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散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

1950年代に出現した地域ビットコイン~子ども相手のインチキ商売

2014年02月28日 | 回想
これは、「お前がバカなんだよ」とひとこと言われて終わるような話だ。

小学校の3,4年生、1957年頃だと思う。ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、映画『明治天皇と日露大戦争』が大ヒットした年である。高度経済成長に突入したと言っても、その恩恵は未だあまり肌で感じられない頃であっただろう。
 『初めて旭日旗を見た日露戦争の映画~我が内なるナショナリズム130805』

それでも、適当に親から小遣いを貰っている子どもたちも増えていたと思う。小学校の校門の直ぐ近くに商売道具の箱をもって、ゴザを敷き、その上に座って店を広げて、子ども相手に商売を始める男が訪れた。

何の商売か?
「粘度」を「型」(建築物、動物、ヒーロー等)に押し付け色々な形を作り、その粘度に色彩を付け、作品とする一連の作業から収益を得る商売だ。従って、「粘土」「型」「色粉」を売るのが主であるが、その回転を速め、また、購買意欲をそそるために、作品の品評を行い、回転を速くするのがミソである。

そこに登場するのが、ビットコインならぬ“点数券”である。ここまで説明すれば、どんな商売だか、大凡の見当は付くと思う。作品に点数を付け、それを金券として制作者に渡す。作品(粘土)は販売者が回収する仕組みである。

子どもにとっては、その“点数券”が遊びの資金となり、高い点数を取るために、作品の制作に集中されるようになる。作品は店先に展示されるから高い点数を取った作品を制作した子どもは注目され、その制作過程は他の子どもの見学の対象となる。それは、その子どもにとって名誉価値を生み出すのだ!

子どもを作品制作に集中させ、それを名誉価値の創造へ結びつけたことこそ、そのインチキ商売の工夫と社会への貢献があったのだ!

当時、高度経済成長が始まり、技術者人材育成の必要性も教育界の話題になっていたとしても不思議ではない。それと共に社会全般に教育熱が高まり、受験競争なる言葉もマスメディアを介して話題になっていたかもしれない。その中で、子どもを評価する親や世間の眼も一元化されていく状況もあったかに見える。

その中で、子どもの創造性を刺激する商売が忽然として目の前に現れ、小遣いの範囲内において出来るという場が設定されたとすれば、その理屈はともかく、その遊びに惹かれる子どもも多くいたことは理解できる。

現代のビットコインはそのような創造性を刺激するものは何も含まれない。受験競争は金融の世界においてマネー獲得の名誉価値を作り出したかのように見える。コンピュータの画面に現れたマネーの桁数に自己満足を得るまでに、人間の自我に経済的価値観が浸透しているのだ。

さて、当時の世界に戻ろう。
その商売の初期には「粘土」「型」「色粉」は売れた。その後、点数制度の中で商売が安定してくると、点数券を使うリピーターからの売上げは少なくなり、新規参加者の増加に売上げは依存する。しかし、その小学校の周辺がせいぜいであって、基本的には閉鎖的空間である。

そこで使われる手法は点数券の販売である。少しおまけを付けて、金と点数券を交換するのだ。作品の名誉価値は点数によって表現されるから、それは容易に点数そのものに転化される。特に名誉価値を得た子どもほどその傾向は強くなる。閉鎖的空間の中では、点数券の方が現ナマよりも価値が高くなるのだ。

そこで作品を介さずに、現ナマと点数券の交換が起こる。こうなると、その男は「ハーメルンの笛吹き男」(阿部謹也(ちくま文庫))の様に見える。

 
 
しかし、それが最終的な仕事だったのだろう。毎日とはいかないが、適時、商売に来ていたその男は、或る日、パッタリと来なくなった。子どもにとって、大量の不良債権が手元に残されるわけだ。しかし、子どもは現在に生きる存在だ。名誉価値が得られなくなった以上は、作品制作の意欲は消え、他に関心が移るだけだ。親に言えば、冒頭の言葉が返ってくるだけのことは判っているのだ。


