散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

高度経済成長時代とは何だろうか~吉川洋教授の論考を手掛かりに

2014年06月01日 | 経済
高度経済成長の真っ只中に少年期をおくった吉川洋教授は、40代で当時を振り返りながら「高度成長」(1997年)を著し、その最後の章に「光と影」を書いた。そして最後に夏目漱石の「現代日本の開化」を持ち出して「経済成長は進歩だと自信を持って言えるだろうか」と呟いた。

漱石を引用するのは、吉川が学者だから出来る技だが、逆に誰からも反対させないように、学者としての用心深さが出たように思えた。一方、筆者は団塊の世代、吉川の三年上の1948年生まれ、少年期の三年違いは社会からのインパクト、を受けるという点では大きく、体験から高度成長を語ることも少しはできる。

おそらく、漱石の有名な一節がなければ、その時代の立役者である金森久雄氏から「大進歩に決まっている」とは言われなかっただろうし、金森の言葉がなければ、2002年に「あとがきの再論」を吉川が書くこともなかっただろう。
 『経済成長の過程と帰結、社会変動の視点140529』

しかし、過ぎ去った時代、それも今現在の社会に?がる直前の時代から振り返る時、その時代の変化の帰結に関心が引かれるのは、やむを得ないことだ。その点、金森の揚げ足取りに反応する必要もなかったが、吉川は真面目にも「「高度成長」に花束を贈りたい」と答えてしまった。

炭鉱事故のニュースを見たのは小学校低学年の様に記憶している。映画を見に行くと始めはニュースだ。しかし、画面が大きいから迫力がある。犠牲者が運び出され、家族が泣く。ラジオのニュースでも何回も聞いた様に思う。

ウキをググってみれば、炭鉱事故と労働争議の時代だった
1963/11/9 三川鉱炭じん爆発事故 458人死亡、一酸化炭素中毒患者839人
1984/1/18 有明鉱坑内火災事故により83人死亡、一酸化炭素中毒患者16人
1960年 三池争議 石炭産業斜陽化、大量解雇に対して、激しい労働争議
1997/3/30 三池炭鉱閉山

吉川は「階級闘争路線に基づく労働側の強引な政治闘争」と呼ぶが炭鉱事故の悲劇性には無関心だ。つい最近もトルコで大きな炭鉱事故があったが、この時も少年時代に見聞きした事故を思いおこした。また、地域での夏の盆踊りの定番である「月が出た」を聞いていても同じだ。

即ち、「影」の部分は必ずしも結果としての公害ではなく、その真っ最中の過程に内在するものもあるのだ。何か吉川の発想は学者の定番形であって、個人的な体験あるいは記憶の中に刻まれているものではない。

どこかに書いた記憶があるが、「三ちゃん農業」という言葉を始めて聞いたのは、高校一年生の始め、地理の時間だ。中学生の地理ではコメの産地などの知識あるいは米作の北限への挑戦などを知ったが、農業に内在する構造的問題などは全く聞くことがなかった。これも個人的にはショックが大きい話だった。

ウキによれば、以下の様だ。「1960年代に増加し、1963年の流行語にもなった。このような背景として、戦後の高度経済成長と、それに伴う池田内閣の所得倍増プロジェクトに伴う農村人口の減少があげられる。」

農業・農村の変貌について、吉川は当然触れているが、それも時代を追っているに過ぎない。当時の人びとの外見的姿は追っていても、内側の人間を理解させる様な示唆を与える話がないのだ。

従って、002年の「あとがきの再論」においても、ロマン主義対合理主義を持ち出すことにしかならない。これも学者らしくまともに反論されることはないだろうが、着想は平凡で面白味に乏しい。

残される知見は結局、時計の針を1950年に戻し、それと1970年代初めとの統計的比較になる。そこでは極めて大きい量的変化を、これでもかと見出すことはでき、また、テレビに始まる様々な新製品の登場を示しことはできるが、それらによって社会構造の変化と人びとの意識なの移ろいをデッサンすることはできていない。従って、高度成長の中にだけ私たちは閉じ込められてしまうのだ。