トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

『岸信介の回想』から(4)

2007-06-30 14:25:21 | 日本近現代史
承前

○吉田茂は憲法改正論者

《岸 〔中略〕立候補して当選したら、吉田さんが私を呼んで憲法調査会の会長をやれと言う。しかし私は獄中を通じて、新憲法はいかんと考え、改憲論者になっているけれど、その私に憲法調査会長をやれというのはどういう意味かと問うた。すると吉田さんは、お前の思うようにやったらいい、俺も今の憲法は気にくわないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかんと言う。それで私は会長を引き受けた。
〔中略〕
 岸 吉田さんは憲法改正論者だったんです。しかも占領軍がいる間に改正しないと、できなくなると言っていた。その意味で私に思うようにやれと言ったのですよ。
 矢次 吉田さんが憲法改正論者だったということは世間にあまり知られていない。》(p.102~103)


○鳩山一郎の後継総裁選(1956年12月)について

《――岸さんを推す勢力としては河野一郎のほか、佐藤栄作派、大麻唯男派といったグループで、それに対し石井光次郎のほうはもっぱら旧自由党系ですね。石橋湛山は混成軍ということなるんでしょうが、石橋がひょっと浮び上がってきたというのは・・・・・・。
 岸 それを工作した一番の中心は石田博英君でしょう。
 矢次 もっぱら石田君です。彼は石橋さんとは東洋経済とか、日本経済新聞とかの関係があって、突如として担ぎ出したわけだ。
 岸 石田君は三木武夫、松村謙三さんらを主力として石橋さんを担いだ。
〔中略〕
 岸 石井さんを支持した旧自由党系のなかでも、たとえば北海道出身の篠田弘作君などの緒方さん直系の石井派ですが、第一回の選挙で一位のものを決戦では支持すべきだ、といって二回目は私を支持してくれた。
 ――旧自由党系は分裂したわけですね。
 岸 そう。石井首脳部と石橋首脳部との間には、二、三位の連携工作があったわけだけれど、旧自由党系は池田勇人君と弟の派が二対一ぐらいで割れたんじゃなかろうか。それで池田派は二回目に石橋さんを応援したわけだ。》(p.156~157)


○石橋湛山

《――岸さんの石橋湛山観はいかがですか。
 岸 まあ石橋さんの経済に対する発言は、日本経済の進展の上に功績があったと思いますが、人柄としては、私は三木武吉に感心していたようなものは感じなかったし、そうかといって、松村さんに対するような反発する気持もない。
 矢次 石橋さんは淡々とした人で、民間人であったけれど党人ではない。政治的、権力的な欲のない人で、一言で言うとジャーナリストです。》(p.158)


○小選挙区制

《岸 私はね、小選挙区制を、自民党が国会で三分の二の勢力を確保するという目標で考えたのではない。そもそも私は二大政党論者で、政党が小さく分裂するというのは議会制民主主義を行っていく上において望ましくはない。ところが小選挙区制にすれば二大政党になる傾向が助長されるんです。というのは仮に小選挙区制になれば、自民党は現役優先にせざるを得ないから、若い人で出ようとする人は自民党から出られなくなる。そうするとね、社会党は人物がいないから、彼らは社会党に入りますよ(笑)。その結果社会党の性格は変ってくるし、二大政党として、政権を民主的に交替できる政党になると思う。
 それと私の体験からいっても、同じ選挙区で、同じ党に属する兄弟が争うなどというのも意味をなさない(笑)。〔中略〕結果として最初は自民党が有利かもしれないが、ある年限をもってして、社会党が政権交替能力のある政党になるには小選挙区制でしかあり得ない。今の中選挙区では社会党は何年やっても伸びっこない。だから私は小選挙区制にすることが、日本の政党政治を健全に発展させる基礎であると信じているんです。
 ――社会党育成論ですね。少し後に、石田博英さんが今日のような調子では何年後かに、社会党が第一党になるという予見を『中央公論』だったかに書いたことがありますが。
 岸 私は逆だ。今では社会党の中でも、私の考えのように小選挙区制を採用しなければだめだという議論をする人がいる。亡くなった片山哲さんもそうだった。私が小選挙区をやろうじゃないかと言ったら、憲法改正をやらないということをはっきりすれば小選挙区制をやってもよい、という話をされたことがある。》(p.161~162)