      

「空前の立ち往生」と「世界同時革命」~NHKクロ現・大雪の猛威

2014年02月25日 | 回想
大雪の後の雪かきに汗を流し、地域の防災体制に思いを馳せた頃、今晩の「現クロ」が伝える処、山梨県では、中央自動車道や国道では車の立ち往生の列ができ、交通が断絶し、県全域が“孤立”という異常な事態になっていた。
『マンション・地域の雪かき~大規模災害に耐えられるか140215』

役所、消防、警察等、どれをとっても県全域に人員を配置できない。除雪車も限りがある。情報も十分に集められず、判断もできず、その間、更に雪は降ってくる。立ち往生はその結果である。

雪は同時に各地域に降る…。そこから各地域に、同時に人員、もの等を必要とさせる。これは「世界同時革命」の発想と同じだ。1968-1969にかけて、大学紛争から都市ゲリラへの転換点を向かえようとしていた。

東大安田講堂事件以降、大学紛争は転機を迎え、場は大学内から都市全体に移ってきた。都市ゲリラ化である。闘争の場として新宿、渋谷、池袋、上野、東京駅、等が選ばれ、ゲバ棒にヘルメット姿が駅構内に現れた。

出だしは、新宿騒乱事件などもあって、警察の国家権力の“暴力性”を暴こうとする全学連の作戦が効を奏したかに見えた。しかし、その後、各拠点駅を中心に、同時に騒乱を起こし、警察を分断化させる作戦も、警察側の対応によって阻まれ、逆に、全学連の“暴徒性”が明らかにされることとなった。

各拠点での闘争を、人数の少ない段階で局所化し、封じ込めることによって、回りからの参加を防ぎ、その広がりを抑えることに警察は腐心したようだ。従って、全学連側は各拠点での騒動のタイミングを合わせることが出来ず、結局、同時性を有する都市ゲリラは実現されなかった。

今回の雪による交通障害の発生は、図らずも、自然災害の同時性を顕すことにより、その被害を最小化する人間社会の同時性行動の難しさを示すこととなった。圧倒的に激しく、厳しい自然の力に対して、後手に回って、分散した形で人間社会が対応しようとしても、被害が大きくなり、収拾にも時間が掛かる。

自然災害に対する「事前の避難」はどうすれば可能になるのか、との問いに対して冷泉彰彦氏は米国、ニュージャージー州での昨年2012年10月末のハリケーン「サンディ」、2005年の「カトリーナ」の経験から、被害の予想される地域への避難勧告や対策は、ハリケーンの上陸時間から逆算して、48時間以上前から行われていると言う。

更に、「事前の避難」や「事前の対策」を講ずるという考え方は、日本では余り定着しておらず、被害を大きくしている。日本には風雨が実際に強まって来ないと危機感が持てないという「カルチャー」があると指摘する。

また、「事前避難」に関して「外れた場合」に、「結局来なかったのに、こんなに大げさに避難したり準備したりしたのは失態だ」という種類の非難を「言わない」「言わせない」というカルチャーを作ることが大切とも指摘する。

しかし、「クロ現」には、このような話は出てこなかったようだ。結局、決断と責任の所在を明らかにし、指揮系統を明確にすることがすべての出発点でもあるし、現実の事が起こったときの対処法でもあると思うのだが。


       

      

幻想の中の都立青山高校旧校舎~年始に自らの原点を顧みて、省みる

2014年01月02日 | 回想
小学生の頃は野球少年であった。
当時、高校野球の甲子園代表を決める東京都大会は、その大詰めの準決勝、決勝を神宮球場で行っていた。確か3年生の時、初めて父親に連れられ、王選手が早実の投手として、そのマウンドに立っていたことを覚えている。

