千早赤阪村は、楠木正成(くすのき・まさしげ)出生の地です。
皇室の歴史で、南北に別れて二つの皇統が存在した時代があります。鎌倉幕府から室町幕府へ政権が移る時代です。
南朝、後醍醐天皇に仕えて武勇を誇った武将が楠木正成。この地に城を築いて北朝軍の攻撃に耐えました。結果的には南朝は軍事力によって屈服し、北朝に合一されます。
楠木正成は湊川(神戸市)の戦いで尊氏の軍に破れて自害。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれました。
ところがそれから数百年後、明治時代になると一転して南朝系統が正統であるとの解釈が、明治天皇政権で決定されました。それまで賊軍の大将だった正成は、反転して正義の将となりました。
(その背景や皇統解釈は、wiki読んだけれど、説明が長すぎるし複雑で、なんで明治天皇になってひっくり返したのか、よくわかりません。どなたなコンパクトに解説してください)
東京の皇居前公園に、楠木正成が馬に乗っている銅像が有ることを思いだしました。
その記念碑がある公園の隣には、記念館と道の駅(「日本一かわいい」)がありました。
~~
河内紀行文が長くなるのですが、もう一カ所記録しておきます。
千早赤阪村と富田林市の間に、河南町がありそこに、西行法師の墓のある弘川寺があります。道路標識でそのことを知り行ってみました。
山間の静かなお寺でした。
西行堂。
弘川寺は役行者の開基でその自作といわれる薬師如来像を本尊として、天武朝期に勅願寺となり行基や空海もここで修行したと伝えられています。江戸時代中期広島の歌僧、似雲法師は西行を慕ってその墓を探し歩きました。ついに、この寺であることを尋ね当て、当山に庵を結んで、西行堂を建立。自らもここに没しました。
さらに裏山を登ると、
広場になっていて、その奥にある塚が西行の墓です。
それと向かい合うように、似雲法師の墳がありました。
この広場とその奥の山一帯には、西行が好きであった桜をたくさん植えてありまあした。春に開花する時期にはさぞ見事なことでしょう。
皇室の歴史で、南北に別れて二つの皇統が存在した時代があります。鎌倉幕府から室町幕府へ政権が移る時代です。
南朝、後醍醐天皇に仕えて武勇を誇った武将が楠木正成。この地に城を築いて北朝軍の攻撃に耐えました。結果的には南朝は軍事力によって屈服し、北朝に合一されます。
楠木正成は湊川(神戸市)の戦いで尊氏の軍に破れて自害。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれました。
ところがそれから数百年後、明治時代になると一転して南朝系統が正統であるとの解釈が、明治天皇政権で決定されました。それまで賊軍の大将だった正成は、反転して正義の将となりました。
(その背景や皇統解釈は、wiki読んだけれど、説明が長すぎるし複雑で、なんで明治天皇になってひっくり返したのか、よくわかりません。どなたなコンパクトに解説してください)
東京の皇居前公園に、楠木正成が馬に乗っている銅像が有ることを思いだしました。
その記念碑がある公園の隣には、記念館と道の駅(「日本一かわいい」)がありました。
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河内紀行文が長くなるのですが、もう一カ所記録しておきます。
千早赤阪村と富田林市の間に、河南町がありそこに、西行法師の墓のある弘川寺があります。道路標識でそのことを知り行ってみました。
山間の静かなお寺でした。
西行堂。
弘川寺は役行者の開基でその自作といわれる薬師如来像を本尊として、天武朝期に勅願寺となり行基や空海もここで修行したと伝えられています。江戸時代中期広島の歌僧、似雲法師は西行を慕ってその墓を探し歩きました。ついに、この寺であることを尋ね当て、当山に庵を結んで、西行堂を建立。自らもここに没しました。
さらに裏山を登ると、
広場になっていて、その奥にある塚が西行の墓です。
それと向かい合うように、似雲法師の墳がありました。
この広場とその奥の山一帯には、西行が好きであった桜をたくさん植えてありまあした。春に開花する時期にはさぞ見事なことでしょう。
では、なぜ、水戸光圀は南朝を重要視したのか、が次の疑問になりました。
”天皇に忠実であったとされる楠木正成をほめたたえ、幕府から天皇方にのりかえたあげく、後醍醐天皇にも逆らった足利尊氏を逆賊と見なす考え方が出てくるようになりました。”
・・・尊氏は途中で裏切って北朝についたので武士の風上にもおけぬというわけですか。・・容保のように将軍に忠義を尽くしすぎて、領民を無駄死にさせるのとどっちもどっちですね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314851148