○浅沼稲次郎

《――浅沼さんについての感想はどうですか。
 矢次 岸さんとしては幹事長、書記長という関係だろうな。個人的に知っているという点ではぼくのほうだ、大正十年からだからね。
 岸 浅沼君は社会党を代表するし、私は民主党、自民党の幹事長ということですよ。ただ私の感じでは磊落そうでなかなか神経が細かかったと思いますよ。風貌や態度からすれば常識的な人でしょう。
 矢次 日本の社会主義運動には二つあるんです。大学でいうと東大の新人会をスタートにする流れ、河上、麻生、赤松、三輪。もう一つは早稲田の建設者同盟の浅沼、三宅。そのなかで浅沼だけ浮きでる理由がひとつあるけれども、東大派、早稲田派との長い歴史のなかで比較的うまくいった時代は麻生。麻生が親方で浅沼が番頭、三輪が世話女房、河上は賢夫人、このチームワークが昔の社会大衆党なんだ。麻生が死んでばらばらになる。三輪・浅沼のコンビは両方とも周密、細心で情が深い。浅沼がアメリカ帝国主義は日中両国の共同の敵とかどえらいことを言うのもぼくらは理解できる点があるけれども、とにかく、すっとんきょうなことを言う。そこが憎めない。〝沼〟さん、と簡単な言葉でだれからも好かれる。彼は理論的政治家ではなくて情緒的政治家ですよ。
 岸 そのとおりだ。浅沼君を批評するのに情緒的政治家というのは名言ですよ。》(p.193~194)

 さらに「共同の敵」発言について。
《矢次 しかしあの時の中共の雰囲気は、浅沼をしてああいうことを言わしめるような厳しいものだったようだ。浅沼君の演説を聞いた毎日新聞の随行記者が私の所で報告したことがあるが、その話では、中共側は激しく岸内閣を批判するのはもちろんだが、社会党に対してもかなり厳しい批判を加えたんだね。それに浅沼が社会民主主義の立場で話をしているというのが変になまぬるい印象を与えた。それでは少し強いことを言わなければいかんというので、なにげなく浅沼がポカッと発言したというのが真相で、深く思うところがあっての発言ではない。だからなにげなく投げたのが爆弾だったから、本人もびっくりした(笑)。》(p.216)


○清瀬一郎

《矢次 清瀬議長は警官導入の前、十七日に党籍を離れている。彼は前々から議長は党籍を離脱すべきだという原則論をもっていましたね。それでこれがチャンスだというので自民党から離脱したけれど、そうしないと警官導入が党から指図を受けてやったと誤解されかねない。議長の権威に傷がつく、清瀬という人はそう思ったでしょう。
 岸 あの人はそういう人ですよ。
 矢次 清瀬一郎は、戦前だれもやらないような志賀義雄の共産党事件の弁護を引き受けてみたりする、昔流の本当の自由主義者なんだ。》(p.241)


○安保闘争について

《――〔中略〕全学連問題についてはどういうふうにお考えでしたか。
 矢次 全学連はマスコミでは大きく書かれたけれども、政府が当面したものとしては大きなものではなかったんじゃないかな。
 岸 そうね。全学連が安保改定阻止、反対の中心勢力とは考えていなかった。
 ――羽田事件もたいしたものではなかったという感じですか。
 岸 そうですね。たいしたことではなかった。》(p.236~237)

《私は樺美智子さんが亡くなったということは、単純な一人の人間が何かの関係で死んだということではなしに、警備力の最終的責任者として、デモを規則正しく行なわしめることができなかったという責任を感じました。だから警備ということを考えて、アイクの日本訪問を断ったんですが、あの頃警察官はほんとうに疲れ果てていた。機動隊の数も少なく、装備も悪いし、訓練もしていない。近頃のデモをみると、実にうまく暴れ出させないよう自然に流してやっているし、国賓が来ても、飛行場からヘリコプターで連れてくるでしょう。当時はまずそういうことは考えなかったから、陛下自身がお迎えに行かなければいけない。そういう警備を考える時、これはできない、もし何かの間違いが生じたら、総理がほんとうに腹を切っても相済まない。それで私としてはどうしても警備に確信がもてないと思って断ったんです。》(p.242)