5年生の時も、それまでと同じで親に連れて行ってもらったのだが、小学生の料金が無料とのことでバックネット裏での観戦になった。試合そのものは覚えていないが、終わって出た処が丁度球場の正面玄関であった。いつもの内野席でみていたら別な出入口を使ったであろう。

ブラブラ歩き始めた道の向こう側に、綺麗なコンクリート建ての建物が何か学校風に立っていた。私が聞いたのかどうか覚えていないが、父親が「青山高校で、都のモデル……だ」と教えてくれた。“モデルスクール”と言ったのか、“モデル校舎”と言ったのか、これも今となっては定かでない。

しかし、校舎と言えば「木造2階建て」しか頭に浮かんでこない小学生にとって「すごいな!」という印象を持ったことは確かである。調べてみると、青山高校の校舎は昭和33年5月に竣工し、その時は34年だから真新しく、その辺りでは際だっていたに違いない。

おそらく、ある事件がなければ青高生(自らの高校をよぶときの教師、生徒の用語)になった時、感動をもって小学生当時を思い起こしていたはずである。中学校に上がる直前、その中学校の校舎が火事で一部燃えてしまい、その後、跡地に新校舎が建ったのだ。

新校舎は当然、光り輝く?コンクリート建てであったが、1学年、12クラス、1クラス60名弱、一つ上の世代は13クラス、という団塊世代は、3年生で新校舎に入り、ようやくその恩恵を満喫できるようになったのだ。勿論、それ以前にも、職員室は新校舎のなかなので、用事にかこつけて、入ったことはあった。しかし、生活してみると、汚れている処も少なく、特にトイレのきれいなことが際だっていて、うれしかった。

青高に入ってみると中学校の新校舎の方が綺麗でいいな、程度の印象しか持てなかったのもやむを得まい。今、幻想のように浮かんでくる青高校舎は、実は小学生のときにみた新築建物のイメージで、現実に高校生活を送った校舎のリアリティはない。

しかし、2年生までのサッカー部を中心とした活動と、3年生での受験に集中した勉学とが、それぞれ思い出されるのは、自らを燃焼させたことに依るのだろう。青高生になって中学時代よりも一層、自らのことを意識したのだろうか。

人間の記憶は、時間軸に沿って構成されているのではなく、過去はすべて同じ過去で有り、その中で印象深い事象が記憶のなかから読み出されるのだろう。人間は時の順序で自らを構成しているわけではないとの思いは、この記憶に由来する。

しかし、このことに気が付いたのは、いつのことだっただろうか。だが、この年になってようやく小学生時代の父親との思い出が浮かんできたのは、実はサッカー部OB会の存在を介してである。

筆者は知らなかったのだが、平成15年6月7日に「青高サッカー部OB会設立総会」が渋谷東部ホテルにて開催されていた。何かの拍子に青高を「ググって」みると、そのOB会のホームページに到達した次第だ。

何と!と感激して、幹事の方に連絡をとり、間近のOB会に出席できた。会場は青山高校、グランドでサッカーに興じた後、教室でOB会となっていたのだが…そのとき、校舎は一変して“新築”されていたことも知った。

そうか、すでに50年近く経っている。タイミングとしては当然、と何か新しいものに期待感を持って、現地へいってみた。しかし、その新校舎は、新しくはあるが、際だっているとは感じられない。回りに、或いは東京全体に種々雑多な新築建物ができているため、都立高校の校舎程度ではデザインとしての新しさを感じないのかもしれない。

また、それと共に、気にもしていなかった旧校舎が、無くなったという喪失感が湧いて来るのも禁じ得なかった。だが、この喪失感によって思い出が浮かんできたとしたら、それはサッカー部での活動がOB会設立によって、呼び起こされたためであろう。

ともあれ、OB会設立に努力されたOB諸氏のお蔭だ、と感謝せねばなるまい。
(2006/1/2初稿)

      

