散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

政治的時間の短縮~成長から“成熟”への軌跡(8)

2014年06月08日 | 永井陽之助
米国60年代の社会生態系の激変とは、『解体するアメリカ』(「柔構造社会と暴力」所収)によれば、具体的に以下のことに代表される。
 1)人口移動―黒人の余剰労働力の南部から北部への移動
 2)世代交代―戦後ベビーブーム世代の登場
 3)資本構成―経済繁栄による期待上昇と巨額の公共投資
 4)情報革命―情報空間の著しい拡大

日本における高度経済成長による社会構造変化も基本的に同じである。それが現在に至るまで継続的に累加しているのだ。例えば、以上のことだ。
 1)人口移動―大都市への人口集中、極点都市の出現予測
 2)世代交代―少子超高齢化社会への進行
 3)資本構成―資本主義のグローバル化と貧富の差の拡大
 4)情報革命―ネットメディアの日常化による地球規模の即時性

従って、当時の米国社会の危機は人ごとでは無かったはずだ。
特に情報革命により、当時の米国社会の情報空間は一つの村落のように狭くなり、
 政治の全国化、
 すべての集団に少数者の疎外意識を付与する傾向、
 マスメディアは少数集団に“数”以上の表現力を付与する傾向、
 保守多数派に相対的な価値剥奪感を付与する傾向、
ここに、「露出の政治」と呼ばれる新形態が出現した(前掲書)。

「…人類の歴史的、政治的時間は日々に短縮し、切迫感がみなぎって、…」と書かれている様に“時間の短縮”は先の記事における“成熟過程の短絡”と共に当時の社会構造の変貌に対する永井の基本的な問題認識として提示されている。
 『社会生態系「人口・資本・情報」の激変140607』

米国社会に対する認識も「50年代の安定期に覆い隠されていた米国の恥部が60年代後半、一時に、露出した」となる。

それは「白と黒の人種闘争、公害と犯罪に悩む都市、世代ギャップ、大学紛争、ベトナム反戦、新孤立主義の台頭、資源配分を巡る闘争、インフレ下の失業増大という「多面的危機」」なのだ。そこで、永井は歴史学者R・ホフスタッター、選挙分析家S・リューベルを引用して、恐慌時代にF・ルーズベルトが作りあげたニューディール連合体制の解体だと述べる。

この本の「あとがき」によれば、「知日アメリカ人の憤激をかったらしいが」と書いている。この論文は筆者が4年生のときのもので、確かセミナーハウスでの合宿で永井教授を囲んで話しているときにアメリカ論も話題になって、教授は「ライシャワーに「裏切られた」と言われたよ」と苦笑していた。そして、ロストウらの近代化理論を「米国知識人の狭い考え方」と批判していた。

また、「(自分より)米国を良く知っている知識人は三人いる、判るか」と我々学生たちに投げかけた。異口同音に「リースマン」と答えたが、誰からも二人目が出てこないのをみて、「ホフスタッターとリューベルだよ」と言われた。あとがきにも「優れたアメリカ研究者なら10年前から指摘している」と書いていたが。

日本では、73年に勃発したオイルショックを機に、狂乱物価と呼ばれるインフレ状態となり、主婦たちによる「トイレットペーパー買占め事件」も発生した。尤も、筆者は就職した直ぐあとで、アパートを借りての独身生活をしていたので、物価高騰はそれほど身にしみては感じなかったが(「高度成長」吉川洋一1998)。

しかし、74年は成長率がマイナスになり、日本の指導層が「高度成長は過去のもの」と感じる契機となった。更に、吉川は1)人口移動の低減、2)耐久消費財の普及、3)設備投資が70年にピークの三点を示し、また、79―80年の第二次オイルショックでは別の様相を示したことを指摘し、高度成長が70年代の初頭に終焉したと述べている。

ところで、池田勇人―佐藤栄作によって、高度経済成長を達成し、佐藤も、大学紛争、安保改定を乗り切り、大阪万博で経済大国を誇示し、沖縄返還(1972)を花道として引退した。そして、1972年7月に田中角栄が首相に就任し、「日本列島改造論」を掲げて次の成長ステップを志した。

問題は、永井の「アメリカ論」から日本について考えるという姿勢を示した知識人、学者がいたのだろうか?安定成長下で「改造論」を実行する場合の問題?をしっかりと考えたのか、という疑問だ。