《岸 自衛隊を出すべしという議論がありましたね、でもあの騒ぎは内乱でも革命でもないし、それに自衛隊に発泡させれば強いけれど、警備ということになれば警官の方が専門家だから、それはだめだ。むしろ出動させれば自衛隊の権威を失墜せしめるだけだ、赤城君はそういう意見でしたよ。
 少し極端な言い方だけど、私に言わせれば、一部の者が国会の周りだけを取り巻いてデモっているだけで、国民の大部分は安保改定に関心をもっていない。その証拠に国会から二キロと離れていない銀座通りでは、いつものように若い男女が歩いているし、後楽園では何万人の人が野球を見ている。日本が内乱的な騒擾だと受けとった外国もあるようだがこんな内乱や革命があり得るわけがない。》(p.243)
 自衛隊の出動を要請したのは岸自身もまたそうではないのだろうか。なんだか人ごとのような言い方だ。


○岸の後継総裁選(1960年7月)について

《――〔中略〕岸さんが池田を推された理由は何ですか。
 岸 私は何といっても三人のうちでは、池田君が総理として適任だと思った。
 矢次 そういってしまうとそのとおりだが。
 岸 過去の因縁からいえば、石井さんは岸内閣の主流派の一部、藤山さんは岸さん自身が連れてきたということでかなり義理もある関係なんですが。
 岸 安保の問題があります。藤山君には今回は立つな、自重して次の機会を待て、と。なにしろ安保の外務大臣だし、私が辞めた理由とかさなることも話したんだけれどもね。〔中略〕
 矢次 岸さんが藤山さんをとめる前に川島幹事長がかなり厳しくとめている。岸さんが一番藤山さんから恨まれているのは、岸派から藤山派に行っていた者を選挙の時に全員引き揚げさせて、池田派に流すべしという措置をとったことだな。川島がやったことかもしれないが。
 岸 いや、私がやったんだ。川島君はぐずぐずしていたけれども、私の派で、池田のほかに藤山君、大野君のところへ行ったのを、いよいよ最後の時に全部引き揚げて、池田をやれと言ったんだ。それで藤山君にも大野君にもひどく恨まれたんだ。
 矢次 総裁公選で負けた晩、藤山さんが私の飲んでいるところへ来て岸さんは冷たいよ、としみじみ言う。私は弱ってしまって、しかし藤山さん、それは岸さんが冷たいんじゃなくて政治というものの非情さじゃないか、と言ったことを覚えている。》(p.245)


○佐藤内閣、三木外相

《岸 弟のことを人事の佐藤というが、これは大嘘で、あのくらい人事のまずいヤツはいないよ(笑)。
 たとえば三木君を外務大臣にしたでしょう。私は反対したんだ。他の大臣ならいいが、日米安保条約改定の最後の決定の時に、彼は議場を退席した男だ、アメリカはそれを知っている。〔中略〕そうしたら、弟は、兄さんの言うことは、当時の党内の派閥抗争からきている問題であって、そういうことにいつまでもこだわっているのはまずい、と言ってね。ところが半年も経たないうちに、三木君の外務大臣に自分で反対しだした。そらみろというんですよ(笑)。》(p.252)


○椎名裁定

《岸 〔中略〕椎名君は椎名裁定で三木内閣をつくったけれども、その椎名君自身が一年経つか経たないかで、三木おろしの先頭に立ったように、あの裁定はおかしなものだった。
 矢次 その通りで、椎名君は個人的に三木という人間を知らないでしょう。
 岸 私の想像ですが、椎名君が三木君を知っていたかどうかというよりも、椎名君は福田君に対して好意をもっていなかったことが、あの裁定になったんだと思う。あの時はだれが考えても総理は福田君で、まだ大平君ということでもなかった。
 矢次 無遠慮に言うと、川島、椎名、福田はみなかつての岸派で、椎名にすれば、自分こそが商工省、満州時代を通じて岸さんの弟分だと思っているから、その中から岸さんの跡を継いだのが福田だということについて、不満をもっていた。その長年の不満が積り積って、反福田ということになったんだね。》(p.253~254)

続く


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