幻想の中の野球少年~年始に、自らの原点を顧みて、省みる

2014年01月01日 | 回想
小学校高学年の時代。当時はサッカーなど知るよしもなく、野球に明け暮れる毎日であった。学校が終わるとき、友達と今日はどこにあつまる、と決めては野球の道具を持って、家からその場所へ急いだ。

小学校へ上がる以前からゴムボール、三角ベースの草野球に慣れ親しみ、ラジオでプロ野球の実況中継を聞き、新聞のスポーツ欄をみて「巨人」の成績に一喜一憂していた。新聞では、漢字を読めなくてはわけがわからない。だから、プロ野球チーム、選手の名前の字は、必然的に読めるようになった。

そういうわけであるからプロ野球は小学生以前に後楽園で初観戦、確か昭和28年の巨人対阪神戦のナイターだったと思う。「川上、与那嶺、千葉」もいたが、ナイター光線にキラキラ光る「南村」の黒バットが今でも印象に残っている。

3年生の時、近所の遊び仲間6名とチームを作った。6年生2名、5年生2名、4年生1名と最年少の私である。6名では正式の野球にならない。そこで、5年生のひとりがクラスの友達を引っ張ってきて10名以上になった。最年少であったが、それでも私自身は投手を志望し、他の5年生3名の投手と交替で出場していた。もちろん、5年生になってからはワンマンで、フォームが当時の「国鉄スワローズ」で巨人キラーだった「金田」に似た(と言われたことがある)サウスポーとしてならしていた。

話は3年生の時に戻り、夏休みに少年野球大会があることを知って出よう、出ようということになった。その時の主催者は警察で、どうも非行防止の観点から少年野球を推進していたらしい?近所の警察署に行って、届出の手続を聞き、組合せ抽選会もそこで行われた。

ともかく、その警察署に入ったのは野球大会の時だけである。規定の中に誰か大人が統率者として必要であることを知って、皆で相談した。その頃、子供の野球チームの面倒をみるような親はいなかった(できなかった)。

丁度、5年生のひとりに二十歳を過ぎた年が離れた兄弟がいた。普段もたまに遊んでくれることもあって、その人に頼んでみようということで快諾を得た。ただ、それは形式だけであって、今風のコーチではない。

さあ、練習はどこでやろう?近くの空き地を探して集合し、或いはそこに先客がいると皆で別な場所まで走っていく。少し遠くにある大学、企業のグラウンドに(当然)無断で入り込む。統率者に頼んだお兄さんに渋谷区(初台に居住)の管轄のクラウンドを予約してもらう等々。

用具は?「瀬戸内少年野球団」の世界よりはあとの年代で、流石に母さんが夜なべをして作った手縫いのグローブという美談はなく、各自買ってもっていた。バットは何人かがもっていて適当に使っていた。
ユニフォームまでいくと、チームとして揃えるなどという話は全くなく、てんでバラバラで短パン姿もいたはずである。水筒を持っていくこともなく、喉が渇いたらその辺の水道の蛇口から水を飲んでいた。当然、応援に来る親などいるわけがない。

大会には色々なチームが出ていて、帽子だけは揃っているとか(その時、この程度は揃えるべきとの説もでた)、大人のコーチがひとり、指導者だったとか、ユニフォームは着ていないがチーム名は胸に書いてあるとか、何となく覚えている。審判は全然知らない人で、これは主催者が募って集めた人たちであろう。

最初に出場したとき、1回戦は楽勝であった。随分得点をいれたと思うが、この時、審判の説明で移動ベースと固定ベースという言葉があり、ルールは固定ベースということを覚えた。話が通じますか?結局、2回戦敗退であったが、その時の相手チーム名が「Sタイガース」。中学校で一緒になる隣の小学校のチームであった。では、我がチーム名は?それが覚えていないのだ!!

