朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

赤山禅院の紅葉

2011-11-30 | 京都の文化(秋)
この日は曇り空でしたが、比叡山の麓、京都盆地側にある赤山禅院に紅葉狩りに出かけました。



禅院という名前なので、禅宗かと思いきや、実は天台宗でした。さらにいえば、入り口脇に「赤山明神」と彫られた大きな石碑がありました。明神とは神社?



さらに複雑なことに、参道には七福神の幟が色とりどりに並んでいて、境内の福禄寿殿が「都七福神」の一つとされています。

「皇城表鬼門」との看板、それもとても由緒ありそうな、が掛かっています。当時、皇居、今の京都御所、の東北の方角は「鬼門」といって鬼(悪魔)の来る縁起の悪い方角と考えられていました。そこで、その方角に寺院を建てて鬼の攻撃から防御したのでした。



境内の横手と奥には、多くの小さな社も並んでいまして。

神仏習合の典型的なお寺だと思いました。すこしネットで勉強してみました。
「神宮寺」なる仏教の寺が歴史的に設立された時代があり、「豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり」や、「神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在として見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった」と説明されています。(簡便にWikipediaで「神仏習合」記事より。本来は典拠のしっかりした書物で学習するべし)

さらに「仏教の天部の神々も元はヒンドゥー教の神であったように、日本だけでなくインドの地域社会や中国においても、それら土着民族の神々を包摂してきた歴史がある。仏教にはそのような性質が元々具わっていたことが神仏習合を生んだ大きな要因であった」とあって、この夏、インドにてヒンドゥー教の神像をたくさん見てきたので一層興味深いです。

明治時代には「神仏分離」が命令され、全国各地で「廃仏毀釈」運動がおこったのですが、そんな時代をどうくぐり抜けたのでしょうか。



それほどは有名ではないため、比較的静かに散策することができました。
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