散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

屈折する米国の日本観(1)~慰安婦問題の底に潜むもの

2014年09月18日 | 現代史
朝日新聞が「慰安婦の強制連行」という証言が虚偽であったことを認め、その記事(初出1982/9/2)を取り消した(2014/8/5)。慰安婦問題は、既に日韓で決着済の問題を上記の記事がもとで、韓国側が再び取り上げ、米国をも巻き込み、政治問題にしたものだ。

特に、英語で性奴隷と訳され、米国議会下院で謝罪要求決議が可決され、なおかつ、慰安婦像なるものが、いくつかの地方都市で設置されていることだ。これに対して、日本政府・外務省は有効な手立てが出来ず、また、国内で朝日新聞に同調する政治集団が反日本政府活動をすることで、日本の立場を悪くした。

米国の下院といえば、デフォルト問題でオバマ大統領を追い込んだことで地方自治の何たるかを、世界に示した強者議員の集まりだ。これは米国の地方レベルで慰安婦問題が奇異の眼で見られ、簡単に反日感情に火を付けられる可能性を含むことを示唆している。日本に対してどのようなイメージがその基底にあるのか。
 『米国議会の「騒動」からの教訓131019』

30年前のことになるが、永井陽之助は『日本にこだわらない日本論を』(中央公論1984/5)の中で、「欧米の理想モデルに比較して日本の文化的・社会的な特異性を強調する議論の時代は終わった」と述べ、その中で、ステレオタイプ化した日本イメージの問題を提起した。そこのは“性愛”に絡むイメージも存在する。

永井は当時、米国のテレビで大当たりした番組『将軍』の再放映を見て、「この東洋エキゾティシズムに満ちた二流の番組が、何故、あれほどまでに米国人視聴者にうけたのか、理由の一端が漸く判った」と述べる。以下、更に引用する。

最初の導入部、磔、切腹、釜ゆでなどの残酷な処刑あるいは東洋的な抑圧と専制のシーン。後半になると、島田陽子が扮する東洋的美女があられもなく男の寝所に忍び入るという、エロティックな場面。
これは欧米人のステレオタイプ化した「東洋」イメージの二重性を再確認させるものだ。その起源は古代ペルシャだという。

一方で、想像を絶する残虐な拷問と処刑、野蛮と抑圧、
他方でハーレム内部の、神秘的で、あらゆる禁忌と抑圧から解放された放恣な性、女性の美とエロティシズム、これがギリシャと対比され、「東」と「西」の固定イメージの原型となって今日まで生きている。
「オリエント」「イースト」のステレオタイプはペルシャ、アラビア、インド、中国、最果ての「極東・日本」にまで及んで完成される。

従って、欧米のメディアが日本特集を組むときは、この二重性のイメージを必要とする。ホンダのオートバイに乗るサムライ、ロボットに配する芸者、である。

そこで筆者が思いつくのは上下を着けて、安倍首相が三本の矢を射る姿で、アベノミクスを象徴させるやり方だ。これで、欧米人は、日本「変われば変わるほど元のまま」だと、心から納得して、安心するのだ。


なるほど、そういうことか。
この論文を読んで、慰安婦が「性奴隷」と米国で呼ばれたことが、性と専制の両面に渡る日本人のステレオタイプ化されたイメージを、米国人が再確認していることに他ならないと理解できた。
それに対して、自分たち米国人はキリスト教のもと、性を昇華し、人権が行きわたる民主国家なのだと!自らの奴隷制度を棚に上げてだ。