でも、ともかく自分たちでやった。やるしかなかったし、それが当然だった。野球が好きで夢中でやった。だからチーム名など、どうでもよかったのだろう。

時は移って、学校ごとに少年サッカークラブがある時代。クラブ活動でサッカーを経験した、あるいは経験をしていない親たちがコーチをする時代…サッカーをすることに余り関心がなくとも、子どもがサッカーをする時代…優れた選手は、Jリーグクラブの下部組織でサッカーをする時代。何か判らないが、路線がある時代。それに乗って選手が育てられる時代。

そんな中で、チーム名などは忘れ、ただサッカーに夢中になっている少年たち…。それが私の初夢にあらわれるだろうか。
(2006/1/1初稿)

      

初めて旭日旗を見た日露戦争の映画~我が内なるナショナリズム

2013年08月05日 | 回想
サッカー日韓戦での韓国人観衆による政治的横断幕を掲げた問題は、逆に日本人観衆による旭日旗による応援を韓国側から指摘され、決着に至っていない。筆者は日の丸のシンプルさに慣れているせいか、旭日旗にはケバケバしさを感じ、それに極右団体の宣伝カーを想い起こすから、どうも性に合わないのだが。
『忘却の政治学を超えて和解へ~「黙殺の文化」からの解放20130729』

だが、初めて旭日旗を見たのは、恐らく映画「明治天皇と日露大戦争」だった気がする。軍艦マーチと共に海上を走る一群の軍艦に掲げられた旗が今も思い浮かぶ旗のイメージだ。1957年公開、大蔵貢の新東宝映画は、観客動員数2000万人、空前絶後の記録的な大ヒットとなり、この記録は44年後の2001年、『千と千尋の神隠し』2300万人まで続いた。

小学3年生だった筆者は母と兄と一緒に幡ヶ谷駅の近くの場末の映画館、当時は三本立50円で東映のチャンバラを主に上映、で見た。この時は流石に三本立ではなく、同じく日露戦争での裏方活動を描いた山中峯太郎原作『敵中横断三百里』との二本立てと記憶しているが、これは1957年の大映映画だ。おそらく、場末に流したときの観客対応だったと思われる。

この映画の中で今思い出せるのは、先ず「一太郎や~い」だ。船で出征する兵士を送る岸壁をおばあさんが走りながら「鉄砲を上げろ」と叫ぶ姿だ。広瀬中佐の杉野上等兵を探す姿、木口上等兵の死んでもラッパを離さず、乃木将軍が従軍している息子と話す姿など、話の筋よりも個々の具体的な挿話の中に描かれた人間像を覚えているのだ。

おそらく、すべては実話とフィクションとの間に描かれた話なのだろう。しかし、この中に潜むナショナリズムは物語を通して自らの心に宿るように今では感じる。これが面々と語り継がれていく“歴史”なのだ。

1955年の1.5政党制が確立し、この年に石橋湛山から岸信介に首相が変わり、自民党の党人派はこれを契機に衰退する。既に高度経済成長の時代には突入していたかもしれないが、一般国民としての意識は、まだまだ戦後の苦しい時代の真っ最中だっただろう。今だから『三丁目の夕日』なのだ!

翌年1958年、1964年のオリンピック招致を目指したイベント、アジア大会が東京で開催された。その象徴としての「国立競技場」は聖火台を備えて完成し、渋谷区在住の筆者も授業の一環として陸上競技を見学に行った。何種目かの競技を見たが、1万mで確か馬場選手?がラストスパートを踏ん張った?うろ覚えであるが、唯一、思い出せることだ。他に日本選手も優勝したはずである。

この記事は我が内なるナショナリズムを思いがけずに認識した結果になったが、改めて、敗戦によって封印された戦後日本における“一般大衆”のナショナリズムは、57年の日露戦争映画の空前のヒットによって目覚めさせられ、64年の東京オリンピックによって解放されたように思われる。この中で、60年安保闘争は如何に位置づけられるのだろうか?

