散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

幻想の中の野球少年~年始に、自らの原点を顧みて、省みる

2014年01月01日 | 回想
小学校高学年の時代。当時はサッカーなど知るよしもなく、野球に明け暮れる毎日であった。学校が終わるとき、友達と今日はどこにあつまる、と決めては野球の道具を持って、家からその場所へ急いだ。

小学校へ上がる以前からゴムボール、三角ベースの草野球に慣れ親しみ、ラジオでプロ野球の実況中継を聞き、新聞のスポーツ欄をみて「巨人」の成績に一喜一憂していた。新聞では、漢字を読めなくてはわけがわからない。だから、プロ野球チーム、選手の名前の字は、必然的に読めるようになった。

そういうわけであるからプロ野球は小学生以前に後楽園で初観戦、確か昭和28年の巨人対阪神戦のナイターだったと思う。「川上、与那嶺、千葉」もいたが、ナイター光線にキラキラ光る「南村」の黒バットが今でも印象に残っている。

3年生の時、近所の遊び仲間6名とチームを作った。6年生2名、5年生2名、4年生1名と最年少の私である。6名では正式の野球にならない。そこで、5年生のひとりがクラスの友達を引っ張ってきて10名以上になった。最年少であったが、それでも私自身は投手を志望し、他の5年生3名の投手と交替で出場していた。もちろん、5年生になってからはワンマンで、フォームが当時の「国鉄スワローズ」で巨人キラーだった「金田」に似た(と言われたことがある)サウスポーとしてならしていた。

話は3年生の時に戻り、夏休みに少年野球大会があることを知って出よう、出ようということになった。その時の主催者は警察で、どうも非行防止の観点から少年野球を推進していたらしい?近所の警察署に行って、届出の手続を聞き、組合せ抽選会もそこで行われた。

ともかく、その警察署に入ったのは野球大会の時だけである。規定の中に誰か大人が統率者として必要であることを知って、皆で相談した。その頃、子供の野球チームの面倒をみるような親はいなかった(できなかった)。

丁度、5年生のひとりに二十歳を過ぎた年が離れた兄弟がいた。普段もたまに遊んでくれることもあって、その人に頼んでみようということで快諾を得た。ただ、それは形式だけであって、今風のコーチではない。

さあ、練習はどこでやろう?近くの空き地を探して集合し、或いはそこに先客がいると皆で別な場所まで走っていく。少し遠くにある大学、企業のグラウンドに(当然)無断で入り込む。統率者に頼んだお兄さんに渋谷区(初台に居住)の管轄のクラウンドを予約してもらう等々。

用具は?「瀬戸内少年野球団」の世界よりはあとの年代で、流石に母さんが夜なべをして作った手縫いのグローブという美談はなく、各自買ってもっていた。バットは何人かがもっていて適当に使っていた。
ユニフォームまでいくと、チームとして揃えるなどという話は全くなく、てんでバラバラで短パン姿もいたはずである。水筒を持っていくこともなく、喉が渇いたらその辺の水道の蛇口から水を飲んでいた。当然、応援に来る親などいるわけがない。

大会には色々なチームが出ていて、帽子だけは揃っているとか(その時、この程度は揃えるべきとの説もでた)、大人のコーチがひとり、指導者だったとか、ユニフォームは着ていないがチーム名は胸に書いてあるとか、何となく覚えている。審判は全然知らない人で、これは主催者が募って集めた人たちであろう。

最初に出場したとき、1回戦は楽勝であった。随分得点をいれたと思うが、この時、審判の説明で移動ベースと固定ベースという言葉があり、ルールは固定ベースということを覚えた。話が通じますか?結局、2回戦敗退であったが、その時の相手チーム名が「Sタイガース」。中学校で一緒になる隣の小学校のチームであった。では、我がチーム名は?それが覚えていないのだ!!

でも、ともかく自分たちでやった。やるしかなかったし、それが当然だった。野球が好きで夢中でやった。だからチーム名など、どうでもよかったのだろう。

時は移って、学校ごとに少年サッカークラブがある時代。クラブ活動でサッカーを経験した、あるいは経験をしていない親たちがコーチをする時代…サッカーをすることに余り関心がなくとも、子どもがサッカーをする時代…優れた選手は、Jリーグクラブの下部組織でサッカーをする時代。何か判らないが、路線がある時代。それに乗って選手が育てられる時代。

そんな中で、チーム名などは忘れ、ただサッカーに夢中になっている少年たち…。それが私の初夢にあらわれるだろうか。
(2006/1/1初稿)

      

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