朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

「蘇った幻の名城 安土城天守」

2016-04-03 | 国内各地の風物

先日、安土考古博物館を見学した時、おとなりにある「信長の館」にも入ってみました。

この巨大なジオラマは考古博物館の展示です。当時このあたりには琵琶湖に繋がる内海があり、小高い山が湖に突き出していました。

この地形を利用して、内海の水を防御の堀にして、この山全体を城に作り上げました。

麓の大手門(ジオラマの下の水に面した平地部分)からは、広幅の大手道石段が山上に向かってまっすぐ登っていく構造になっていて、その両側には武家屋敷などが連なっていました。

この城の構築を信長に命じられた棟梁の苦労と工夫を小説にした山本兼一氏の「火天の城」を読んだことがあります。奇想天外なアイディアを持ち、短気な織田信長の意向を汲みとって、地形を整えてこの城と周辺の屋敷群を短期間で完成させます。

これが山上に輝く天守閣の復元図です。

安土城の完成披露は石田三成らの采配で滞り無くとり行われたのですが、その後まもなく天王寺の変が起こり、戦乱がはじまり完成した安土城は焼き討ちにされてしましました。完成後3年間の寿命でした。

当時の数少ない資料を元に、約400年後に天守閣が実物大で再現されました。1992年スペイン・セビリアで開催された万博に、この朱塗りの部屋が出展されました。

その後安土市町が譲り受け、解体移築し、新たに当時のめずらしい瓦を焼いて屋根をふき、金箔10万枚を使用した外壁や、狩野永徳の障壁画なども再現してありました。

万博の後、それを安土町が譲り受けてその上の階と屋根、鯱も再現したのです。

CGを駆使したヴァーチャルリアリティの短編映画も作成して、放映しています。

安土城の天守閣の形式は、その後の日本の城郭のモデルになりました。特に、戦国時代が終わり戦闘用の城から、大名の威信を見せつけるモニュメントの役割が大きくなると威風堂々の天守閣を有する大きな城が平地に作られるようになりました。

まだまだ国としては経済力が乏しい状況だったと思いますが、こんな巨大建築と華美な装飾はものすごい無駄遣いと思います。しかし、別の見方からは、いわゆる「公共投資」であり、農民は酷使されたのですが、建築職人が育ち、美術工芸が発展し日本文化の基礎ができたといえるでしょう。また城下町では楽市楽座なる自由市場が推進され、そのような経済政策が全国の城下町に拡大しました。

 

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