散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

永井陽之助“感染する思考”、メモ~「冷戦の起源」解説・中山俊宏

2014年09月12日 | 永井陽之助
“感染する思考”との表題は極めてユニークだ。
思考が病原菌のように感染するという「冷戦の起源」の主題を逆手にとり、その本の「冒頭の解説」に当てた処に、国際政治学者・中山俊宏の苦心が表れている。

永井の弟子筋による作品の紹介・評価に関して、当然ながら世間が興味津々に見ていることを、中山も意識しながら筆をとったのだろう。しかし、短い解説の中に、自ら受けた影響も含めた永井論も押し込めると、その文章のテンポはリズムに乗れず、蛇行する川のように、右往左往して読書の薦めに落ち着く。

「冷戦の起源―戦後東アジアの国際環境」(永井陽之助1978年(中央公論))は、このたび復刻(2013年)された。本体は持っているが、復刻版に書かれた中山の論考を読みたくて、ここは、図書館で借りて読んでみた。
解説の『感染する思考ー「冷戦の起源」の危うさについて』に、少し雑駁にメモを書いておこう。

先ず、永井の影響を受けていることを云う。
「…独特の用語群や思考のスタイルが、気がつかないまま自分の思考の中にあたかもウィルスのように、浸入していたことだ」。しかし、研究のスタイルは、距離をおいた。それは研究者としてのキャリアを地道に積むためだ。

とはいえ、無意識のうちに永井の影響を受け、その表現を内面化していた、即ち、感染していたことを認める。だが、それは永井の思考を継承したわけではないと、直ちに断っている。

この屈折した表現を正当化するためでもないだろうが、本書の刊行時の書評を共連れにし、評者たちが困惑している様子を描く。此処まできて、漸く、永井の思考をまともに評価する。それは櫻田淳による「平和の代償」が描く永井の思考の一面性に反論を加えることで表現される。

永井政治学の本質を櫻田が「成熟や慎慮に根ざした均整の感覚」と評価することに対して、中山は、異論はないと云いながら、
「永井の思考の本質は「自由奔放」で危険なほど「ラディカル」だった。その思考のスタイルには、「成熟」や「慎慮」とは対極の、絶えず読者を挑発し、誘惑し、困惑させるような「暴力性」があった。従来の言葉の意味をずらし、定説を嘲笑し、思考の深淵に立つとニヤッと笑ってあえてそこに飛び込んでいくような危険な無邪気さが、永井の思考を特徴づけていた。」と述べる。

立派な異論という以外にない!中山から見れば、他人事のように、「均整の感覚」とは云えないのだ。それは良く判る。

筆者の感覚では、その表現は永井の表現に「似て非なるもの」と感じる。永井の文章は用語の象徴性、論理の飛躍を含むが、文そのものは判り易い。中山の表現は、象徴性というよりも、形容、修飾が多くなっている。「カオスをカオスで制御する」という表現も、永井の知性を表す言葉として、二度出てくるが、何を言わんとしているのか、伝わってこない。

さて、本書の構成について、中山は次のように云う。
「本書は「ジョージ・ケナンの有名な8000字に及ぶモスクワ発公電」に内在していた「疫学的地政学」の論理を暴き、「冷戦思想の疫学的起源」の輪郭を浮かび挙がらせることに全力を注いでいる。」

「今回再読して「ケナンが「8000字のモスクワ発公電」においてロシアに関して行った分析を、永井はアメリカに関して行った」ことに気が付いた。即ち、米国イデオロギーを浮かび上がらせるアメリカ論でもある」。

上記のことは、本書の「はじめに」において永井が書いたことだ。また、そのなかで、永井の発想と思考に関する重要な記述がある。
「1962年に私が初めて渡米したとき、奇異に感じてならなかったのは…全国的に広がりを見せるフルオリデーション反対の狂気じみた激しさであった」。

「米国の思想と行動」に焦点を合わすと書いてあるように、歴史は個々の事実の積み重ねだけではなく、それを捉える意味づけの重要性を永井は説いている(例えば、「二十世紀の遺産」P369)。政治学者としては当然の発想だ。

更に米国の外交・軍事に関する言及は「平和の代償」においてもメインテーマの一つであった。「米国の戦争観と朝鮮戦争」に始まり、それがまた、憲法第九条の問題から始まるのだ。

以上の様に、「冷戦の起源」の発想と内容は、永井から見れば当然のものであって、それ自体に困惑することもない。中山には触れてもらいたかったことだ。

      


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