      

幻想の中の都立青山高校旧校舎~年始に~

2013年01月02日 | 回想
小学生の頃は野球少年であった。
当時、高校野球の甲子園代表を決める東京都大会は、その大詰めの準決勝、決勝を神宮球場で行っていた。確か3年生の時、初めて父親に連れられ、王選手が早実の投手としてマウンドに立っていたことを覚えている。

5年生の時も、それまでと同じで親に連れて行ってもらったのだが、小学生の料金が無料とのことでバックネット裏での観戦になった。試合そのものは覚えていないが、終わって出た処が丁度球場の正面玄関であった。いつもの内野席でみていたら別な出入口を使ったであろう。

ブラブラ歩き始めた道の向こう側に、綺麗なコンクリート建ての建物が何か学校風に立っていた。私が聞いたのかどうか覚えていないが、父親が「青山高校で、都のモデル……だ」と教えてくれた。“モデルスクール”と言ったのか、“モデル校舎”と言ったのか、これも今となっては定かでない。

しかし、校舎と言えば「木造2階建て」しか頭に浮かんでこない小学生にとって「すごいな!」という印象を持ったことは確かである。青山高校の校舎は昭和33年5月に竣工し、その時は34年だから真新しく、その辺りでは際だっていたに違いない。

おそらく、ある事件がなければ青高生(自らの高校をよぶときの教師、生徒の用語)になった時、感動をもって小学生当時を思い起こしていたはずである。中学校に上がる直前、その中学校の校舎が火事で一部燃えてしまい、その後、跡地に新校舎が建った。

新校舎は当然、光り輝く?コンクリート建てであったが、1学年、12クラス、1クラス60名弱、一つ上の世代は13クラス、という団塊世代は、3年生で新校舎に入り、ようやくその恩恵を満喫できるようになったのだ。勿論、それ以前にも用事にかこつけて、職員室は新校舎のなか、入ったことはあったが、生活してみると、汚れている処も少なく、特にトイレのきれいなことが際だっていて、うれしかった。

青高に入ってみると中学校の新校舎の方が綺麗でいいな、程度の印象しか持てなかったのもやむを得まい。今、幻想のように浮かんでくる青高校舎は、実は小学生のときにみた新築建物のイメージで、現実に高校生活を送った校舎のリアリティはない。人間の記憶は、時間軸に沿って構成されているのではなく、過去はすべて同じ過去で有り、その中で印象深い事象が記憶のなかから読み出されるのだろう。

だが、この年になってようやく小学生時代の父親との思い出が浮かんできたのは、実はサッカー部OB会の存在を介してである。

筆者は知らなかったのだが、平成15年6月7日に「青高サッカー部OB会設立総会」が渋谷東部ホテルにて開催されていた。何かの拍子に青高を「ググって」みると、そのOB会のホームページに到達した次第だ。何と!と感激して、幹事の方に連絡をとり、間近のOB会に出席できた。会場は青山高校、グランドでサッカーに興じた後、教室でOB会となっていたのだが…そのとき、校舎は一変して“新築”されていたことも知った。

そうか、すでに50年近く経っている。タイミングとしては当然、と何か新しいものに期待感を持って、現地へいってみた。そかし、その新校舎は、新しくはあるが、際だっているとは感じられない。回りに、或いは東京中に種々雑多な新築建物ができているため、都立高校の校舎程度ではデザインとしての新しさを感じないのかもしれない。

また、それと共に、旧校舎が無くなったという喪失感が湧いて来るのも禁じ得なかった。だが、この喪失感によって思い出が浮かんできたとしたら、ともあれ、OB会設立に努力されたOB諸氏のお蔭だ、と感謝せねばなるまい。
(2006/1/2初稿)

        

幻想の中の少年野球~年始に~

2013年01月01日 | 回想
小学校高学年の時代。当時はサッカーなど知るよしもなく、野球に明け暮れる毎日であった。学校が終わるとき、友達と今日はどこにあつまる、と決めては野球の道具を持って、家からその場所へ急いだ。

