日 | 経済
当初はおだて上げ、アベノミクスという呼称を世界に喧伝していた欧米メディアが、暫く前から皮肉を効かせた懐疑の眼を向け始め、更に、最近は批判に転じるようになった。

エコノミスト紙は「日本経済:圧迫される家計 20140815」を掲載、これはおそらく、消費税増税の影響を重んじた発想だ。その書き出しは「働き手が不足しつつあるにもかかわらず、実質賃金は下落の一途をたどっている」との疑問だ。

安倍首相の公約はデフレからの脱却だ。
1)日銀の大量資金投入で円安を促し、
2)輸出企業の業績を回復させつつ、株式を高値に導く
3)公共事業で景気回復の足掛かりを築く
4)賃金上昇と企業投資の循環を生成する
以上のストーリーにマスメディアは飛びついたはずだ。

「しかし、大量の株式を保有していない人、東京のトレンディーな代官山周辺にマンションを所有していない人にとっては、状況はかなり異なる。」との認識にエコノミスト紙も達している。

何を今更と言わざるを得ない。
しかし、彼らにとって、賃金上昇、消費支出押上げ、企業投資の促進、デフレからの脱却が実現しないことは一つのナゾだと云う。そのナゾには、労働市場は逼迫しているのに何故、賃金が上がらないのか?と云うことも含まれている。

それに対して、エコノミスト紙は労働市場の歪みを指摘する。
「実質賃金の低下に寄与している要因は、根が深い。」
「日本の労働市場は、給料が高く、身分保障がある正規労働者と、社会の最下層を構成する低給の非正規労働者に二分…6月には雇用全体に占める非正規労働者の割合が過去最高水準に近い36.8%を記録した」。

そして、彼らの結論は、「非正規労働者の賃金と身分保障を手厚くすると同時に、正社員に与えられた過剰な保護措置を削減することだ」。しかし、既に各方面から指摘されていることを繰り返すだけでは、ようやく、日本の状況が判ってきたのかと、始めに煽てるんじゃないよ!と云いたくなる。

ファイナンシャルタイムズ(FF)紙は「的を外す矢20140828」において、第3の矢、構造改革は、まだら模様、実行に移すには時間が掛かり、移しても経済成長に影響を及ぼすには更に時間が掛かる、と云う。そこで、改めて第一及び第二も入れた三本の矢すべてに、疑問が投げかけられる状況だとの認識を示す。

そこで、次の様に指摘する。
「問題は、不況でありながらインフレが進むスタグフレーションを懸念する声が一部で上がり始めるような経済全般の情勢にある。日本経済は2013年半ばから2014年半ばにかけて、実質ベースでほぼゼロ成長にとどまっている。」
「日銀による積極的な金融緩和はインフレ率を押し上げ、賃金は6月に若干上向いたが、物価はそれ以上に上昇、実質雇用者所得は前年比で3.2%減少だ」

しかし、でさえ、「賃金の伸び悩みは不思議な感じがする。企業は記録的な好業績を上げており、日本は失業率が4%を下回る事実上の完全雇用状態にある。賃上げを要求するには理想的な状況であるはずだ」と云うだけだ。

生活人の常識的感覚からすれば、開発途上国の追い上げの中で、賃金水準を維持するのは、極めて難しく、円安によって原料、食料品等の価格が上昇すれば、物価が上がるのは眼に見えているのだ。

結局の処、FF紙の結論も、以下の様で、巷で云われていることだ。
「ベビーブーム世代が引退する年齢…最も高い給料を取っていた人たちが職場を去り、…パート従業員、請負業者他の低賃金労働者が引き継いでいる。」
「ベビーブーム世代を親に持つ母親たちも、自分の子供が学校に通うようになってから再び働き始めているが、給料は以前に比べると低い場合がほとんどだ。」

問題は、エコノミスト紙等の欧米のマスメディアの考え方が全体像を捉えているのか、ということだ。部分的には、それぞれ確かであっても、グローバル化した中での日本経済を何か日本の特殊な原因によって解釈するきらいが彼らにはある様に思える。おそらく、それ自体が欧米的偏見に基づくとすれば、欧米における日本のイメージは歪んでいるように思われる。