散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

〈戦場〉はいつでも海の向うにあった ~戦後マイホーム思想の原点

2011年08月15日 | 国内政治
花森安治の詩、「戦場」は『一銭五厘の旗』(暮しの手帖版)に掲載されている。これを読んだとき、この鮮やかな表現の中に戦後平和思想に繋がる原体験が記されているように感じた。日清戦争、日露戦争が同じ戦争なのに、何故、太平洋戦争と比べて肯定的に評価されるのか、子供のころから何とはなしに疑問に思っていたからだ。
勝ち負けは確かにある。しかし、勝とうが負けようが、人間が死んだことには変わりない。戦争が悲惨さを含んでいることは勝ち負けとは別の原理的問題である。

それが、この詩によって氷解させらるかのように、判ったと思ったのだ。
そうだ、日清戦争、日露戦争は海の向こうで戦っていたのだ。〈戦場〉は海の向うにあったのだ。
しかし、太平洋戦争では、
『その〈海〉をひきさいて数百数千の爆撃機がここの上空に殺到している』のだ。太平の眠りを醒ます太平洋からの黒船ショック、その次は同じ太平洋でも空からのB-29ショック、これによって海も陸も関係なく「日本列島」は戦場になり得ることを知らしめられたのだ。原理の問題ではなく、自分自身の生活に直接影響するかどうかが判断基準である。

だが、『ここは単なる〈焼け跡〉にすぎず、単に〈罹災者〉であった』『しかし ここが みんなの町が〈戦場〉だった』のだ。これまで、生活の場が〈戦場〉になることはなかった。

しかし、今は違う。生活の場=〈戦場〉になる。この“私生活の戦争化”に対する終戦意識、すなわち、私生活防衛の思想が戦後の平和思想の基本的立脚点である。それが戦後経済成長と共に『マイホーム主義』として開花している。
(永井陽之助『解説政治的人間』(「政治的人間」所収))

マイホームを楽しむ庶民生活の中に、花森安治の頭に描いた生活の風景と異なったものが含まれているかもしれないが、しかし、詩「戦場」で表現した思想が花森安治の具体的な仕事のなかで強烈に主張され、それが多くの人に影響を与えていることは確かであろう。

花森氏は『この〈戦場〉で死んでいった人たちについてはどこに向って泣けばよいのか』と詩の最後で問うている。しかし、その願いはこの世の中では無視されているに等しい。

     
   


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