小学校へ上がる以前からゴムボール、三角ベースの草野球に慣れ親しみ、ラジオでプロ野球の実況中継を聞き、新聞のスポーツ欄をみて巨人の成績に一喜一憂していた。新聞では、漢字を読めなくてはわけがわからない。だから、プロ野球チーム、選手の名前の字は、必然的に読めるようになった。

そういうわけであるからプロ野球は小学生以前に後楽園で初観戦、確か昭和28年の巨人対阪神戦のナイターだったと思う。川上、与那嶺、千葉もいたが、ナイター光線にキラキラ光る南村の黒バットが今でも印象に残っている。

3年生の時、近所の遊び仲間6名とチームを作った。6年生2名、5年生2名、4年生1名と最年少の私である。6名では正式の野球にならない。そこで、5年生のひとりがクラスの友達を引っ張ってきて10名以上になった。最年少であったが、それでも私自身は投手を志望し、他の5年生3名の投手と交替で出場していた。もちろん、5年生からはワンマンで、フォームが当時国鉄スワローズで巨人キラーだった金田に似た(と言われたことがある)サウスポーとしてならしていた。

話は3年生の時に戻り、夏休みに少年野球大会があることを知って出よう、出ようということになった。その時の主催者は警察で、どうも非行防止の観点から少年野球を推進していたらしい?近所の警察署に行って、届出の手続を聞き、組合せ抽選会もそこで行われた。

ともかく、その警察署に入ったのは野球大会の時だけである。規定の中に誰か大人が統率者として必要であることを知って、皆で相談した。その頃、子供の野球チームの面倒をみるような親はいなかった(できなかった)。

丁度、5年生のひとりに二十歳を過ぎた年が離れた兄弟がいた。普段もたまに遊んでくれることもあって、その人に頼んでみようということで快諾を得た。ただ、それは形式だけであって、今風のコーチではない。

さあ、練習はどこでやろう?近くの空き地を探して集合し、或いはそこに先客がいると皆で別な場所まで走っていく。少し遠くにある大学、企業のグラウンドに(当然)無断で入り込む。統率者に頼んだお兄さんに公共のクラウンドを予約してもらう等々。

用具は?「瀬戸内少年野球団」の世界よりはあとの年代で、流石に母さんが夜なべをして作った手縫いのグローブという美談はなく、各自買ってもっていた。バットは何人かがもっていて適当に使っていた。ユニフォームまでいくと、チームとして揃えるなどという話は全くなく、てんでバラバラで短パン姿もいたはずである。水筒を持っていくこともなく、喉が渇いたらその辺の水道の蛇口から水を飲んでいた。当然、応援に来る親などいるわけがない。

大会には色々なチームが出ていて、帽子だけは揃っているとか(その時、この程度は揃えるべきとの説もでた)、コーチがひとり指導しているとか、ユニフォームは着ていないがチーム名は胸に書いてあるとか、何となく覚えている。審判は全然知らない人で、これは主催者が募って集めた人たちであろう。

最初に出場したとき、1回戦は楽勝であった。随分得点をいれたと思うが、この時、審判の説明で移動ベースと固定ベースという言葉があり、ルールは固定ベースということを覚えた。話が通じますか?結局、2回戦敗退であったが、その時の相手チーム名が「Sタイガース」。中学校で一緒になる隣の小学校のチームであった。では、我がチーム名は?それが覚えていないのだ!!

でも、ともかく自分たちでやった(やるしかなかったし、それが当然だった)。野球が好きで夢中でやった。だからチーム名など、どうでもよかったのだろう。

時は移って、学校ごとに少年サッカークラブがある時代。クラブ活動でサッカーを経験した、あるいは経験をしていない親たちがコーチをする時代…サッカーをすることに余り関心がなくとも、子どもがサッカーをする時代…優れた選手は、Jリーグクラブの下部組織でサッカーをする時代。何か判らないが、路線がある時代。

そんな中で、チーム名などは忘れ、ただサッカーに夢中になっている少年たち…。それが私の初夢にあらわれるだろうか。
(2006/1/1初稿作成)