散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

屈折する米国の日本観(3)~日米間の地位変動とイメージギャップ

2014年09月20日 | 現代史
「半年のうちに世相は変わった」、これは「堕落論」冒頭の坂口安吾の言葉だ。しかし、直ぐに「人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ」と言い放つ。安吾の言うとおり、人間は敗戦前後で簡単に変わるものでもない。

しかし、慰安婦問題に関連し、冷泉彰彦氏は「JMM2013/8/10」で次の様に云う。
『米国の政府も世論も、かつての日本は「敵」であったが、それは「古い日本」であって、戦後の「新しい日本」は、アメリカにとって最も近く、最も親しみのある友好国だとの共通理解を持つ。』

「悪しき古い日本」と「親しみのある新しい日本」を米国の政府と世論は明確に区別する。それは米国が日本を変えたということではなく、戦後日本の平和志向の行動パターン、ソフトパワーのためだ。』

政治体制に対して時代的に区別は出来る。しかし、人間に関してそう簡単に区別が出来るだろうか。岸信介は良く知られている様に、戦前は商工相、戦後は首相だ。それを含めて公職追放と復帰の劇もあった。安吾が言うように、人間は変わりもするし、変わらないでもいるのだ。また、時代的に区別をしたとしても、その時代の全てが悪、全てが善というわけでもない。

先の2回の記事で、米国のヒット作品であるテレビドラマ「将軍」、ミュージカル「太平洋序曲」、についての永井陽之助の分析を紹介しつつ、慰安婦問題に関連して考察した。当然これらは、米国の一般人の考えを知るためだ。
 『屈折する米国の日本観(1)140918』
 『屈折する米国の日本観(2)140919』

「将軍」では、欧米人の思考の基底に古代ペルシャに由来する東洋イメージがあり、慰安婦問題での性奴隷との表現の中に、性と専制の世界を再確認する発想があること、また、「太平洋序曲」では、日本を近代国家に育てた米国の功績とのの視点があり、性奴隷との表現が、啓蒙主義的な負のユートピア思想として政治問題化されたことを指摘した。

これらは、意識の底に潜んでおり、表層での「親しみのある新しい日本」と矛盾無く共存し、社会状況によって、励起される。従って、冷泉の指摘だけでは不十分であり、例えば、日米経済摩擦のおりに出てくる「サプライズアタックを掛ける日本」とのイメージはでてこない。

この点について、経済的地位の相対的変化に起因する互いのイメージの違いが誤解をもたらすと永井は次の様に述べる。
「日本は圧倒的な米国経済に対して未だ対等な競争は無理と考え、米国は官民一体の日本株式会社が、安全保障にタダ乗りし、米国に挑戦しているとみる」。
 『イメージギャップの中の日本1972年140614』

更に、1985年頃のジャパンプロブレムに関して、戦前から続く日本の社会の不透明性について、「貿易摩擦とは、グローバルな経済とローカルな政治との松涛から生じるもので、政治は人間や文化という、元来不透明で、ドロドロしたものと係わる、しかし、米国は建国の精神からこの世界から不透明性を除去する開かれた社会を目指す」と指摘している。

ここでは、「親しみのある新しい日本」が、米国とは異質の価値観と生活習慣を有し、それ故に米国とぶつかることを明確にしている。それが国際政治であり、外交を必要とする所以だからだ。冷泉説は余りにも世界を単純化し、アメリカ的価値を押し付けることになる。

また、慰安婦問題に関しては、冷泉の指摘する「古い日本」の名誉回復を志向しているわけではない。その問題はすでに韓国と日本の政府同士で決着済であるし、日本は基金を設立して補償に対応している。虚偽をベースにした誇張した表現に抗議しているだけだ。その意味で朝日新聞の記事抹消と謝罪は、基本的に国内問題である。

しかし、大切なことは、一年以上も前の記事に書いた様に、沈黙文化・黙殺文化を打破することだ。おそらく、日米経済摩擦の問題においても、日本の主張を理解させることが不足で米国流のロイヤー的論理に押されていたのではないか。東アジアにおける近隣外交もまた、基本的に同じ問題を抱えている。
 『外国に対する「黙殺文化」と直截な翻訳表現130618』


      



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